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置いては往かない。

浜榛浜 『立夏』後の話 フェティシズム

極彩色までのテンカウント



1.

部屋を暗くしたのは恥じらいがあったからではない。ひとえに現実に蓋をするという実質的な手続きを、この日はどちらもが望んだせいであった。


耳に掛けてやる仕草で、その髪に指を通した。一束というには寡ない量を、人差し指と中指で挟むと毛先に向かってゆっくり、ゆっくり感触を楽しみながら滑り下りてゆく。女の長い髪のように重く底知れぬ深さで果てなく伸びるわけではないから、そうしないとすぐに終わってしまうのである。
「ねぇ、」
「あ?」
美しい漆黒の持ち主は、粗野な口の利き方をする。一見不釣合いにも思うが、触れる髪から感じられる芯の強さは本人の気骨と不思議な合致を見せていた。
終点が近付くにつれて、ハラハラと濡れ羽色の髪が己の皮膚から逃げてゆく。手首をわずか捻って角度を変え、中指の代わりに親指と、人差し指とで摘むような持ち方に変える。最後の一本が触覚から離れてしまうのを、名残惜しそうに見詰めた。
消灯した部屋の中でいっそう艶めいている。良郎はこのしなやかな、太い、黒い髪と遊ぶのが好きであった。見た印象よりいくらも強い、弾かれるようにさえ感じるその触り心地が自分好みで気に入っていた。明るい日の下で映えるこの色も凛として悪くないが、闇にあっていっそう際立つ黒髪の、何物にも溶け込まない妖しさにこそ惹かれていた。
「俺の頭ン中、真っ白にしてよ。」
今は手の甲で頭を撫でてやるようにそっと、同じ動きをなぞりながらその健康的な髪質を味わっている。どうしてこんなにも魅惑的なのだろう。良郎は、聞き入れられるにしろ取り合ってもらえないにしろ、どちらでも構わないといった様子で呟いた。そのくせ声は、懇願と切なる色を帯びていた。
元希は、これが捨てられた犬のような瞳かという感想を一つ持って、ようやく相手に向き直った。





2.

ただじっとして己の髪を相手の好きにさせていた男は、初めて、首を動かしてその声の主と視線を通わせた。大人しくしていたというよりは、それまで放心していたといったほうがどうやら適当であるらしい彼は今まで、流し台の窓に淡く浮かぶ外界の灯りを意識の遠くに捉えただけでいた。

――俺の頭ン中、真っ白にしてよ。

腕を掴んで、その科白に返事をくれてやる。
「百回好きって、言ってくれたら。」

女のそれよりは皮の下に埋まる骨の存在がしかと分かる。
「好き。」
けれどもほっそりとした手首には強く握ると折れてしまいそうな、ある種の儚さが漂っていた。元希は、この手を見るのも、じかに感じるのも好きであった。
「好き。」
確かに節のある男の手であるが、五本の指はしなやかに長く伸び、先に生える爪までもがすらりとした長方形をしている。女ほどの肉感はないのに、男にしては肌理の細やかな、きれいな造りである。それがまるで白磁を思わせるような白さをしており、そのすべての要素が一つの中性的な美しさを作り出していた。
といってもそれはこの春先までの話で、暦が夏に近づくにつれ、彼の繊細であった手の甲は日に焼け、汚れて、荒れてきている。そんなふうに華奢な触り心地だった手が無骨に変わってゆく様も、元希は、それはそれとして楽しんでいた。良郎の指は相変わらず、どんな奥にでも届きそうなほど長い。
掌自体は自分とさほど変わらぬ大きさである。ゆえに、彼の手首の薄さをよけいに引き立たせ、ゆえに、彼の指の形の秀逸さを証明している。それが、元希の見解である。良郎の手首はぐるりと指を這わせて、絡ませて、その実際を確かめてみたくなる色気を放っていた。





3.

――百回好きって、言ってくれたら。
そう答えた元希が一つ瞬きをするあいだに早くも一回目が易々と告げられていた。
「好き。」
良郎が、なんの躊躇もなく素直に言葉を吐き出してゆく。
「好き。」「好き。」
短い音が次々と重ねられる。
骨の硬さを堪能するためにあえて結んだままの両唇から、さながら他人の指を使ってそこを抉じ開けるように、関節を一つまた一つと自身の口内に忍び込ませながら元希は、その空っぽの台詞を聴いた。
「好き。」
付け根まで含み終わった。進んだ時と同じ速さで、ゆっくりと引き返す。
「好き。」「好き。」
指の腹に舌を這わせて口から出すと、逃げる手首をグッと掴んで離れ掛けた手を引き寄せる。満足したわけではないという意思表示である。そうして、まだまだこれから、好きなだけ戯れるつもりなのだからと、その手の平に強く唇を押し付けた。口を塞ぐような形に開いた手がモゾモゾのたうつ。
「好き。」
手の平に口付けながら恍惚とした表情で彼は、静かにその目蓋を閉じてみせた。
「好きだよ……。」
自在に操られだした手がスルスルと元希の脇腹を伝い下りていった。


「好き」という言葉が欲しい男と、刹那の真っ白に包まれたい男の、ある土曜日の晩の話。





4.

