text_阿+水01
置いては往かない。

阿+水 サボタージュ;昼寝をしよう

フレンド・シップ



「次、自習だって〜。」
二限の授業が終わってすぐに教室の後ろからスルリとどこかへ消えた男は耳に残る、癖のあるスリッパの音を響かせて、休み時間の終了間際に今度は前方の戸口から姿を現した。
七組と他のクラスの女子が数人、廊下と教室の境界で立ち話に花を咲かせている。
進路を塞ぐ陣形でいる彼女らに道を開けてもらい、お互いにただ接近するだけでも難しいこの時期特有のニュアンスを帯びたその複数の目の動きもさして気に留めない自然さで彼は、出て行った時と同じ飄々とした空気を纏って帰ってきた。どこから仕入れた情報なのか不明だが、一番遠くの窓際の列に座る友の耳までしっかりと届く声量で知らせる水谷は、机の小径を泳ぐ魚ように滑らかに進む。
人物を声で判断した阿部は、こちらは届ける気などさらさらない独り言の大きさで、
「マジかよ。」
と受けた。受けながら、その手は机の上に用意されていた教科書類をもう片付けにかかっている。本当に自習になったんだろうな、と聞き返さないくらいには情報提供者のことを信用しているらしい。
離れた所から喋りかけたものだから、誰かの席を横切るたびに当の人は、「本当?」「なんで」「え? もう一回言って!」と捕まりそうになっていた。が、歩を緩めることは一度もなくて、答える代わりに笑顔を一つヘラリと落として要所要所の関所を抜けていった。

順調に自分の席へ近づいてくる。そうと認識したにも関わらず、つるむ気のない阿部は早々に腰を浮かせた。
「寝に行こ。」
丸めた青色のビニールシートを後ろのロッカーから取り出して小脇に抱えた、彼の行き先は好天の屋上だ。
両手をズボンのポケットに突っ込んで歩くその彼と擦れ違いざま、「俺も〜」と間延びした発声で賛同した水谷は、軽やかに身を翻してすぐ後ろに付いた。相手の携帯物とどこかへ向かう足取りから、この一時間の過ごし方を見て取ってのことだった。
ぬけぬけと一緒に教室を出ようとしている水谷に、すでに眠そうな目をちょっと向けて阿部が言った。
「は? 来んなよ。」
「いいじゃん。」
それは、さも不可の理由がないと決め付けてしまっている口調だった。
ここぞとばかりに一分でも長く熟睡したい阿部は、横を歩きだした水谷に非難の視線を浴びせかけた。
「ちょ、マジ来んなって。」
「いいっしょ、別に。」
水谷はしつこいと言わんばかりの応対をする。
休み時間の終わりを告げる鐘の音が響く廊下を、二人は大股で移動した。


一番大きい数字のクラスで廊下は突き当たる。その最後の教室の手前に、上がり階段があった。七組からすぐ近い。
扉の手前で立ち止まり、振り返って見ると、辺りは両角の向こうに広がる白い廊下よりやや光量が落ちて、空気のくすんだような、なんだか空間と空間の狭間にいるような気分になる。
幾何学的に連なる窓からたっぷり入る反射の明るさと、降り注ぐ日光の、どちらも及びきらない一隅にある頑丈な扉を開ければ屋上だ。
今日ならきっと眩むような一斉の太陽光と、目に痛いくらいに冴え渡る空の青さが待っているだろう。でもまだ一時間やそこらで体に熱が溜まるような季節じゃない。よく通る教師の声のいくつかは輪郭を剥ぎ取られた音みたいで、自分には無関係に柔らかく、気ままな微風がそろそろと眠気を誘う。まどろむなら、給水タンクを戴くコンクリートの静かな影で。
直前の翳りにそんな一時を予感しつつ、気怠い足付きで階段を上がる阿部は、構わないという裁量をごり推ししてくる水谷の随行を、
「駄目。」
と、変に子供じみた言い方でなお拒んでいた。
仕方なく、
「なんでよ」と返事に一工夫加えたところ、
「水谷だから。」
という非道い答えが返ってきたので、言われたほうも不満の感情をだだ洩れにしながらきつい一言を言い返した。
「*****。」
それを聞いたからといって別段眉を顰めるでもなく、阿部は、腹を立てた様子でもない水谷と無言のうちに目的の場所へ踏み出した。
この、心の素の部分そのままを直球で投げ付け合っているように思われる会話と、しかしその本心が本当はどこにあるのか掴み切れないという一種殺伐とした感は、彼らであることを前提にしてこそ成り得る均衡であり、両者の間柄に限ってこそ普通と言い得る独特の親和性を漂わせていた。

