企画text09_5
此処に眠る。

- 現役火影

<7. 9.〜10.>
別れ話



8.

異国の縁日に紛れ込んでいた。ズラッと一列に吊るされた丸提灯の燈が幾本も、ガヤガヤと賑やかな通りの頭上に渡されている。人の出が多い。宵の町並みは幻想的に光と影の境を滲ませていた。
今晩カカシさんは泊りの出張で家にいないからと思っていたが、あれ、勘違いだ、俺が帰宅していなきゃ、あの人が一人になる、という気がしだして、急いで酒場の勘定をした。
真っ暗な夜景の上半分は星のない空で、下半分に湖が広がっている。波の音も、河のせせらぎもないそこに水を見出したのは、己が腰まで浸かっていたからで、後方に遠ざかった見知らぬ街は、海と見紛う広大な湖の縁に栄えていた。
夜の水面をライオンが走る。ペタッとした前方に奥行きの次元が伸びた。フサフサしたたてがみが立派で、黄金色の、雄々しい一頭が彼方から接近する。狩りの敏捷さで前後の脚を繰り出して迫りくるのに、猛然と蹴られた水は鏡のように真っ平らなまま、ありもしない光を不気味にテラテラ反射していた。水の玉が一滴も撥ねない。ピチャンと音も生まれない。それでいてこちらに狙いを定めた逞しい四肢が、ぴったりとした黒い水面を踏み、物凄い速さで近づいてくる。
獰猛な前足で押さえ付けられ、倒された男がいて、初めてバシャンと波立った。
少し離れところから、あれは俺か、と思う。思うそばから、次はトラが駆けてくる。ライオンが東の角度から来たのだとしたら、金茶色の体に黒い稲妻を巻いたその一頭は水平線の西から走ってきた。けれど、どこかで失速して、いつの間にか重量感も失くして、辿り着く前に消えた。難を逃れて幸運にも生き残った男がいる。それも、やはり俺か、と見ていた。やはり俺かと見ていたその三人目に、感覚が定着した。
その随意の感覚が、間近で躍動する三頭目に捕まっていた。珊瑚色のピューマであった。すべらかな、世にも美しい毛並みをしている。はっとした時にはもう遅い。いよいよ最後の俺が食われるのだという心持ちがした。痛みも恐怖もなく、浮遊の感があった。長く、太い尾を持つ珊瑚色のピューマの筋肉が肉迫する。肩と背が妖しくしなる。後ろ脚と繋がる尻の、足捌きのごとに隆起する動きが艶めかしい。
襲われている目の端に、桟橋が留まった。岸辺から真っ直ぐに伸びていた。それがなだらかに下っているらしく踏み板はじょじょに水位すれすれになり、ヒタヒタと濡れたその先はすっかり沈んでしまっている。あの細い橋を伝ってあちらの陸へ引き返せたら助かるのに、とイルカは、一本の白む道を横目に見ていた。
のちのち思い返せば、父に手を引かれて観覧した幼い日のサーカスの記憶で猛獣は成り立っていた。

イルカは目を閉じているあいだ、黒い水面を走る獣のほかに、楽隊の行進も観ていた。その隊列は、玄関を上がって来る。
窓という窓が開け放たれている。心地の良い風が、東の窓から南の窓へ吹き抜けた。
光は差し込まない。屋外は明るすぎて辺り一面が白い。けれども彼には、高い天の真っ青であることが解かっていた。外の光が強烈であるぶん、寝間も、廊下も、玄関も、家中が暗い。柱が黒い。襖が黒い。天井が黒い。どうしても開かない瞼が、その明暗をありありと映し出していた。
麗らかな、春だと思う。子どもの頃に寝ていた位置に延べられた布団で、午睡をしている。母の面影を織り交ぜたそよ風が懐かしい。晴れやかな昼下がりに横たえた躰を迎えにきたらしく、楽隊は枕頭を目指す。
往来を進むがごとく太腿を上げている。土足は困ると思う。しかし実際のところ、彼の瞼は開いていない。見えていないのに、見えている。
先頭が、大きな白い指揮棒を上げ下げしている。全員の足並みがきっちり揃っている。勇ましい喇叭と太鼓を鳴らす隊列はイルカを目指して、しかし、不思議と進まない。旋律の譜面は次の小節へ、規則正しい足取りは右、左、右、左と前へ踏み出している。それなのに一行は、ずっと玄関の廊下を行進していた。
幻怪な揺らぎと不如意の緊縛が合わさった、理屈を超えた時空であった。
イルカは後日、その楽隊は自分を連れてゆくのだとはっきり覚ったら、急に体内がカッと熱くなったと語った。


