企画text03_5b_2
此処に眠る。

- 子供化

<4-別.〜6-別.(あるいは別の終わり方)
困らされる



7-別.

「おかーえり。」
「カカシさん。」
「怒ってるかと思ったら。何よ、その顔。」
椅子の背凭れに肘を載せて気怠そうな頬杖をつき、若者は暗い台所から帰宅人の眉間をじろっと見た。
「病院で大人しくしていられませんか。」
「ああ、憐れみの顔か。俺のこと、可哀想だと思ってくれてるのかな。」
「そんなんじゃない。」
イルカは肩ごと大きく歎息し、床へ荷物を下ろした。
目を三角にして追及してくる鬼の形相と怒声を思い描いていたカカシはその消極的な態度が物足りず、
「ねえ、いいこと思い付いた」と、およそいいことを思い付いているようには見受けられない様子で言った。「俺のこと、可哀想だと思うなら抱きしめて。」
それは一拍置いても辻褄を合わせられない提案で、電燈を点けようとしていた家の主に動きを忘れさせた。

「いきなり、何を。」
換気扇の下の摺り硝子がモザイク模様に、路地と長屋の光を砕いている。飛躍した要求に付いてゆけなかった彼の意識も、じつに美しいと焦点が暈けた。そこから、黄色い光を千千に分解した油絵の筆致に横滑りしていった。星月夜と題されたその一枚をイルカは愛していた。
「二十六歳の俺はさ、アンタを抱きまくってんでしょ。」
「だ……。」
「俺に、どこが好きだって言われてんの。」
「ど……。」
「やらせてくれるなら、入院してあげる。」
と、カカシは畳み掛けて相手の言い返す番を封じてしまった。そこでイルカがようやく渋面を作った。
「あ、睨んでる。んで。返事は。」
「嫌です。」
「なーんで。」
彼は指を掛けたスイッチが、足を組む目の前の男を気の置けないその人へ、ぱっと変えてしまえる装置であればいいのにと切実に思った。思ったところで真空管の水銀にそんな効果はない。
「ここで俺がその取引に応じたら、その体が元に戻った時に、俺はカカシさんに八つ裂きにされるんです。」
このさい本気の度合いは措くとして、どこまでのことを想定して条件を出してきたのか知れないが、少なくとも彼の知るカカシは挿入する交接を求めはしなかった。イルカが捨て身で申し出ても、体の負担が一方的過ぎるから絶対に嫌だと断られた。粘ってもう一声掛けていれば確実に喧嘩になっていた。イルカはそう思っている。しかし、目の前のカカシはそんな、そうまでして気持ちよくなりたくないと言い切った、イルカの知るカカシとは同意見でないらしい。彼は、
「アンタさあ、カカシさんカカシさんって、なんなのよ!」と苛立ち、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。「俺だってカカシだし、だいいち俺のことは俺が一番……!」
解かっているつもりで、そうではなかったから十七という生き地獄を味わっているのだと思い至って下唇を強く噛む。
いかに気難しくとも放ってなどおけなくて、それなのに心を開いてもらう手立てが皆目閃かない、イルカは苦渋の色を浮かべた。
「二十六歳のカカシさんは、今の貴方のそのままではありません。歳だけ取ってるわけじゃない。」
「随分知った口を利くよね。俺のことを、どれだけ知った気でいるの。俺にどれだけ可愛がられてるっていうの。気色悪い。」

