『父さん、母さん、聞いて下さい。』
運動場で遊ぶ昼休みの生徒らを、校舎の屋上から柵に寄り掛かり眺めながら両親に語り掛ける。慰霊碑の前には公の参列でしか立ったことがない。何年経っても、誰の名が刻まれても、俺には只の四角い石が置いてあるとしか受け取れないからだ。それよりか次の世代に斯うして目を向けている方が自然と、自分より前の代に思いを馳せることが出来た。眼下の子ども等の声が、今日も元気そうで何よりだ。
今後も上からの正式な要請がない限りは現在の地位に留まり続けて、教育現場を主軸に活動していたい。特別上忍に昇級させるか教育部に残留させるかで悩む火影様からは四方山話に託けて過去に何度か打診されていた。俺は、呼ばれた火影室で含蓄のある御話にうとうとしては愛用の煙管で小突き起こされつつ、中忍のイルカ先生という役割には張り合いがあると答えている。
「打ち明けたいのは、私生活の方なんだ。」
『俺のところに、強い人が現れるんです。』
その人には、敵わないかもしれない。初めて負けてしまうかもしれない。
色恋の絡まない普段の対人関係に於いては人に優しい積りでいる。しかし一方で、ひとたび空気が恋愛の色彩を帯びた様相に移行すると、その匂いの影響圏内では、どれだけ己が傷付こうが、どんな風に相手を傷付けようが知ったこっちゃないという考え方に切り換わる。その方が、得る享楽の過激が増して面白い。
愛欲には礼節も法も招致されていないと思う。泣いた者の負け。勝ったら舌を出して笑う。人を落とそうと企む奴を標的に、幾重にも罠を張り巡らしておいて最後に起爆の鍵を引き抜いて、逆に遠くに用意された落とし穴に嵌めて去るのが得意だ。別々の策を同時進行で弄するのも楽しい。
恋愛は勝負だ。賭場に出て坐るのと何ら変わらない。賭けるのは、所謂好きという気持ちか。
之を人で無しと思える人たちは自分達の畑に帰って愛を育めば良い。この賭博に一般大衆向けの娯楽要素はない。
自分が素寒貧になってもそれはそれ。勝ち逃げされてもそれはそれ。読み負けする者や運に見放された者が敗者となる。その勝負に、俺は十中八九勝ってきた。
そして始末に負えないことには、……俺は詐欺師だ。誰も彼も皆が詐欺師だ。場に張る気持ちは純金ではなく、本当は全部真鍮なのだ。だから、本気で好きだと恋心を告白してくる善良な人に対しては真面目に断った。愛の讃歌を理解し得る笑顔の人は対戦相手から除外した。そうして食えない人間共の仲間入りをして、十代の頃は純愛の二文字を唾棄した時期さえあった。
この生き方に則るならば、俺はあの人に今以上近づいては不可ない。否、もっと距離を設ける必要がある。誠実な態度で、無駄に傷付けることなく接し、そのように彼の心は成るべく大切に扱われるべきだ。
何故なら、多分、彼は直向きに恋をしている。俺は、多分、彼から実直に想われているからだ。因ってあの人は本来俺の交わる対象ではない。
「カカシさんと云うんです。」
彼が笑うと、揺らめく大気は繊細な硝子細工が光ったみたいに澄む。透明感があって、美しい人だと思う。そしてそれが同時に、此の人は生涯を孤独の裡に閉じても平気なんだという推察を俺にさせる。協調性を駆使して群れに逸れずいることも出来るが他人とは深い点で理解し合えないでも可いという部類の人間には、友人の数や外面の良さなどでは測れない、醸し出される固有な雰囲気があるのだ。
教壇から全体を見渡し個の動きを観察するうちに習得した感覚なのだろうか、是ばっかりは具体的に説明し兼ねるのだが、兎に角そうした頭の片隅に引っ掛かったある感じは、其奴が独りを淋しいと思わないことを俺に直感させる。
その、元来自分一人で一つの丸を形成して了っている様な彼が、俺に執心を見せる。茨の道を遥か彼方から進んで来て、心臓が止まらないのと同じ原理で止まらないみたいに近づいて来る。
透かしてもみた。恍けてもみた。それなのに、どれを切ってみても俺の持ち札が通用しない。
きれいな光を放つ彼の核は、硝子ではなく金剛石の硬さをしているように思われて仕方ない。
「困ったよ。」
『不肖の息子で済みません。』
カカシさんと視線が合うと本音を引き摺り出されて、自分の目で見てみろと己の腐敗した臓物を突付けられた気分になる。彼は、建前という名の塹壕ではなく奥の本陣しか見据えていない眼をしている。
前屈みになり柵に乗せた両腕に付けていた額を離して面を上げると、春の日を浴びて不山戯る生徒がちょうど此方を振り仰いだところだった。
「先生」と手を振り甲高い声を上げる。変声期はまだ随分先の齢だ。手を上げて応じ乍ら午後の講義開始時にはちゃんと席に着いていろよと念を送る。思考の一部では、引き続きカカシさんの件が巡る。
「……怖い。」
彼の真新しい心が見える。経歴の如何に関わらず是から先も汚れることはないのだろうと思う、其に距離を詰められるのが怖い。
彼と飲んだ丈で別れた夜、一人で歩いた帰り道、此の胸には彼の「御休み」と言う切ない声の残響があった。タンタンという拍で振り落とせないかと勢い付けて階段を駆け上がってみても、俺にはそれが染み込んでくるのを防げなかった。
俺は自分の気持ちを次に進めたくなっている。だが、進めない方が賢明と思う。
次の土曜日に又、会う約束をしている。
本当は私的に親しくしない方が良い。それなのに、彼との時間を楽しみにしている自分がいる。
彼は聡い。物事を捉える角度が大方同じだとしても、俺とは深度が違う。だから屹度、途轍もなく深い井戸の底から湧き出たような優しさを持っていて、何時見掛けても深深と降る静かな雪の冷たさを身に纏っているのだと思う。
俺は、傍に居たくなる。もう少し、後少しの間と思いながら、カカシさんを見ていたくなる。
「此の儘でいると好きになっちまう。」
『父さん、母さん、どうしましょう。』
いつか俺は全てを注いでしまう。彼の仕合わせが俺の仕合わせになってしまう。俺は、俺の凡てを奪われてしまう。そしてそれを赦してしまう。短所も含めて愛おしいと云える日が来てしまう。彼の存在が俺の、喜びになり悲しみになってしまう。
「なあ父さん、母さん。要するにそれって、世界じゃねえ?」
運動場の土には、子ども等が足の先で引いた大きな渦巻きが描かれていた。
ただでさえ世界はこんなにも明るくて眩しい。俺が恋などしておらずとも騒々しくて、気怠く、朗らかだ。それに疾うから色んな粒子で充ち満ちている。あちらの熱がこちらへいき、暁光は恒常的に美しく、嵐は呼びもしないのにやってきて去り、雲は必ず形を変えて、世界はぐるぐる、ぐるぐる回っている。
その世界が少し破れた。
そこから腕がにゅっと伸びた。そして俺の此の体をぐいと掴み不可避の引力で引き寄せた。
其の腕がカカシさんだ。其の腕が新しい、世界なのだ。
『又、話します。』
午後が始まる予鈴が鳴った。何時までも外で戯れ合い教室に戻る動きを見せないちび共には心の中で、オーイ、先生は先に移動を始めるぞー、俺が前の戸を引いたら御前等はちゃんと着席しているんだろうなあと念を押した。
「参ったなあ……。」
俺は既に、カカシさんの恋の仕方を好きになって仕舞っている。
終. |