企画text03_5b_3
此処に眠る。

- 子供化

<7-別.〜8-別.(あるいは別の終わり方)
困らされる



8-別.(続)

嘘。確かに、嘘に決まっている。いくらなんだって暗部に狙撃される筋合いはない。混乱気味のイルカは、騙されたことだけを理解した。
「でもね、発症したら、俺は本当に、こういう痴れ言を真顔で訴えるようになるんだよ。」
「そんな……。」
「お前にその恐怖が解かるか!」
「ぐ。」
ぐいと胸倉を掴まれた彼は平衡を崩して尻餅をついた。
「およそまともじゃないと白い目で侮蔑されながら思考力を失っていく怖さが解かるか!」
肉迫する魂が孕む鬼気の、今度は演技でないことを感取した。
「目障りだから、消えてくれ。」
(また……次は心にもないことを言っている。)
裏をみせたり表をみせたり、本音をくらます言の葉が繁る。繁る葉と葉の間に暗鬱な闇が咲く。虚実の入り乱れる森を迷わず進むには心眼と併せて、渡世人の度胸も要った。
「だったら好きにしろって、言うのを待ってるなら手を変えろ。俺は、その牌は一生振り込まねえ。」
イルカは自信の芯に火を点してそれを頼りとした。

多くの者は他者と競い合って生存している。その身を負かすのは他人である。周りより独力で解決してゆく能力に長けていると、その分だけ競争事が有利に運ぶ。では、それは単に楽な人生か。否。男は、単体で既にぐらぐらする生死の境目に立っている。切り立った稜線は他の者たちの平らかな地よりいくらも足場が悪い。彼は、彼自身の脅威によって命を落とすかもしれない瀬戸際を独歩していた。その姿が忽然と消えたなら、他人に突き倒されたのではない。その時は、彼の片足が虚空を踏んだのである。
「無関係の人間がやる罹患率の話は、罹るかもしれない恐怖心を中和しない。客体はどうせいつでも遠巻きだ、だったらとっとと火の粉の降りかからない対極まで消えろ。十パーセントって数字の重さを、お前は感じっこない。」
カカシは非常に不安定である。情動に負荷が掛かりすぎている。イルカは、懸命に局面を打開する形を考えた。向こうは生きるか死ぬかに臨んでいるのだから総てのエネルギーを放出してくる。こちらも受け損ったら死ぬ覚悟でなければ到底付き合えぬ。張り詰めた十九時半の室内が凍て付いているのか発火寸前なのかという知覚は置き去りにされていた。
「可能性に怯えて、なんでもかんでも手当たり次第に切り捨てていくのは潔さじゃない。」
「ほっといてって言ってんの。」
イルカには、それが悲痛な「捨てないで」にしか聞こえなかった。
「嫌です。貴方が仕合せにならないなら、俺は嫌です。」
「言ってるだろう、お前なんか居ようが居まいが……! いいことなんて、一つも起こらない。」

(ここは、火宅だ。)
嬉しいことなんて何も起こらなかった。―― 嗟乎、言ってしまった。精一杯やっている人に、言ってしまった。彼には責任のないことを言ってしまった。血の循環も、邪念のない接近も、尊い輝き凡てが苦しい。やることなすこと間に合わない。ここは、火宅だ。
逆上して、弱音をぶつけた。我ながら無様だと、カカシは哀れな人から身を離した。


いたずらに刻が逆流したのでないなら、今、伝えなければ。対話をして。何か。何を。イルカは立ち上がり服をはたいた。まだ出逢っていない九年前のこの人に、自分が何を言えるだろうという気持ちばかりが空回りする。
「起こらないって、知りもしない貴方が未来のことまで決めてしまうのはおかしくないか。」
「おかしくないよ。絶望ってそういうものだ。」
その話し方が二十六の彼にそっくりであったにも拘らず、何故かイルカは、十七年の命がまさに死につつあることを悟った。
「俺はねえ、イルカ。イルカは俺の知らない、ずっと遠くの俺のことを語るけど。明けない夜はないとか、止まない雨はないとかいう、手遅れの夢に効力があると思ってる台詞が大っ嫌いなんだ。そんな先のことはどうでもいい。そりゃいつかは明けもするだろう。雨だって上がるさ。けどね。俺は今晩死にそうなんだよ。いま降ってる雨に、もうこれ以上は耐えられないって言ってるのに。そんな分かりきった時の流れを、上から見た事実を気休めにほざく輩はさあ、俺なんかよりよっぽどいかれてるんじゃないかと思うよ!」
「…………。」
考えすぎて、頭を使いすぎると涙が出てくるんだなとイルカは思った。悲しい、悔しい、遣る瀬無い、腹立たしい、一体どの感情で己が泣いているのか分からない。ただもう思考する器がまとまらない詞の切れ端で一杯になったら、溢れた分が涙になって目から流れ出るみたいに泣けた。
君の世界は、今晩どしゃぶりかい。頼りなくても軒になるから傍へおいでよ。
斃れるほどに濡れたのか。どんな雨にも絶えない炎でいるから、冷えた体を乾かしなよ。
晴れるまで、俺で雨宿りしていけばいい。
君がこの夜に死にそうでも、俺は一晩そうして乗り切れそうだ。
嵐だろうが常闇だろうが、あと一人分くらいの吸う空気はあるだろう。二人で居るって、そういうことじゃないか。俺の待つ暁光は暗澹たる君の胸にある。

