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置いては往かない。

水谷視点 水→栄 低血圧

電光石火で君に虜



1.

こちらが視界に入れているということは、あちら様方も俺を捉えるのが可能ということで。「栄口!」とあの子の名を呼び、朝っぱらから阿部がわざとらしく俺の好きな人に抱き付いている。うちの捕手は底意地が悪くていけない。お前に言われたくない、といつも切り返されるけど。
あの子は、状況を拒んでいるのだか、その振りを楽しんでいるのだか判らない。俺には時々、そんな栄口がちょっとした小悪魔に見える。
この副主将コンビは、なんでも同じ中学の出身らしい。どちらも硬式をやっていたそうだ。それでも活動の場所が別々だったとかで、詳しいことは頭に残っていないものの、とにかくまともに話をする間柄になったのはつい最近と聞く。

「……はよ、仲良いねえ……。」
何を見るのもおっくうな目にちょっと二人を映しただけで、くっ付いて一個の塊になっている彼らの前をそのまま素通りした。俺をやきもきさせて楽しみたかったのか知らないが、「詰まらない」と文句を垂れる友の声と、それから、あの子の視線とを背中に受ける。
けれども、この時間帯は立ち止まって対応するだけの余裕がない。一限目より早い朝錬に参加しているだけでも褒めてもらいたい。俺はひどい低血圧なのだ。

ついでに貧血もしばしば起こすありさまだから、血の気の多そうな阿部などを見ているとうるさいと思う反面、じつはいささか羨ましくもある。
あの日の帰りがけにも、これが引き起こす貧血に俺は人知れず襲われた。初めてグラウンドに入った、部活見学の折のことだ。




2.

三橋の投球を最初に見た、その帰りだった。見学の終わったグラウンドから早々と散り散りになるでもなく、監督が握力で甘夏を搾るという新鮮な話題で盛り上がる一団に混じって、俺も居残っていた。
初めまして特有の距離感でしばらく喋り合って、それから今度こそいよいよ全員が腰を上げて本格的に解散だという時にも、自分はまたそのうちの最後尾に身を置いた。
この日は春にしては陽射しが強かったからだろうか、頭を下げる動きをした途端にグランと混沌がきた。貧血を起こすと、どちらが天でどちらが地なのか分からなくなる。視界が高速回転のメリーゴーランドに乗っているみたいに揺れて、歪んで回るのだ。
それに慣れているというのもおかしいが、焦るでもなく俺は、咄嗟の判断で今しがた通り過ぎたところだったベンチまで引き返した。手探りで戻った日影のそこへ、ドッと倒れ込むようにして横になる。出入り口のすぐ近くに、というかこのタイミングで、ここがあって助かったと思う。平衡感覚は失われて立っていられないし、とてもじゃないけどこの状態で目など開けていられない。
そうしてできた渦に攫われながら、去りゆく人の足音が耳の奥で微かに響いて消えた気がした。それで、俺は少し安堵する。後には誰もいないから、自分は一人きりになったはずだ。
(一番後ろを歩いていて良かった。)
心配など、誰にもされたくなかった。明るく、楽しく、周りとともに盛り上がる空気を作るのは好きだけれど、下らないことでその場の雰囲気を白けさせるなんてことは避けたい。
一人で良かったと思うと、俺はただ自分を覆ったこの奇妙な世界をやり過ごすことに集中した。というより、意識に縋ることを放棄して、ずっと目を瞑っているしかしようがなかった。


どれくらいそうしていたのか。己の感覚だけでいえば、そんなには経っていない。ようやく戻ってきた元の世界に、グルグルとなる前には無かった気配が一つ、増えているのを俺は感じ取った。その、気配に対して訊ねてみる。
「……なんで、いるの?」
いろんな感覚の正常を取り戻して目を開けると、やっぱり誰かが一人、俺のすぐ隣に座っているのだ。「帰ったんじゃなかったの?」
俺のほうでは一人残らず帰ったと思っていた。そして前方の誰もが後続に気を取られていなかったはずだ。しかし、現に己の視界には硬式経験者の、色素が薄いほうという印象しかなかった奴がいた。
「これ買いに行ってたんだ。」
そう言った彼から、紙カップに入ったスポーツドリンクを手渡された。「氷、溶けちゃった。」
ふやけ始めていた容器の状態から見積もるに、自分が思っていた倍ほどは時間が経っているらしい。
後方から皆の帰る姿を見ていたが、一体どの影がこんなに鋭く、淡々と人の状態を察知していたのだろう。まるでポーカーで読み負けしたような気分になる。
「貧血だね。大丈夫?」
じっと見てくる相手の名前を、まだ覚えていない。とりあえず、笑顔で答えてみようかしらん。
「そ〜、当たり、ありがと〜、慣れっこだから大丈夫なの。」
――ところで、
(そういう優しさが君の売りなの?)
なんて、その行動を斜めに捉えてしまうのは、彼の純粋に対して失礼だろうか。でも、だって、そうでもなけりゃ、ではなぜ、という俺の中に湧いた疑問が解消し得ない。

どうにも解せない。今、君という人が、俺の横にいる、というこの事態が。
じつに不可解ではないか。氷も溶けるような時間、会ったばかりの男の横で、一体何をしていたのか。その、相手の思考の働きが。
「えっと、名前……、」
「ん? 栄口だよ、『みずたに』。」
可愛い優越感にニマリと笑った、この時に君の名前を覚えたのだ。





3.

クラゲみたいで詰まらない俺を見送る栄口の視線の中に、あの日に共有した二人っきりの出来事が込められているのを感じる。


初対面だった。
――どんな中身かよく知らない人間のために、まだ全体を把握しきれていないだろう校舎とグラウンドの、そう近くもない距離を往復した、
――いつ起きるとも知れない男の横に、さぞかし暇だったろうに、ずっと座っていた、
ただ静かに、横に居た君。


今も、俺の気力のない朝をそっと気に掛けてくれている。その眼差しが特別なようで嬉しい。
栄口しか知らない、ベンチでダウンしていた俺の恰好悪い姿。
俺しか知らない、君が買ってきてくれたふやけた紙カップ。
誰も知らない、さっきの視線に含まれていたあの子の気持ち。
俺は密かに、「大丈夫?」という空耳に侵される。

彼の持つきれいな心の粒を、俺は見付けてしまった。あの時の、ふやけた紙の底に溜まる、水滴の光の中に。彼は俺に見せてしまったのだ、俺の切望していた性質の粒子を自分が持っていることを。
ところが、栄口の意識は、本当はサーチライトのように動いていて、この身が特別照らされているわけでもないことを俺はちゃんと知っている。時折フワリと撫でるように走る探索の線に、偶然引っ掛かったに過ぎないのだ。だから彼はきっと、俺でなくとも同じように対処する。何度でも、誰にでも、それは彼が彼であるがゆえに正しく刻まれてゆくだろうと思った。
(そんなのは嫌だなあ。)
どうやら俺は、栄口を独り占めにしたいらしい。

さて、では、どうしようか。
散らばった自己を総動員して、事に当ろうか。それとも、俺も彼も無傷の状態で仲良くしていたほうが善かろうか。
さしあたり、あの子と笑い合うために――まずは、体質改善から始めようと思う。
その他諸々のことは、追々。










終.
出会いの妄想。
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