1.
俺は、心地の良い夢を見ない。
2.
行き交う人々はみな幸福の感に満ち溢れている。いかにも楽しげで、至極平和な情景だ。里のそんな中心街を逍遥していた。全体に紗が掛かって見えている、雑踏で土埃を上げる大路。雲に覆われた空は溶けたバターのようだった。
文具屋の煤けた木製扉、それに陳列窓。光が展示品に反射している。やや腰を落として表の通りから輝きの正体を見定めようとした。窓枠の内は、そこのみが漂白されたように白い。目を凝らそうにも眩しくて、何が売られているのか明らかにはならなかった。
次の写真屋では、引き伸ばされた数々の現像品を硝子越しに眺めた。飾られている一点一点に注目を移していく。つぶさに目を遣った結果、どれもが知らない笑顔だった。
退屈感は埋められない。
未練なく軒先から出たこの身のそばを、棒飴を握った童女が吾の来し方へ、細い脚を懸命に回して走り去っていった。大げさな腕の振り方があの娘に似ていた。見返せども最早そこには影も無い。
大勢の流れに逆らわずにゆくと、奇抜な白塗り化粧の道化師が街頭で、人だかりに向かって慇懃なお辞儀をしていた。どこからか聴こえてくるアコーディオンの軽快な演奏。奏者の姿はなかった。生まれたての音を運ぶ空気が、頭上で揺らめいている。
明るい雰囲気をひとかた味わい、俺は街を後にした。
帰りの道で、大きな貸し本屋が見えてきた。四、五階建ての高さ。はっきりしないのは窓のない所為。
看板にもあるとおりの書籍のほかには音盤も取り扱っていた。ここにはあの人とよくふらりと出掛けたな、なんて思い返しながら店へ入る。周辺には何も無い。この店がたった一軒ぽつんとあった。しかし場所を考えると、どうも変だ。
(こんな道筋にはなかったはずだが。)
地平線まで伸びているこの一本きりの道を、通ったことなどなかったのだからよくよく考えてみればその指摘からしておかしい。それでも、曲がる角を一筋早まったのに似た気分を微かに覚えたくらいでそれ以上に深くは考え込まなかった。
マッチ箱を大きくしたようなのっぺりした造りの中へ入る。入店した俺は、屋上まで迷わず一気に上っていった。この建物の見取り図を知っている筈もないし、実際であるなら「部外者ノ立入ヲ禁ズ」の断り書きなり南京錠なりに阻まれているだろう。そもそもそんな所を目指す目的自体が不明だ。それにも関わらず、通い慣れた感覚でいて、有り得ないという不自然さなど微塵も感じていなかった。
それから、専ら任務でセルを組み一緒に殺生を繰り返していた後輩と、果てのない天を眺めて話をした。遮る風物が、木の一本も見当たらない。珈琲に泡立てた牛乳をのせたような色の空と、線が一本付いた大地と、この建物と。
(ウン、そうだ、俺の横には、テンゾウが居た。)
ずっとそこに居たように後輩が、いつの間にやら佇んでいた。暗部装束に身を包み、動物面を付けている。俺の方は正規部隊の忍服だった。
空に投げていた視線を足元へ落とすと、だいぶん下に地面があった。外観から見積もっていた倍はありそうだ。
どうやら俺はその、柵も囲いも設けられていない屋上の直角の縁で、膝を抱えて座っていたらしい。首を伸ばして、うんと下にある地面を覗き込んでみる。涼やかな風が頬に当たる。も一度、仰ぐ。と、空は、いつかの晴天だった。あの日の、天涯孤独になった七月の十三時と同じに澄んでいた。
今日の空の青はとても清々しくて、ここに青春時代を共に暗殺戦術特殊部隊という薄暗い所属先に捧げた後輩がいる。そこまで思うと、俺はなんだか急にしんみりとした気持ちになってしまい、立ち上がると、隣で話していたテンゾウに何らの別れも告げないで、彼の話を聞いている途中でするっと下に落ちた。
3.