息の根を止めるのに十分な一言であった。イルカは、やりきれなくなった。このカカシと話していると相互の不和が修復不可能な深みに達する気がした。里長から説得しろと仰せ付かっていなければ、監護役を任されていなければ、きっと会話はここで途切れてしまっていた。
直前に綱手と対談していた彼をこの場に押しとどめたのは、目的を成し遂げねばという使命感であった。
「なら、病室に帰って下さい。」
「……。」
「ここに居なくてもいい。」
「……。」
「俺は、面会にも行きません。」
「……。」
力ないイルカの声ばかり続いた。
「監護人も、誰かに代わってもらいます。」
カカシは、廃品回収を待つ粗大ごみが電信柱の一所で集まって新しい陽に曝されているのを見た平凡な水曜日の気持ちを思い出していた。
「だから、自分を大事にして下さい。」
物言わぬ道具の最後に通行人は目もくれない。そこに自分の体もぐったりして有るように思えて、自分でないけど自分であるような一番近くの涙腺が緩んだ。
「……関係ないよ、……イルカには。」
この家には自分の箸という物があって、それを使った晩が嬉しかったけれど。
イルカの体温は温かかったけれど。
一緒に歩いた帰り道の、歩幅の違いも楽しかったけれど。
「そうやって、結局俺を捨てるんじゃん。」
「それは違う!」
古風な戸棚。脇の裂けたぬいぐるみ。曲がった物干し竿。折れて広がる蝙蝠傘の前で棒立ちになっている彼に、通りすがりの人は奇異の目を向けた。その朝に吸った生温い空気を、思い出していた。
「なんか、疲れちゃった。」
そう口走って初めて、そうか、疲れているのかとカカシは納得した。
「カカシさん……。俺も、少し疲れました。」
改めて見たイルカは酷く悄然としていた。
「俺が、一緒に行ってもね、同意書やなんかに、署名できないんですけどね。」
無理して笑った顔は歪んで、全身が泣いていた。
「でも、なんとかして、貴方を独りにはしませんから。だから、一旦病室を借りて、眠りましょう。」
目を伏せたカカシは、謝らなかった。





8-別.

「場所が深すぎるし、どうすることもできないんだ。各時代多方面の研究者が取り組みを続けているとはいえ、脳からして全容は現在でも解明されていない分野ということもある。これの状態は、確か細胞間の伝達物質が制御されていないという仮説が有力だったか。治療としては薬物療法を中心にすべき、といってもこれは私見だが、それにしても、副作用と量の調節が難しい。なんたって中枢神経に作用するものだからな。仮に、実年齢というか最近のあいつが罹患しているとするなら、頭で使う糖が足りていなかったのかもしれん。不健康な食生活と、休みなく働き詰めた結果だと考えられるだろうね。しかし記録を読む限り、二十三歳の時点では、まだ確定していなかったようだから……。」
なるべく平易にと配慮を受けているのであろうが、イルカの耳には話の半分も入ってこなかった。
(どんなふうにあの人の日々は成立していたんだろう。)
奇跡という、か細い糸の上に彼の生が辛うじて引っ掛かっていたのであれば、同じようにして二度は越えてゆけない。その糸があちこちに張り巡らされているのなら、それは奇跡とは呼ばない。何度も渡れるほど太いといいが。いや、変わらなければ、彼の未来は取り戻せないのであったか。では、どうすればいい。
(俺に何が出来るだろう。)
カカシが任務に発つ前のこと、「霞が主食だったりして」と彼の少食を看過した大食堂の片隅でのやりとりさえ責めたくなった。
(俺は、何に気付くべきだったんだろう。)
いつも自分ばかりが彼の横で安眠を与えられていた。
「カルテによると、記入が途絶えた時期のもので二つの大きな問題と周縁の問題三つを抱えていて、六つ目には打ち消し線が引いてあった。が、奴の先代と同一の診断名は書かれていなかったよ。彼等はある部分で非常に似通った症候を示すんだが、息子の問題のほうは大本を別に、この掛かり付け医は捉えていたんだな。それと、遺伝のみが起因しているんじゃない。環境要因も多分に考えられている。それに個人差が激しいんだ。と、そう説明しても聞く耳を持たん。あいつは、この病に取り憑かれているんだ。」
かぐわしいヒヤシンスが教室で水を吸っていた季節。時計のない夜にカウンターでウイスキーグラスを傾けながら、「子供の時分は親に似ているという感想をもらうたびに喜んだ」と、カカシは物静かに回想していた。
――けれど、そのうち似ていることが怖くなってね。――多感な思春期、そうね。なんとも詰まらない話だ。

