企画text09_6
此処に眠る。

- 現役火影

<8.
別れ話



9.

自分の能天気が災いして死にかけていた事の全容を、一段落して聞かされたイルカは、「傍に付いていようか」と実質不可能なことは分かっていながら言い出してくれた火影を、「溜まった分を片付けてきて下さい」と仕事に送り出していた。
「ただーいま。調子どう。」
「お帰りなさい。床の掃除が大変だったんですよ。といっても、俺はお手伝いできずにこうして寝転がっていただけなんだけど。おかげさまで、頗る元気になった。」
「そ。」
「ほら、指先も、頭も、どこも異常なし。だから、明日の午後に退院してもいいって。」
「俺も、もうヤダって、帰ってきました。」
「はは。それはそれは。」
空いた食器の載る盆を回収してまわる看護師や、食後に自室を出入りする入院患者と擦れ違い、カカシは病室へ顔を出した。
点滴を受けながらうつらうつらし、昼を越してそろそろと平常に落ち着いていたイルカが、
「お疲れ様でございました」とお辞儀した。
「ここは夕食が早いよねえ。」
「そうなんですよ。それに風呂にも入れねえし。とっとと家に帰ってゆっくり湯船に浸かりてえ。」
「もうすっかりいつも通りなんだね。後遺症がなさそうでよかったです。そうだ、ねえ、それなら俺が体を拭いてあげようか。」
「結構です。さっき奇麗にしたし。」
「あ、ほんとだ、言われてみれば、不精髭もない。信じられない、ここでもなの。休みの日に剃ってるだけでも正気の沙汰じゃないと思ってたけど、入院した時にまで……。」
「何その激白。正気の沙汰じゃないという目で見られていたのかよ。これにはさしものイルカさんも複雑な心境にならざるを得ない。……言ってるでしょう、俺は、ジョリッとした感触にウワ、て、思われると悲しいんで……なるべく剃るんです。」
頭隠して尻隠さず。昔の人はよく言ったものだとカカシは感じ入った。そんなことで冷める恋に落ちた覚えはないが、と思う目に、変なところを譲らない男がいつだって斬新に映る。
「しおらしい。」
「う、うるせえ、しおらしいことなんかあるか。」
「そう。じゃあ、あっちもこっちも隅から隅まで散々見られといて、なんでそこ……という様が、大変に滑稽ですね。」
「オイ、悪口が絶好調だな、オイ!」
「ハハ、マァマァ、エット、ジャア、手続きに入る時間を聞いておいて、明日は一旦昼に抜けて来ますね。」
「カカシさんさ、火影になってからというもの、めきめき会話能力が上達しましたよね。華麗に流された。ええと、明日は、大丈夫ですよ、一人でなんとか……。」
「ハ?」
「う……、圧を掛けてくるな、圧を。」
「こういうときにしゃしゃり出られないんだったら、いつ家族面できるんですか、俺は。」
「……、……それは……、……、……。」
お説ごもっとも、と自立心に見せかけた気兼ねを引っ込め、イルカは言葉に甘えることにして首を垂れた。「……ありがとうございます……。」
「どういたしまして。」


「ところで」と、一息ついたカカシが訊いた。「捕まった奴のこと、知ってたの。」
「ああ、うん。お婆さんの変装は見抜けなかったけど、元生徒のお姉さんだよ。病室にいたの、あれ、薬戸さんだったんだね。」
「付き合ってみたりしなかったんですか。」
「え。」
「ずっと、言い寄られてたんでしょ。」
イルカは彼女に、あのボサボサした銀髪の忍は恋人かと詰め寄られたことがあった。世間とどう接していくか、彼らがその種の話をどこかで先送りにしていた昔である。その時は、カカシの体面を気遣い否定した。付き合っていると公言してもよいものかどうか、イルカは逡巡していた。
「それはそうなんですが。俺は生徒と同じくらい、生徒の家族もそういう対象にするなんて有り得ないので。」
「彼女、何回も振られたって言ってました。俺のときは一発で良い返事を貰えたから、なんだか意外な感じがした。」
「はは。それは、俺のことを誰彼構わず付き合う奴だと失礼にも思っていたか、カカシさんの自慢話か、どっちと取って聞けばいいですか。」
「んー、前者かな。」
「ぶれねえなあ。」
それより、とカカシは、一遍も相談されなかったことを悔しがった。
「ああ。それは、こんなことになるとは夢にも思わなくて。俺の危険予知が甘かったです。すみませんでした。カカシさんとの仲を聞かれた時も、俺、彼女に嘘を吐きました。別々に暮らしていた頃の話です。」