俺は死んだ。
死んだ後なのに意識はあって、本当は生きているのではないかと思うくらいだった。どこにも違和感がない。直ぐに起き上がり、歩き出すことができた。
死んだからといって自然に三途之川の渡し場を目指す心境にはならないようで、到来したのは思いのほか手持無沙汰な時間だった。それで、とりたててすることもなかったので、他のお客と同じように、ここへ寄った初めに自分もそうしたように、今しがた自身が落っこちたばかりの建物の一階へ、再び入ってみることにした。
入口の扉を押すと、そこには俺の大好きな人がいた。彼がふとこちらを向いた。手に取っていた本を棚へ戻し、扉口へ近付いてくる。
(この人と、よくふらりとここへ出掛けたっけ。)
ここは俺が贔屓にしている店というよりは、この人の気に入りの店だった。
大好きな人には俺が見えているようだった。そうして彼は、あたかも生きている人間に接している態度で、いつもと全く変わらぬ話をしている。
「カカシさん。どこに行っていたんです。探しましたよ。もう用は済んだんですか。俺は、借りようかどうしようか迷っていたのがあったんですが今日はやめておくことにしたんです。」
その声も、また、自分の返事さえも、この耳には聴こえてこない。けれど彼の口振りは聞き慣れたものに違いなく、相手にも俺の声がしっかりと届いている。二人の会話は成立しているという意識だけがある。その状況を不思議には思わなかった。
彼は、目の前の男が死んだなんて疑いもしていない様子だった。普段通りでいる平静な彼について特別心を動かされることもなく、また彼に会ったからといって感傷の情が込み上げてくるでもない。この胸にあるのは、「ついに俺も死んだか」という程度の感懐だった。そして、俺が死んだことを伝えた。
イルカ先生は、俺を連れてどこまでも、どこまでも駆けた。どこまでもどこまでも、どこまでもひたすら二人で進んで行った。これが旅か、と思った。それは、何物にも束縛されていない時間だった。遥か彼方までの永い道のりは、淡い黄色に包まれていた。柔らかくて、仕合わせな空間を二人っきりでどこまでもどこまでも駆けて、彼はずうっと遠くの、雪の国に連れて行ってくれた。
しんしんと降り積もる雪で、視界は真っ白。地面は若干凍っているから気をつけないと滑って転ぶ。この地で育った子供たちは要領を心得ているのか、平気でそこいらを走り回っている。大きく丸めた雪を投げ合って遊んでいた。
それから、ここはとても寒い。
俺の肢体は、この土地に到着するころには自分の目から見ても透明人間みたいに透けてしまっていた。
町の広場で、一人の少年とその父親に逢った。正確には、目撃した。少年が折り畳み傘をきれいに畳めなかったから、父親は傘の骨の部分で「なんできれいに畳めない」と怒りながら少年の目を何度も殴っている。俺はそれに腹が立ったので、鈍色の薄い鉄板のような力でめいっぱい頭を殴ってやった。拳は透けてしまって役に立たなかったけれど、意識で操れる力がどうやらあるらしい。
周りにいた人間は驚いていた。一人の頭からいきなり真っ赤な血が流れ出したから。夕闇の迫る広場での出来事だった。
その後、俺たちは雪の国から木ノ葉の里に戻ってきた。帰りの道で、イルカ先生に窘められた。すごく不機嫌でいて、彼は真剣だった。怪奇現象でないあの一件を、誰が引き起こしたのか、その犯人を解っていたのだ。
「あんなことしちゃ駄目でしょう。」
帰郷はあっという間で、叱られているうちに着いてしまった。俺は結局しまいまで謝罪を口にしなかった。俺が謝るとすれば、その言葉は、あの少年に。
4.
大好きな人はソファに腰掛けた。そのソファとローテーブルの間に、挟まるように膝を抱えて座る。見たこともない家だった。長年住んだ自分の家でもなく、お邪魔したことのある彼の家でもない。けれど、見覚えのないここで俺たちは暮らしていたのだと思えた。それが、瞬く間に一切の理屈を抜いて間違いなくそうだという確信へ変わる。
(ああ、俺たちはここに住んでいたんだ。)
イルカ先生は寛いでいた。俺はなんとなく、もうこの人の傍に居られるのもあと少し、と実感していた。
そこはショールームみたいにきれいだった。手垢の付いた箇所もなく、洒落た家具に囲まれていて、理想的に整えられた完璧な部屋だった。
見納めとばかりぐるりと辺りに目を遣ると、シンクの銀色がピカピカに光っていた。誘われるように立ち上がった。いつから出しっ放しになっていたのか、蛇口から水がザアザアと流れていて、滝みたい。それを止めながら、最後にふと、思い出したことがある。
「俺さ、豪華な料理、一回も作ったことなかったね。」
「料理自体、作らなかったでしょう。」
「まあ、そうなんだけどさ。」
彼の答えは尤もだ。自分でも、終わりの刻になぜそんな話題を口にしたのか解らない。食事は彼に任せっきりで、作ってくれる日は献立が何でもそれを食べた。食べに行こうと促されればそうした。食に対する意欲が低く、調理どころか野菜を洗うことさえしたくない俺は、味噌汁の作り方も知らない。
「……一回くらい死ぬ気でがんばって、すごい料理を作ってみればよかった。」
「……。」
この手は、粉やソースで汚れていてさ。
包丁で、野菜を切るんだ。瑞々しい水が飛び散るだろう。
そうして作り出すんだよ、人を生かす物を。君が、今までしてくれたように。
俺がしてきたことの正反対のこと。
挑戦してみればよかった。一度くらい。
感謝してるよ。
手料理の尊さを教えてくれた、君の前に。この手を染めて。美味しそうな料理を一つ一つ、並べていくんだ。
その身を生かす目的の、温かい物がいい。卓に載り切らないくらい、所狭しと作り出すんだ。この手を下して。
君の為に。
出来過ぎの空間が心を前向きにさせるのか。水場に背を向けて振り返り、彼を見ながら冗談めかして喋り続けた。
「あ。ねえ、今、俺、見えてる?」
「……見えてねえよ。」
衝撃を、受けた。それは余りに大きすぎる。何気なく、聞いてみただけだったから。
「どこにいんの?」
言葉が出てこない。だって、話し掛けるたび、この、俺の大好きな人はちゃんと俺の目を見てくれていたのに?
