単発text10
此処に眠る。

- 識別

付き合ってます



1.

「イルカ先生の体って汚いですね。」
ときどき神経の有無を疑いたくなる言葉をカカシは吐く。
今回の一撃を食らった者はというと、風呂上がりに半裸でうろうろしていた。その背中には派手な傷痕がある。確かに肩甲骨の間にある皮膚は引き攣り、剥き玉子のような、という表現からはほど遠い質感だ。その譬えを活用するなら、茹玉子をぱくりと齧った後の、断面に近い。あるいは、丸めて捨てたのを屑籠から拾って開いてみた紙の、つるりとした元には戻らないあの皺くちゃ加減だ。それでいて所々ぷくぷくと、妙に張りのある新しい組織が走る。そしてその大きな傷跡は他の肌よりもちょっとしたことで赤みがかるのだ、今みたいに。体が熱を帯びていることを知らせている。
その有りさまを、まずは奇麗を否定している状態として置き、人心を加味しない自動的な言い換えで片付けるなら、汚いという一言に辿り着かないこともないだろう。

破滅しか呼び込まない言葉を浴びせられてもイルカ自身は特に被害を受けないが、この何かとご迷惑をお掛け致しております上忍の語彙センスに胸が張り裂け影で泣く人がよそではいるかもしれない。その誰かの為に彼は、悪気はないと庇ってやれないこともない暴言を諌める決心をした。
「あのお、言い方ってもんを、少しばかり考えた方が良いですよ。」
この返答で話が通じたのかどうか。小さなことに目くじらを立ててねちねち言うのは、本当は性分ではない。だがしかし、そもそも相手が己と同じ意識圏内にいるのか否かという吟味が、注意を与える前に必要な一手順なのだ。いきなり本題に殴り込んでしまったがために混戦を招いてしまうよりは、最初は門戸を叩いて、それから一段ずつ天守へ登っていく方が双方疲れずに済む。要するに、急がば回れ。華々しく天才忍者などと謳われた男の、調整分として神様から差っ引かれたとさえ思われる常識欠如をゆめゆめ侮ることなかれ。着替えを引っ張り出す手を止めて、緊張と期待を込めて振り返る。
思い当たる節が一つもない顔でいる、美形と視線がぶつかった。人から羨まれる宝を幾つも備えていながら、このイクセントリックな二枚目は世界と関わる鍵を持っていなかった。
イルカはがっくりした。
「俺は男だから別にいいですけどね。……女性にそんな物言いをしたら、多分泣かれますよ。」
「イルカ先生は泣かないじゃないですか。」
大袈裟に、やれやれと腰に手を当てて固く閉じた唇をヘの字に曲げたアカデミー教師は、ここで涙の一粒でも零せりゃア俺もなかなかの役者なんだがと嘆きつつ、
「だから、」に続く文言に頭を悩ました。



カカシは恋人の背中を目にすると、まだ微弱だった互いを引き合う力が水面下で潜伏していた期間の、時の砂の無為な堆積を悔しがらずにはおれなかった。三年前にはなかった傷だ。初めて彼の背中を見た夜、そこに傷跡などは一つもなかったのだ。

酒に飲まれて行き倒れた中忍を自分の家まで担いで歩いた。夏の夜中で苦労した。暑がっていたから上衣を脱がせた。
湯上がり早々の着衣を嫌がるのは今でも変わっていない。けれどもあの晩は、初めてお邪魔する上忍宅では粗相のないよう酔っ払いなりに気を付けたつもりだったのだろうか、汗を流して浴室からどうにか出ると再び、着ていた物をだらしなく身に付けて部屋へ戻ってきた。それが、ぐるぐる回る頭を抱えて寝台へ倒れ込むやいなや「暑い」と唸り、邪魔そうな手付きで纏わりつく布地と格闘し始めた。
示されていた形ばかりのお行儀は結局それで掻き消され、服はもはや肌の周りにある意味などないほどみっともなく捲れ上がる。だから、暑いなら脱げと許可してやったのだ。
脱ぐ――と答えたイルカは、寝返りを打つと背を向けて丸くなり、言葉とは裏腹に動かなくなった。
脱がせてやろうか――と聞いた、あの時の、差し込む月明かりに浮かんだ奇麗な背中の皮膚は、今はもうないのだと思う。

外見がどう変わってもイルカがイルカであることに変わりはない。多かれ少なかれ生まれ落ちた容姿のまま変形しない奴はいないのだし、昔に見た無傷の背中に偏った思い入れがあるというのでもない。現在の背中も、ちょっとやそっとのことでは彼は死なない証明のように見えて、カカシは好きだった。ただ、昔にはなかった傷だという意識が、長いこと本当にぼんやりとして年月を薄く、無駄に伸ばして費やしていた結果なのだなという詮方ない、自分と事件との無関係さを突き付けられている気分に重なるのだった。