時代に取り残されたような長屋の近隣に点在する田んぼはどこも田植えが終わり、日暮れとともに蛙がゲコゲコと力一杯鳴くようになった。頭上の網戸の向こうから数多のグェ、グェ、ゲェコグェコが、古畳に寝そべる榛名の耳をひっきりなしに犯す。もうすぐ俺の誕生日だ、と彼は思った。それから、なんとなく、あぶれないよう必死に主張しているあの一匹と、声を押し殺している自分と、どちらのほうが辛いだろうと思った。

そんな土曜日の晩から遡ること四日。
榛名元希がベッドに勢い良く倒れ込んだ折しも携帯が鳴った。正確には音を絶たれたそれの表面が、部屋の暗がりでコロコロと色を変えて点滅する唯一の灯りでもって静かに着信を知らせている。
彼の携帯は家族用といっても過言でないほどに普段から鳴らない。それをこんな時間に光らせる人間は、この世に稀である。
「オメー、いま何時だと思ってんだ。」
この、せっかく掛かってきた電話を喜びもせず、むしろ迷惑がっているような第一声が男の性分をよく表していた。だが今回に限っては、時刻を見ても相手を見ても、それがもっともな応対であるともいえた。

こうした彼の態度など見越したうえで気にも留めず、
「ハルナちゃ〜ん!」と昼間に何があったのか知らないがわざとらしく作った声で泣き付いてくる、そしてまた、なんの予感もない時にこうしてヒョイと連絡を寄こしてくるのが、浜田良郎という男の性質であった。
「アんだよ、情けねえ声出してんじゃねえよ気持ちワリィ。あと馴れ馴れしい。」
「会おうよ!」
浜田は、応答の一切を一言で薙ぎ倒した。
「……ハ?」
「今から会お?」
「馬鹿か。」
そんな男の誘いを榛名もバッサリ切って捨てる。

「無理に決まってんだろ。この電話ですら今すぐ切って寝てえんだよ、俺は。」
受話器の向こうで小さく笑ったような吐息がした。
「分かってるよー、言ってみただけ。こんな時間に出てくれてありがとね。」
「……お前さァ、他に友達いねえの?」
「いっぱいいるけど、そいつらには心配掛けたくないっていうか、大切にしたいっていうか。」
「ぶちのめすぞ貴様。」
言葉の裏が不愉快で、感情を隠さずに彼が返すと、今度はその顔まで想像できるいつものハハハという快濶な笑い声がはっきりと聞こえた。
「冗談だよ。怒んないでハルナちゃん。」
「よォ、このまま電話切っても次会った時、お前まだ生きてるよな?」
「どういう意味?」
「生きてるかどうか訊いてんだよ。」
「……当たり前でしょ。」
「フン、じゃあな。」
発信者の「あ、ちょっと」と言うのを無視して榛名は、本当にそこで電話を切ってしまった。


その後、浜田から掛け直すこともなかったが榛名からの音沙汰もなく、水木金と日付は規則正しく過ぎていった。
浜田の携帯が突然鳴ったのは、銭湯からの帰り道であった。自宅の狭い風呂場ではシャワーを浴びるのがせいぜいで、湯には浸かれない。サイコロみたいな浴槽は長身の彼には小さすぎた。素足に突っ掛けたサンダルをペッタペッタと響かせて夜の川沿いを一人ゆく彼は、ジャージのポケットから電子音の源を引っ張り出す。見上げた空に照る月は白く冴え、鋭利に尖っていた。
「ハイよー。」
「よォ、生きてるか?」
「アンタねえ……。俺が弱ってたの火曜日で、今日もう土曜日よ?!」
「ッチ、るっせえよ。今から会いに行ってやっからありがたく思えよ。」
「舌打ちした!? 今、舌打ちしたよね!? ていうか……今から来るの? え、俺の状況はお構いなし? 俺の予定は?」
「関係ねえよ。つか、オメーが言うな。」
「……、何かあった?」
言い当てられた相手の、
「うるせえよ。」
という虚勢に浜田は、暇な週末でよかったと思った。










終.
皆皆生きているんだ友達なんだ。
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