わずかに押し開いた鉄扉の隙間から順に素早く身体をすり抜けさせると、二人は低い姿勢でこそこそと壁沿いを這った。三限目を告げる鐘はさっき鳴り終わっている。たとえ職員室からは死角となっているにしても、こんな所に生徒がいていいはずがない。
出入り口の裏側に回ると影はまだ出来始めたばかりの短いもので阿部は少し落胆の色を浮かべたが、それに文句をつけたところで伸びてくれる物でなし、持って来たビニールシートをそこに手早く広げるとさっさと寝転んでしまった。
立て続けにビニールとコンクリートの擦れる音がガシャガシャとして水谷も横になった。
このビニールシートは、元はといえば田島が家から持ってきた物だった。それを、使い勝手がいいと部員たちがそれぞれで行ったり来たりさせているうち田島のほうでも持って帰る気をなくしたらしく、その存在は、いつのまにか校内レジャー用として内部の皆に定着していった。そんなわけで、大半は使ってもよい時間に堂々と広げられ、残りは今日の屋上みたく秘密の時間に広げられているこれの、現時点ではどうやら阿部が一時保管者となっているらしかった。



長い雲がゆったりと流れた。当面人類を生かしている太陽が、その切れ間に顔を出した。トラックの後進するピー、ピー、という規則的な音が、風に乗って微かに聞こえてくる。閉じた目蓋の上に手の甲を置いて明るさの刺激を遮り、働き者のアリもバイオリンを弾いているキリギリスも大らかに包摂するような、穏やかな日中という体感にうつらうつらしていた阿部の、左の肘がふとした拍子に水谷のシャツを掠めた。
「……お前、狭ぇよ。」
不機嫌に低く唸ると、
「ちょっと、喋りかけないで。今すごい寝かけてたのに」と冷ややかな返答があった。
「あ!? 俺のビニールシートだぞ。」
「だから何よ?」
「……。」
(正確には彼の持ち物ではなかったが、)何を言っても動じる気色がまるでなく、隣でぬくぬくと日向ぼっこに耽る男のあまりのふてぶてしさに苛立ちを覚えた阿部は、寝転んだ体勢のまま振り上げた足をガスンと横に下ろして憂さを晴らした。
力の抜けきっていた肢体にいきなり片足を落とされて水谷はさすがにグ、と小さく呻いた。
「信じらんねえ! 蹴ってきやがった!」
「うるせえな、『今すごい寝かけてたのに』。」
「……。」
一言一句をそっくり返してきた、その白々しい台詞回しについにカチンときた水谷は、相手のいる側へ大袈裟に寝返りを打った。
「ぐお!」
そのまま阿部を押し潰すように全体重を掛けて上にベッタリと乗っかると、さらに腕を首に絡み付けて性質の悪い抱き付き方で応酬した。
「苦しい、暑い、最悪! 降りろよ、気持ち悪い! ああ、もう、内臓潰れる、重い、肺が……!」
「じゃあもう、俺の睡眠を妨げないって約束してよ。」
「ハア!? その台詞そのままお前に返してやるわ! どっか行け! 俺から降りろ!……グ、肺が……!」
「阿部がどっか行けば。意地悪。」
「だから! お前が勝手に付いて来たんだろうが! うぜえ!……グウ、くるし……!」
「阿部のその騒ぎ様こそ鬱陶しいって、だから。寝ーれーなーいー。」
「ガアアア、どーけーろー!」
「だーからー、うーるーさーいー。」


その頃、七組の教室で配られた漢文のプリントに黙々とレ点と一二点を付けていた花井梓は、作業の手をふと止めて眼鏡を外し、いかにも暖かそうな春の陽気を、クリーム色のカーテンが揺れる窓の向こうに眺めていた。
(ああ……平和だ、……空気が。)
そして、捕手とレフトの席が空席になって二十分経つが、(帰ってきてもプリントは見せてやらない)と思うだけにしてまた始めの通り、生真面目な付け方でレ、レ、と白文に訓点を打つ作業へ戻っていった。

そうして快適につつがなく過ぎた七組、否、野球部主将の自習時間。その三限目が終わろうという五分前になって、彼の周囲に還ってきてしまった一塊の空気がはなはだ不穏であったことは言うまでもない。










終.
梓は結局プリントを見せてやったと思う。
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