「だから、俺は別にいいですよ、でもね、他の人間は気を悪くする割合の方が多いだろうし、女性だったら泣くって言ってるんですよ。」
(他の人間に言ったのではないし、何を結論付けたくてなされた仮定なのかが分からない。)
なぜ彼はどこにいるとも知れない想像上の誰かに気を遣っているのだろうと、カカシの心はもやつきだす。
「泣くような奴に用はないですね。」
「……そうですか。」
「そうです。…………そうでしょう?」
折角ここには二人しかいないというのに、架空の人物の機嫌を窺って過ごさなければならないなんて馬鹿げている。イルカ本人が傷付いたというのなら謝ることはできるけれども。それで同意を求めてみたが、引き続き声を僅かに落とした恋人は、容易に賛同をくれなかった。
「どうでしょう。」
そうしてカカシ曰く、カカシから取り上げるのだ、イルカはイルカを。ちらちらと魅力的な玩具を見せながらそちらは勿体ぶってなかなか寄越さず、回りくどい勉強ばかりさせる。イルカの中にある良識に半分おおいに助けられながら、半分ではそいつと折り合いをつけるのが煩わしくて仕方ないのもまたカカシの事実だった。
(ご褒美があるんなら努力してやらないこともないけどさあ。)
「アー、もしかしてイルカ先生も拗ねたんですか。」

「いや別に俺はどうでもいいですけど」とあくまで主観を表しておいてイルカは、自分を通して世界を見る彼に世間の代弁者としての回答を渡した。
「普通好い気はしませんよ。」
カカシとしてはそろそろどちらかの答えを捨てて欲しいのだが、これを放っておくと同棲間近な恋人の影はどんどん奥へと潜んでしまう。取って代わって顕わになるのは住込みの家庭教師みたいな雰囲気だ。そこで、後学のために学習することも忘れずに、彼は一旦あっさり謝った。さほど効き目のない口先の意地悪に拘ることもない。弄り甲斐のあるイルカから大切な理性を満足いくまでふんだくり終わったところだったから、このくらいでは気も立たない。事後でなければカカシは理詰めの毒舌で窒息させに掛かっていただろう。
「そう。ごめん。じゃあ、なんて言えばいいのよ。」
「俺の背中ですか。まあ、くちゃくちゃですよね。」
「ほら見ろ!」
さっそく純粋な子供みたいに目をきらりとさせてしまう男に、イルカは負ける訳にはいかなかった。
「大人だったら黙ってろ!」


寝台の上で寛いでいたカカシに歩み寄りながら、
「目に付いたからといってことさら言い立てなくても良いことが、あるんですよ。」
礼儀というものの話ですと締め括り、自分もその縁に腰掛けたイルカは、ぶすっとした無神経な男の顎先を親指で軽く摘まんだ。それは独特の仕草だった。励ます時には体が、指先が、自然と動く。カカシは彼の、そうした癖の無意識を敬愛した。一身に受けるその眼差しに、カカシは勝てない。





2.

さて、デリカシーに欠けると評判される里の稼ぎ頭だが、それに付き合うイルカはイルカで、実はその上忍が呆れるような行動をしばしば取る。
「『いちゃパラ』、未だに一話も読んでないんですか。」
「ええ。」
それはカカシの愛読書だった。集められたシリーズは、枕元にある本の山の一端を担っている。その層から適当に一冊を引き抜いてイルカは頷いた。
次の瞬間、持ち主は目を丸くした。ひっくり返した小説を裏表紙からパラパラ開いていた彼が、最後の頁にある最終段落に目を通しているではないか。
「何してるんだ、アンタ!」
「え。」
「早く閉じろ!」
「いやあ。」
「どういう神経してんのよ一体!」
「どうって言われましても。」
不動心の男はまた頁をペラペラと逆に進み、今度はど真ん中をぱっくり開いて拾い読みしだす。「一番の山場は何章辺りになりますか。」
信じられないという非難の目をしてカカシは彼の手から本を奪い返した。
「教える訳ないじゃない!」

「どうして。人と話す練習にもなりますよ、きっと。さあ、話して御覧なさい。」
「お断りだ。」
「触りだけでも、俺に聞かせてみなさいな。」
「それは一番話せない。」
「来たまえ、粗筋よ。いざ、我が元へ。」
「手間を省こうとするな。自分で読め。ていうか、面白いから一回読んでみなって。物凄く奥が深いから。」
「ああ……、もう、ええ。」
「傑作だから。」
「どうも。また、機会があったら。」
強く薦められるにつれ冷やかしの熱が散るのは毎度のことで、興味を失くしたイルカは胸に押し当てられた本を窓辺の棚へぽんと遣ってしまった。
いつもこうして、あしらわれて終わる。一向に読もうとしないこと自体は構わないが、そのことをうやむやにする態度に苛付いたカカシが、彼の頭をガシッと掴んだ。満足という前言を撤回して、その手にグググと力を入れる。
「いってえ!」
その力加減といったら、万力でぎちぎちと締められているかのようだ。
「そんな機会なんか来ないくせに。」
「いっ……てえ、やめ……ろォ!」
そこからはもう、技を掛けようとする者と、こいつ一遍泣かしてやると思う者との鬩ぎ合いとなる。





3.