親の代理としてヒエラが忍者学校を訪れた日、放課後の空に広がっていた雨雲はしばらくすると地面を濡らすようになっていた。保護者面談を終えて階段を下りてきたイルカは、昇降口で立ち往生する人に知らん振りして教員室へ引き揚げることをしなかった。「持ってきていた傘が傘立てに見当たらない」と言う彼女に、彼は慌てて自分の傘を「置き傘ですから」と差し出した。それが出会いであったらしい。
そして無断で拝借した誰かの「ごめんなさい」を肩代わりして非を詫びたに違いない、俺なら絶対に謝らないような場面で、とカカシは想像した。
「ねえ、イルカ。俺はね、誰に承認してもらう必要もないけど、傷付けてくる輩とは、闘争しますよ。世論に啄ばまれて絶命するのはまっぴらだ。俺の人生は、貴方と楽しむというのが目的ですから。」
黙って聞き終えると、「俺も」と短く応え、イルカがはにかんだ。





10.

数年後、早春の月末に、六代火影は、前々から予約を取ってあった文化会館にいた。私用で朝から調理室を借りている。窓の外の植え込みには耳聡い雑誌記者が張り付いていた。
広い調理室で一人、小麦粉を伸ばしたり、冷蔵庫で休ませたりして生地を作っている。彼は、ここの石窯で林檎のパイを焼くつもりでいる。菓子教本を時おり愛読書に持ち替えては手間の掛かる工程をこなし、薄切りの果肉を甘く煮ていた。
先週の新聞に小さく載った記事とこの行動を、誰も関連付けられない。火影がせっせと菓子作りに精を出す様子を手帳に走り書きしている記者も、「火影様お手製パイ 味わえるのはモチロン……」とかなんとかいう下世話な見出しを躍らせることを考えていた。

巷間の関心がすっかり潰えた年にヒエラは獄を出ていた。それからまもなくして、死亡したというのが先週の金曜日に刷られた新聞の内容であった。雪のちらつく無人の路地裏で、彼女はひっそりと事故死していた。日付の引き算で身元の特定が難なく行われたことも知れた。朝刊を手にして、その日のイルカはカカシがいる部屋へ立った。
「……カカシさん。朝刊、全部読んだ?」
日当たりのいい窓辺に彼はいた。呼び掛けが届かなかったかとイルカが薄く唇を開きかけたところで、
「出てきていたようですね」と返事して、悠然と振り返った。
イルカはその目が泳がないのをじっと見た。
カカシは、相手の得心がゆくまであえて自分の表情を読ませてやった。
腹に収める調子で「うん」と言ったなり、イルカは戸口を離れて、それで二人は話を終えてしまった。
真っ白の、真っ黒。真っ黒の、真っ白。貴方はきっと白い世界の中に居続けられる黒い粒だ。そしたら俺は、黒く見えている世界に染めてもらえない白い粒なのだ。精神の凛とした匂いは、この因縁を弁えているところから立ち上る。
人であることに覚悟を持っている。カカシはイルカの、その自覚的な悟性を愛していた。
貴方の為に、という観念を懐疑する自分は、善人にも凡人にもなれない。ただ、善人や凡人の味方につくことはできる。カカシはそんなことをつらつら思う指先で、水をやっていた鉢植えの葉を撫でた。