呼吸がぐっと苦しくなって、息が吸いたい、息が吸いたいと悶えた瞬間、ぱっと現実の世界に切り替わった。
横隔膜がぐんと下がって肺が広がった。裏でコロコロする眼球の動きを伝えていた目蓋も弱々しいながら開かれ、内の瞳孔を覗かせた。
「イルカ!」
「イルカ先生!」
よく知る声が呼んでいる。イルカの耳は、聞き慣れたほうに焦点を絞っていた。思考はまだ、受動的にすら回転しているとは言い難い。
「イルカ。イルカ。」
「イルカ先生。」
朧な人影が覗き込んだ。
とにかく胃が気持ち悪くて吐き気がする。発声に使おうと吸い込んだ空気はヒュッとすぐに使い果たされてしまった。
「……、……、…………。」
首を動かしたくても頭が重い。喉はカラカラに乾いていたし、ペタリとへばり付いたそこを開いて声を送り出す力も不足していた。
ここ、どこだっけ。
今、いつだっけ。
「イルカ、俺は誰?」
場所も時間も曖昧であったが、その声の主が誰かということだけがはっきりしていた。
「……、……シ…………。」
事情は分からない。けれどもとにかくそんなことは後回しにして、答えを与えてやらねばとイルカは思った。
無数の神経が神秘的に発火してゆく。

いつもと違う、なんだか焦って、余裕がない、一所懸命なその人の胸を、早く撫で下ろさせてやらなければとだけ思う。すると次第に自己が収斂してきて、不思議と気力を振り絞れた。
「……カ、……、シ……さん……。」
「よし。」
「イルカ先生。辛かったわね。」
カカシには十分な反応であった。病衣の前をはだけて黒い布の下を見ると、あの奇妙な痣も消えていた。
「おはよう。ねえ、私の名前は?」
目覚めた人に嬉々として注目していたヒエラは、視界の左端がふっと変わったことに注意を向けるのが遅れた。
「え……?」
男は忽然と消えていた。


忍の俊敏さで寝台の下へ潜り込んだカカシは、向こう側に立っていた女の足首を掴み、引き倒した。匍匐の体勢を保って勢いよく低い暗所へ引き摺り込む。
「アッ」という甲高い悲鳴は、じたばたする足を引っ張られまいとして、「ウウ、ウウ」と力むものに変わった。柔らかい乳房が床に擦る。周章する体は機械じみた力によって一気に後退し、イルカの真下の暗がりに引き去られた。

顔面をしたたか打って鼻血を出したヒエラはそれが口へ回ってゴフゴフと咳き込みながら、血の霧を飛び散らせてキョロキョロしていた。一瞬のことで状況を飲み込めない。狭い所に挟まっている状態では身動きも上手く取れなかった。
逃げようとするあらゆる抵抗にびくともしない片腕でグイグイと彼女を丸ごと引き込んだカカシはヒエラの上半身を寝台の下に留めて、自身は椅子のある本来の空間へ這い出た。
白い仕事靴を履いた足が夜目に目立つ。彼が、飛び出した二本の脚を抱える格好で身を翻し、彼女の尻の上へ跨ると、下肢が海老反りになった体には甚大な負担が掛かった。背面へ捲り上げる形の力でちょっと圧した、カカシはそれで攻め手を弛めた。火影のみに羽織ることが許されている外衣の袂に手を突っ込んで万能刀を取る。

動脈三本と静脈五本が、脛骨と腓骨に沿って通っている。それを避けて、後下腿部の腓腹筋を狙う。小伏在静脈のさらに腓側。長腓骨筋に達しても差し支えない。
刃を彼女のそれぞれのふくらはぎに、ブス、ブスと突き刺した。憤怒と熱い痛みから迸り出る声が寝台の下でくぐもった。そこでのたうち回られると上のイルカが迷惑すると思い、カカシは荷物を移動させる要領でヒエラの体をすっかり引っ張り出した。
そうしておいてすかさず立ち上がり、窓を開ける。すぐさま冷えきった外気とともに、気配を断って屋上で待機していた暗部が二名、長い縄を使いこなし軽やかな身のこなしで突入を果たした。


イルカの心身の安定を最大限に図り、万全の態勢で覚醒を待ち受けるべきだという考えもあった。時間の断片を起こった順にきちんと並べるのにもかなりの労力を要するだろうに、そこへきて現状まで騒々しいのは酷である。
だからここは大事を取って、彼の恢復を待つ、という選択もあり得た。しかし、カカシは配慮よりも実行の好機を取った。畢竟ずるに逆襲は、感情に突き動かされた軽挙ではなく、非情な意思決定によるものであった。