「やっぱり、それでも、二十六歳のカカシさんの仕合わせを、見もしないお前が決め付けるな。」
イルカの左腕に届きそうで届かないカーテンが夜風にひらひら舞った。微笑んでみせようとしたカカシの右の頬は引き攣って、上手く意図を表わせていなかった。そのうち、
「俺の頭を揺らして食ってく陽炎みたいな毬がある。ちらちら、ゆらゆらする。」
と呟く彼の全体は、鈍い唇に調子を合わせる振り子みたいにふら、ふら、と揺れた。
「それがコールタールになって肺にへばり付く。そこから黒い蔓が何本も伸びて手になって、臓腑を締め付ける。苦しくなって、俺はどこでもない世界で毎秒死にながら幻に噛み砕かれる。その先には何があると思う。長い、長い、因縁の螺旋だよ。螺旋の口が開くんだ。俺もあんな、不気味な気を放つのかなって、……………………不安で堪らない。」
何もかも信じられないこの世の中でたった一つ信じられるものが己だというのに、その己さえもがどこでもない世界であやふやな存在となり果てる恐怖から逃れられない。理性が強く働けば働くほど、もうすぐそこに飲み込まれると思う。それも溶けてゆく時間なのか、破裂の如き一瞬なのか、神は予告しない。
「……進行の速度だって、分からない……。」
イルカはカカシを見据えた。
「俺が、ずっと貴方の傍にいます。」
「……。」
カカシも真っ直ぐにイルカを見た。
「貴方を受け止めます。」
「……。」
「それに、貴方は俺の生き甲斐でもあるんです。」
「依存されてもね……。」
「依存は、人からそれに向かって出ている矢印でしょう、生き甲斐とは違う。生き甲斐の矢印はそれから人に、向けられているんです。」
君さえ笑ってくれるなら、他の願いはドブに捨てるよ。
「カカシさんの、仕方ないなって笑った顔が、俺は……。」
二人は視線を通い合わせて、そのままどちらも動かない。
「未来に来たみたいって言ったこと、覚えてますか。ここが未来というのなら、俺を見て。未来を確信して下さい。何十年かかっても、十年後の貴方を待ってます。十年後の貴方には俺がいます。だから流されてしまわないで。俺がいますから。」
「……おめでたいね、イルカは。」
廊下で団子になっている人間の気配を横目で読むと、カカシは額に手を当て、ぐったりとした。

空いていた個室へ移り直し、促された注射を大人しく受けて彼は眠りに就いた。イルカも簡易の寝台で目を閉じた。



貴方のことが、殻ごと欲しい。





9.

「イルカ先生。」
耳慣れた声の質にどきっとして跳ね起きると、そこにはイルカの待ち焦がれていた人がいた。
「カ、カカシさん……?」
「うん。」
「……カカシさん。」
「そうだよ。」
「歳、は。」
「もうその確認もお終いにして。元まで戻ったから。」
「……カカシさんが……!」
イルカは思わず抱きついた。
「ああああ、会いたかったー!」
硬い胴をぎゅっと締めても突き飛ばされることはなかったし、心の声が大きく洩れても殴られなかった。

「なんで! 口説き落とせなかったと思ってたのに、なんでー!」
「さあ、どうしてかな。飛んで行きたくなったからかも。どんな未来でも。貴方がいなくても。」
「いないってこたァないでしょうが。いるって言ったらいるんだよ、分かったか!」
「分かった。」
「よし。」
「いたから、ずっと寝顔見てた。」
「や、やめろ。聞きたくなかった、そんなこと。恥ずかしい台詞をさらっと吐くな。余計なことは言わんで宜しい。」
「いろいろ……たくさん傷付けたね。」
「う……、や。それはさ、ほら、俺への当たりが強くても、そんなのは、全然。生徒の反抗期に日々鍛えられていますから。へっちゃらです。」
「そこは。平気でもさ、大変だったって言っておけば好い目にありつけるのに。」
カカシは薄く笑った。それは、イルカの好きな笑い方であった。

「つくづく損な人だあね。」
「損得尽くの尺度で測れないこともあります。」
「ああ、全くこれだから。早く回復して良かった。」
「あ。そうだ、カカシさん、あの……。」
「どうかした。」
「術が解けて、その……どこか、変わったところ……。」
「ああ。」
「あるん、ですか。」
「貴方から目が離せなくなりました。」
「な、なんですと。」
「これまでは、俺がいなくなってもそれなりに貴方は生きてゆけるだろうと思っていました。けど、貴方には俺が付いてなきゃ。横で目を光らせてないと駄目なんです、貴方が損しないように。さっき寝顔を見ていて、いまこうして喋っていて、そう思い直しました。」

その後、職務に復帰したカカシに後遺症のような変化のあったことがさらに発覚した。イルカに対する独占欲が隠せなくなったのである。そして発作的なそれは、本人よりむしろ恋人をおおいに困らせ続けたのであった。
――研修って何。この距離なら日帰りで行けるじゃない。俺のイルカ先生が横恋慕されたらどうすんの。――なんでそんなこと言い切れるのさ。例えば十七のこまっしゃくれた糞餓鬼とか、参加しない?










終.
(2016.02)
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