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置いては往かない。

阿部視点 阿←三 起点

蝉より短く尽きる恋は



誰にも言えない。
言っちゃいけない。
少なくとも三年間、この気持ちは秘密にしておかなければならないものだ。

――俺は、別に三橋が好きなわけじゃない。





1.

「あ、べくん……お、はよ。」
こいつの〈生態〉も少しずつ明らかになってきた。そう、三橋は一種の珍獣だ。未だ解明されていない、謎多き生物なのだ。そう捉えることによって、大分と俺の心の持ちようは変わり、苛つく回数は確実に減った。
「はよ。」
「あべくん……き、今日、は、なんか……違う、ね。」
「なんか違うってなんだよ。」
「なんか……いい匂い、するっ。」
「は?」
「こ、香す、い?」
「そんなもん付けるわけねえだろ。」
だから、このクソ暑い日差しのなかで汗臭いことはあってもいい匂いなんかするわけがない。

「シャンプーとかじゃねえの?」
別段変えた覚えも、匂いのキツイものを使っている覚えもないが、相槌代わりに適当に返す。
「シャンプーじゃ、ないっ、よ。けど、いい匂いする、よ。」
そう言って三橋は俺に顔を近づけてくる。相変わらずの伏し目勝ちだから視線は合わないままだ。
スン、と息を吸い込んだけどやっぱり理由は分からないままらしく、不思議そうにオドオドしている。俺自身にも匂いの原因なんて分からないけど「気のせいだろ」の一言で流して終わりたいような会話であることは間違いなく、当然ながら困り顔にくれてやる答えなど持ち合わせていない。しかし、本日も三橋は俺におおいに興味があるらしい。

こちらはそんな〈ミハシ〉を〈観察〉している毎日だが、観れば観るほど三橋は動物的だった。この三文字を思いついたときに田島の顔も後から続いて出てきたが、あいつは三橋とはまた違うとすぐに思った。田島には、『野生的』の三文字の方が似合う気がする。


「みーはし!」
と、その田島本人がいいタイミングでグラウンドからベンチへと走り寄って来てくれた。
ちょうどいい。後はこいつに任せよう。

「なに阿部嗅いでんだ?」
「う、お、」
「いい匂いでもすんのか? どれ。」
「おい田島、放せ。花井呼ぶぞ。」
「別になんも匂わねえじゃん。」
「うぅ、いいにおい、しない? オ、オレ、する……よ?」
「え〜?」と言いつつ、無礼講バンザイの田島は一緒になって俺に鼻を近づけてくる。思わず出た溜め息と、「……あ!」の声が重なった。何を思い付いたというんだ、田島。
「あれだぜ、えと、フェロモン!!」

一瞬にして眉間に深い皺が走る筋肉の動きを自覚した。まだ何もしていない朝っぱらから、すでに疲労困憊になりそうだ。「どうだ」と言わんばかりにキラキラと目を輝がせる四番にもげんなりするが、「おお」となぜか感歎しているエースにも頭が痛い。
「フェロモンじゃね?!」
「フェ、フェロ……モン!」
「えっと、たしか……特別な人のフェロモンにだけ『いい匂い』って思うんだぜ!」
聞こえないそぶりで各々朝練の準備を続ける野郎どもを呪いたい。

「うお……オ、オレ、あべくん、好き……だ!」
「おう! だからだ、きっと! 三橋には匂うんだな!」
「!」
「昔テレビでやってたんだ。ちっちゃいビンに1つずつ色んな人のフェロモン詰めてさ、1個ずつ嗅いでいって、どれがいい匂いかってやんの。自分のタイプで答えが分かれんじゃなかったっけな。」
「おお!」
「知ってっか三橋。フェロモンって、汗が出るところと同じ場所から出てくんだぜ!」
「し、知らな……い!」
「よかったな!」
「う、うひっ!」
「ニッシシ!」
なんなんですか、この見事一件落着したというこいつらの空気は。全く理解の範疇を超えている。が、それはもういつものことだ。
相手がそうなんだ、と納得したのなら、そうがどうなのか、こちらが把握できないままにそういうことにしておいても、大抵のことには差し支えない。と、いうことが最近の調査研究から導き出されている。……とにかく。俺の『脳内ミハシレポート』にはまた一つ、観察記録が書き足されるのだった。

『・嗅覚が動物的』。





2.