抵抗をし尽くして白旗を揚げる頃、イルカはたいてい苦悶の表情を浮かべている。呼吸がまともにできていないか、さもなくば体のどこかが痛いせいだ。それが手首である時は容赦なく握られているから、よくカカシの親指の痕が丸い痣となって数日残っている。
押さえ付けられていた部位をさすって異状の有無を確認しながら呼吸を整える相手の胴に跨り、上から見下ろすカカシは平然と発言していた。
「イルカ先生は体力有り余ってるんだねえ。俺と居られて嬉しさで胸が一杯なのは分かりましたから、暴れないで、少しは落ち着いて下さいよ。」
「誰のせいだ。んで、うぬぼれんな。」
そうして睨んでくる、懐柔しにくい性向と本音の域から直接吐かれるきつい科白が、カカシの胸を躍らせる。
「だって。俺のこと、好きでしょう。」
「ア?」
「俺のことが好きなんだもんねえ、イルカ先生は。」
「言ってて恥ずかしくないんですか。」
「好きだろう、俺のこと。」
同時にイルカはあばらをグリッと押される。
「痛い、分かった、それやめろっつってんだよ、俺に非道いことすんじゃねえ、この鬼畜生が!」
カカシは楽しそうに口の端を釣り上げて、喉元に引っ掛かる音で小さく笑う。それがイルカの耳には悪魔の甲高い鳴き声みたいに響いた。
「……アァ、丸裸にして、ほくろの位置を覚えたい。今度明るい所でゆっくりと、ほくろの数と場所、全身くまなく覚えさせてね。」
「……、……。」

(急に何を言い出すんだか、この人は。――さしづめ俺がばらばらになってるさまでも想像したか。縁起でもねえ。……俺の顔してる人間が俺じゃないことがあるかもなんて、そんな不安を思い付いたのかしらん。)
イルカは、物騒な思考と結び付いた言動が普通となってしまっている男を最悪の独擅場で迷子にさせておきたくなかった。
(きつい事態を想定してばかりじゃ疲れるだろう。貴方の幸せは俺が見届けてやるよ。一つ覚悟を決めたなら、あとは気楽にいこうぜ。どうだい。)
「ん、なあに、黙っちゃって。答えは?」
「俺も、歯型が欲しい。噛み痕じゃなくて型を取ったやつ。」
生身に重要機密を保持しているカカシは、寂しそうに薄く笑った。世界中の暗殺者が彼に掛けられた賞金の額を知っている。
「なら、その時は宜しくね。」
「……気が向いたら。」
そんな気起こらないくせに、とはカカシは言わなかった。使い道は伏せられたまま、イルカは、この会話は寝て起きたら忘れることにした。



明かりが消えて暫く後、唐突にイルカが問い掛けた。寝台の下に敷いた、客用布団からだった。
「カカシさん。」
静かな声が、暗いしじまに柔らかく広がる。
「貴方の化石が二万年後の人類に発見された時、どこの骨を見付けられたいですか。」
「大腿骨。」
即座にカカシの声が上から降ってくると、イルカは笑って質問を重ねた。
「理由を教えて下さいよ。」
「形が格好良いからです。」
「はははは。あーあ、おたおたするかと思ったのに、完璧ですね、絶対に詰まると思ったんだけどなあ。まさか理由まで答えられてしまうとは。しかも即答。普通、まずは驚かねえ?」
「一般受けする答えは分からなくても、イルカ受けする答えは知ってるんです。」
「変な人ですねえ。」
ともあれ只の暴力的な愚夫とは違う彼の、美意識と慧眼を信じれば殺される心配はないかなとイルカは思うのだった。
「さあ寝ようかという段になっていきなり訳の分からない質問をしてくる奴に言われたくない。ていうか、……。」
(この埋まらない距離は何なんだ。)

ふざけたどうでもいい遣り取りよりも、しなければいけない話し合いがあるのではないかしらん。
(そんなことよりいつまでそこで寝るつもりなの。)
(この物理的な距離についてはどう思う。)
カカシがああでもない、こうでもないと訊ね方を定めあぐねているうちに、
「お休みなさい。」
イルカは就寝してしまった。その声の主をカカシは内心ずるいとなじる。軽い話に混じらせて、至極重たい話をさらりとする。私情にまみれ合った直後に翻って、他人の立場まで引っ込む。自分が口にすれば狂気じみた悪趣味だ何だと袋叩きに合うだろうことも、彼が口にすると純愛だひたむきだとさぞかし有り難く受け取られるだろう。それがもしも苦しいと感じるなら、そういう本音をこそ聞きたい。二万年後のことはどうだっていい。――俺の灯台になって欲しい――手放さないでいて欲しい――苦しいとも感じずに得を享受しているのなら、カカシはやはりずるいと思う。
「……お休み。」
世界との接触面が遠い。入口が閉じそうだ。目を瞑ると悪夢が始まる。お近づきのしるしにと、カカシが彼なりの親切心を表現した行動に出るまで、六時間五十分。










終.
(2014.11)