イルカが炬燵で丸くなっていた週末。月曜日に持ち越せない仕事があるからと、カカシは外出していた。日が傾くと、勝手口の引き戸が鳴って「ただいま」と声がした。火影邸の玄関は、どっしりした衝立が正面を塞いでいた。式台を上がってまずあるのは、来客を通す応接間と座敷である。幅のある廊下をめぐらせた座敷は、襖を取り払えば大広間を作れる三間と続きになっていた。一階の対角に階段が大小二つも設けられていて、寝室や書斎が二階にある。このだだっ広い家の、どこに居るとも知れない一人に向かって大声を発するのは、家族が多ければ話は別だが、いちいち大儀なのである。それに比べて、二人がよく過ごす茶の間はというと、これは厨と障子一枚の隣にあった。それで自然、押し引きする厳めしい二枚扉の玄関よりも御勝手のほうが便利だと、カカシもイルカも、そちらを主に使うようになっていったのであった。裏口といっても、一般の一戸建ての玄関ほどもある。
「お帰りなさい。」
果たしてイルカが茶の間の硝子障子の、腰板の辺りから顔を見せた。「仕事のほうは。仕上がりましたか。」
「上出来です。」
「とりあえず冷まさなきゃ」と提げていた風呂敷包みから冷蔵庫へ、いそいそとカカシが何かを移している。
「それ何。」
「んー、長期の計画を完遂させた記念だあよ。」
「記念品が、ナマモノ?」
「林檎のパイです。」
「林檎かァ。」
「俺が作ったんですよ。」
「カカシさんが?」
半信半疑で聞き返されて、
「ほんとは今日、仕事じゃなくてさっきまで文化会館にいて、これを作ってたの」とカカシは冷蔵庫を親指で指した。
「お……うん?」
「苦手は克服できます。」
「……。」
「こないだだって、豚肉の塊と一緒に煮たら食べられたでしょ。」
「……うん。」
腹這いでいたイルカは、のっそり炬燵を出た。そして、
「あれ、美味しかった」とぼそっと答えた。

「カカシさん。」
「なあに。」
戸棚に手を伸ばすカカシは、趣味で揃えた茶葉のなかからパイに合う一品の選定にかかっている。
「鉛筆。削ってくれたんですね。」
「ああ。気が向いたからね。」
器用なこの男は、長年使い込んだ万能刀でもってシュッ、シュッ、と鉛筆の先を尖らせるのが上手い。
家には、金属の歯に横っ腹を噛ませておいて取っ手を回すとゴリゴリゴリゴリと均一にピンとさせられる鉛筆削り器もあって、イルカは専らそれを利用している。けれどもその真相は、面倒臭がって自分ではやらないというだけのことで、彼は、カカシの削った鉛筆のほうをはるかに愛していた。
カカシの手仕事で復活した鉛筆の先端は、削り器では絶対に真似できない形をしているのである。芯が長めに出ていて書き心地が格別いい。それに、彼の作った先で字を綴っているとどうにも仕合わせを感じて、心が満たされるのであった。
また、イルカは思ったそのままを本人に伝えて絶賛を惜しまなかった。
以来カカシは偶に、手にした一本の先が丸いとそれを尖らせるついでに、家中の鉛筆をことごとく削るようになったのであった。
「俺、カカシさんの削った鉛筆が好き。」
イルカは悪戯のする笑みでもって「どうしてだと思う」と口頭試問を始めた。
「さあ。芸術的だから?」
「ブッ、フフフ、よく臆面もなく言えるよな。でもさ、カカシさん。もしイビツだったとしても、俺は、カカシさんの削った鉛筆を好きだと言うよ。」
「……。」
缶を選っていた気持ちは、鮮やかに掻っ攫われる。
「カカシさんのことが好きだから。これが、答え。」
「……。」
「ったく、十年経ってもこんな感じなんだから。俺が一生かけて愛の指導をしてあげますからね。」
「はあ。どうも。お手柔らかに願います。」
イルカはカカシの背に引き寄せられた。そこが自分の運命の吹き溜まりであるように感ぜられて、そうであるならその背へ額を押し当てることは、彼の必然であった。
「俺が痛がること、しないで下さいね。」
そうして、両腕で囲い込む。

何者でもない俺の傍に居てくれなんて思わない。俺が何者であっても、傍に居てくれ。
少し速まる鼓動を享受して、カカシは、唯一顔のある人間に向き直った。










終.
(2017.03)
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