普通に付き合っていこうとしても、俺とあいつの性質からして摩擦が生じることの方が多いのは明らかで、たとえ三橋の方で差し障りがなくても、俺の血管がブチ切れそうになることは目に見えている。つまり、こちら側での価値転換が求められているのだ。
そうして辿り着いたのが、まず三橋を新種の小動物か何かだとでも思って頭の中にまっさらな地を用意し、そこに情報を集めていってそれを解析するという手段だ。だから、今朝のような微小なデータの積み上げこそが俺なりの〈三橋を理解する〉ということになる。
この観察と情報収集とによってこれまでに判明したことは他にもいくつかある。

例えば、まず眼の動きや指先の仕草がいちいち動物くさい。大きな眼はクルクルとよく動き、かと思えばピタリと止まって獲物の出方でも量るように対象を凝視する。一度目が合うと印象に残る強さがあるのに、その視線はあまり人間に向かって放たれることはない(マウンド外では。)
形はいいのにその指はいつも不格好な使われ方をしているし、他の動作にしたってとにかく無駄と思われるものが多く、落ち着きがない。
リスの頬袋みたいになるまで口の中いっぱいに物を頬張り食っているさまは噴き出しそうなほど滑稽で、しかし、上手く表現できないけれどなぜだかそれがふとした拍子に俺の本能的なところを刺激したりする。
さらには、俺に対する三橋の態度はまるで親鳥を刷り込みされた雛のようだし、そう思うと、こいつがこいつなりに一生懸命になって俺と繋がった糸を放すまいと握り締めている様子に多少なりともほだされそうになってくる。
引くか、鬱陶しいと思うことの方が圧倒的に多いが、たまにであってもこのひたむきさを好意的に捉えたり、打算のない、純情として受け取ることができるのは、きっと三橋のビジュアルが俺の好悪の網に引っ掛かっているからなんだろう。

もちろん投手としての三橋のことは最大限に大事にしてやろうとは思う。だが、これは捕手として考えていることであって、野球を抜いた次元になると話は別だ。
俺は寄ってくる三橋をいいようにあしらおうとしている。普段は何にも返してやらずに知らんふりでいるくせに、三橋の扇情的な視線や、当ててきた唇の感触に欲情した時だけは相手にするのだ。それも俺が勝手に扇情的だと思うわけだから、自分の都合以外の何物でもない。
三橋の獣くさい挙動に征服欲を刺戟される時だって、三橋が欲しがっている気持ちとは百八十度違うものだと分かっていながら故意にうやむやのまま済ましてしまう。なんて自分勝手だろう。

――けど、俺が自分を酷いと思っているのはそこじゃない。そのズレを認識しながら、悔いるでもなく別にそれでいいと思っているところだ。心を入れ替える気も今は、ない。
三橋が俺に向けてくる気持ちは、きっと真心という代物で、真摯に受け止めて返してやるのが筋なのだろう。だけど俺には欲しかない。三橋に衝かれて出てくるだけの、本能しか持っていない。
だから、誰にも言えない。言っちゃいけない。


「三橋。」
「は、はいっ。」
「……呼んでみただけ。」
「? ……う、うん。」
お前の頭の中は、今どんなふうに働いているんだろう。
困ったように、どこか淋しそうに眉毛が下がる。
ボタンを留めている手元に目を遣って、俯き加減になる。
震わせている、その睫毛。

「また明日な。」
「う……ん! あ……した、ね!」
素早く上げて見せた表情は、構ってもらえると嬉しがる小犬か何かのようだ。ちょっと構ってやると、もっと構ってもらえる、というあからさまな期待の目になる。そのさまに、僅かばかり心がほつれる。面白くて、もう少しくらい反応を試してみたくなる。だけど。


――俺は、別に三橋が好きなわけじゃない。










終.
基本的姿勢。
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