ほら、今もそうだ。こうして、目は合っているというのに。
「いつから、俺が見えてないの?」
「雪の国に着いた辺りからですよ。」
この体が透き通ってしまった頃と重なる。では、帰りの旅路のあの時も、今のこの時もこの人は、耳に届く声をただ頼りにして眼差しをこちらに向けていたとでも言うのだろうか。目が合っているという思い込みは、俺の一方的なもの?
大好きな人の顔が、ぐにゃりと歪んだ。
(ああ、俺が、見えていないんだ。)
もう、ずっと見えていなかった。その事実を、口に出して認めさせてしまった。気丈な人は俺の気配と共に、一人でいたのだ。
どんなに意地悪を仕掛けられても俺になんか泣かされない人が数条の涙を流し、俯き、その頬を両手で隠した。
強い人が、崩れてゆく。
それまでちっとも悲しくもなく、潔い胸の内でいたのに、その人の悲しむさまを見た瞬間、俺はとっても悲しくなった。
こんなにも寂しそうな彼と。こんなにも傷付いている彼と。途端に、離れるのが嫌になった。ずっと傍に。寄り添っていたいと思った。けれど、逝かないといけない。俺はすっかり消えないといけない。そして、その時が差し迫ってきていた。
5.
そこで、目が覚めた。目蓋を開けた弾みで溢れ出た涙は頬を伝い、耳の穴にツウと入った。ぞわりとする。なんて酷い予行演習だろう。
苦しい余韻に全身が痺れた。さっさと寝床を脱する気にはなれなくて、上体を起こし、腰の後ろに枕を挟んでぼんやりしていたら、腿の上にもぞもぞと重たい物が乗っかってきた。布団の中で人の足を勝手に膝枕に仕立てあげた、緩み切った君の声がした。
「どうしました。」
寝言みたいだった。掛け布団を摘まみ上げて覗くと、乱暴な手付きで素早く元に戻されてイルカ先生は隠れてしまう。
「俺ね、夢の中で、死んだ。」
「……そう。」
伝わる呼吸がまるで寝息で、耳に入ってきた台詞がどうであろうとこの相槌だったのではないかと思わせる。その彼に、夢の大筋を掻い摘んで紹介した。
「おしまい?」
「悲しい声、出してよ。」
「所詮は夢ですから。」
「うん。」
「それに、俺だって怖い夢くらい見るし。」
「……怖い?」
「そう、すっげえ恐ろしいの。」
さっきは目にも留まらぬ早さで奪い返した布団を今度は勢い良く胸元まで下ろした君が顔を出した。
「カカシさんの夢なんて目じゃないね。」
「果たしてそうだろうか。」
「ええ、そりゃもう、目覚めたら寝汗がびっしょりです。」
「ほう。内容は?」
「大抵、魔女か蜂に追われているんです。」
「は?」
「んー、空飛ぶ箒に跨った、こう、恐ろしい形相の婆さんか、死に至る攻撃力を誇る蜂の大群なんですよ。毎回さ、あらん限りの力を振り絞ってすっげえ逃げるんですけど、延々と追いかけてくるんです、あいつらは。」
俺が笑うと、真面目な顔付きで彼は、
「本当に怖いんですから。」
と言った。
「俺のは、悲しい夢だよ。イルカ先生のは別に悲しくない。」
「アァ……。……まあ、いっか?」
「うん、マァ、どうでもいいけども。」
「そんなことよりさあ、カカシさん。」
「ん。」
「フルコース、作ってくださいよ。夢の中で決意したんでしょ。」
「いや……決意っていう感じでもなかったし……、面倒臭いし、断る。絶対に嫌。」
「ええー、俺、美味い飯たらふく食いてえ!」
「へー。」
「カカシさんの手料理食いてえ!」
「ふーん。」
「カカシさんの手料理! 食いたい、食いたい、食いたい、食いたい!」
「うるっさい! 諦めろ、作りません。あと、下りろ。重い。」
「作れ、作れ、作れ、作れ!」
腿に乗せた頭をゴロゴロと動かすから、こっちは痛くて重くて散々だ。
「手料理、手料理!」
あんまりうるさいから口を手で塞いだ。際立った黒い眸と視線が絡むと、ひとつ思い切って本屋に料理本でも探しに行ってみるかなんて案がちらりと浮かんでしまった。腹が減って耐えられなくなっても最悪の場合山へ行きゃあ木の実なり野草なり茸なり、自然があることだしどうにかなると思っているような人間の脳裏に一瞬でもそんなことが横切るなんて、我ながら信じられない。暴れてうるさいのを力業で押さえ付けながら、俺は、あれが夢でよかったと思っていた。
終. |