「おい、イルカ。」
心ここに有らずの監護人に、火影は注目を呼び掛けた。
「今日で五日目になる。そろそろ流行性感冒といって伏せてはおけない。あと二日は待つが、本復まで依然として何年掛かるとも知れん状況だ、とりあえず明々後日以降の第七班は後任に引き継がせる。あいつの処遇は、追って沙汰のこととする。と、今日はそんなところか。」
「……は。」
「明日、また様子を聞こう。」
気の滅入る面談は長引いていた。
「イルカ。お前が倒れちゃいかんぞ。」
「……はい……。」
火影室を辞したその足で、彼は病院の別棟を訪れた。廊下の規則正しい単調さがやけに無情に感ぜられる。
病室を前にして、縦長の小窓の黒いことにおやと思ったが、そこでじっとしたままいるとお辞儀を交わしたばかりの見張り番を勘繰らせてしまうので、コンコンコンと来訪を知らせてひと思いに戸を引いた。


がらっと開いた入口を睥睨した、カカシは驚きを禁じ得なかった。
「なんなんだよ、ホントに……。」
「横になっていなくて、いいんですか。」
「何しに来たの。」
「会いに。」
「面会には来ないって。」
「捨てられるなんて誤解をされるんじゃ、身を退くわけにはいきません。」
昨日てっきりイルカとの関係を破壊したと思っていた彼は、顔を背けた。
「もう日も沈んでいます。冷えるでしょう。」
「……。」
開け放った窓辺にある、コロッケを摘まみ食いしていた小さな背中は成長して、なおいっそう寒々としていた。
「体に障りますよ。それともまた脱走する気ですか。」
「……。」
「今度こそ窓のない部屋へ移されますよ。」
「……。」
「これじゃ、拘束措置も追加かも。」
顎で指した天井に、飛び道具によって断ち切られた線が根元を残して筒型の覆いからちょろっと生えている。本来そこに吊られているはずの傘と電球は面会者の足元にうち遣られていた。

黙りこくっていた彼は不意に、何を思ったかパイプベッドの際に身を屈めた。そうして卒然それを「ふん」と持ち上げ傾けた。
片側の脚が浮いて引っ繰り返ったベッドのどしんという低い響きは床から窓枠を経て、短い震えとして上の階と下の階へ伝わった。
顔色も変えず、叫声も張り上げない。カカシは神経を研ぎ澄まし、ことさらに、冷静に、ただイルカをみつめていた。
廊下の見張りが何事かと病室を覗いた。扉のゴロゴロという音はおろか、第三者にも一切注意を払わない視線の固定に、
(俺を観察してるんだ。)
と、勘付いたイルカはすかさず邪魔になる要素の流入を防いだ。
「俺が呼ぶまで入って来ないで。」
「え、でも。」
「外での待機をお願いします。大丈夫です。」
「大丈夫ったって、ああ、ううんと、ええ。」
「介入されると困るんです。こっちより、そっちが騒ぎにならないように、皆さんを抑えに回って下さい。」
「あ、ああ、では、何かあれば、大声かナースコールを……。」
暴れているのではない。興奮の兆しもない。あくまで落ち着き払った息遣いで、カカシは角の棚もダアンと倒した。

最初は挑発しているのかと思ったものの、
(違う。)
激するよう煽っているのではなく怒りの線を測っているのだと気付いてしまったイルカは、そのことよりも諸々の弁償代について内心でもって指折り勘定し、嘆いた。
「聞いて。」
と、その彼に声を潜めて、カカシがひそひそ喋りかけた。
「窓の向こうから、暗部が俺に弓の照準を定めてる。」
やっと口を利いたと思ったら突拍子もない話であったが、頭よりも体が反応して反射的にイルカはしゃがんだ。窓の下までにじり寄り、有無を言わせずカカシを伏せさせ、伸ばした腕で素早くカーテンを閉める。
引っ張られて無抵抗のうちに沈んだ彼は、間近の相手に平然と言った。
「嘘だよ。」










-続-
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