さっと病室へ降り立った暗部は、事前にあった火影の指示を守って各々の任務に着手した。
動物面を付けた一名が淡淡と女の口に丸めた布を押し込み、手際良く腕と足を拘束し、当直を呼びに行った。面で個を隠すもう一名もただちに刺し傷の応急処置を開始した。
「それが済んだら、悪いけど担架に乗せて二人で尋問部に連行しといてくれる。足跡、気を付けて。」
「かしこまりました」と手を休めずに了解する暗部に任せて、カカシは、イルカの枕元に顔をぐっと寄せた。
「俺のこと、ちゃんと判ってるよね。」
コク、コク、とイルカが肯く。
「よし。ここ、病院。もうすぐ先生が来るから。貴方は先生に診てもらってて。」
それにもパチ、パチと瞬きが返された。
「今ね、暗部と、ここに入り込んだ悪人の捕物をしてるところなの。ちょっとバタバタしてるけど、こっちのことは気にしないで。すぐに済ますから。」
そう言って離れようとすると、生気を取り戻せていない弱々しい双眸が縋るので、
「大丈夫、ここにいるよ。どこにも行きません」と笑って、カカシは安心を与えた。


気を失わなかったヒエラをカカシが、隻眼でいた癖なのか首を傾げて見下ろした。
「〈とろい〉な。〈ちんたら〉してないで、かわせばよかったのに。」
その面持ちにも、声音にも、情の片鱗もない。
「儚い優勢ごっこだったね。」
うつ伏せで呻く女の頭を、彼が土足で踏み付けた。
「グウ、ウウウ!」
「痛いのか。ま、それは〈お前のせい〉だし、〈俺になにか関係ある?〉って話だあね。そうだ、いい車椅子の職人を知ってるんだ。紹介しよう。」
「ウグウ、ウウ……!」
「それにしても、よくも俺をこんな目に遭わせてくれたね。」
よくもイルカを、と言わない己の欠陥をよくよく承知した上でカカシは話していた。
「そうそう、俺とお前は同類だと言っていたっけ。それに関する俺の知見……ワー、鉄格子越しに聞かせてやるよ。それまではどうか、健やかなる囚人生活を。」

しゃがんだ男の気配に、ヒエラは血走った目を上げる。
「〈恨めしそうな目を向け〉られてもな。これはね、身柄を逃がさないようにしただけ。仕返しでも、罰でもないんだ。」
彼女は後ろ手に嵌められた手枷をコツコツと叩かれた。
「ここで懲らしめようなんて思わない。ああ、こっそり私刑を、って意味じゃなくて。〈ムカつく〉けどね。法による裁きを受けなきゃ。ねえ。」
「ウグウウウ……!」
逃げる気力を喪失したばかりか、耳に届く言葉を言葉として理解するわずかな余裕さえ、もはや彼女にはない。脂汗と涙で化粧がドロドロに溶けていた。
「ふむ。〈さもしい目〉をしてる。」
カカシは草叢のバッタを見るように、沢のカニを見るように、赤く汚れた有機体をしげしげと覗き込みながら話を続けた。「それにしても、イルカを盾にしたらあとは行き当たりばったりでも、なんとかなると思っていたのか。〈馬ッ鹿じゃないの〉。俺は〈腕のいい忍〉じゃない、火影だよ。この〈無能〉が。〈実感したでしょ〉、お前の作戦は練られているようでスカスカだったって。肝要な対策がなにも立てられていない。細部に及べば及ぶほど穴だらけだし、作戦完了の時点を誤って設定している。イルカを手に入れた先にある現実を考えていたか? 何も考えてなかったろ。楽しい夢みたいな生活を思い描くばっかりで。でも、〈お前が悪い〉よ、〈屑〉。粘着質なだけで緻密さがない。ちっとも洗練されてない。こんな不始末をしでかしたんだもの。〈手回しはさせないわ〉って……したり顔されてた時なんかは、白々しかったかなって俺も反省してるけどね。吹き出しそうになるのを、頭を抱えて誤魔化してたくらい、お前は〈隙だらけで残念〉だったよ。」
暗部の要請を受け、足早に病室へ到着した医者と看護師は、異様な室内の光景に立ち竦んだ。
「恐れ入ります、少々取り込んでおりますが、我々のことはお気になさらず。そちらはそちらの職務に励まれて下さい。こちらの負傷者一名は我々暗部の管轄におります」と、医療用具をてきぱき持ち替えつつ、別の暗部が口も動かした。
カカシは最後に、
「欲しい物のカタログばかり眺めていて、盗りに入る店の防犯については下調べを怠ったな。イルカは渡さない。」
と、敗北者の耳に低く囁いてから、大切な人の傍へ戻った。


イルカは起き上がろうとしたが、肢体が鉛のようであった。
それに、心配を掛けた存在に気を取られて医者の問い掛けもなかなか耳に入らない様子である。腰に手を当ててそれを見ていたカカシは素っ気無く、顎でちょいと指図した。
「こっち見てないで、先生のほうに顔を向けて、ちゃんと診察を受けな。」
「……怒って……る……?」
「怒ってませんよ。」
「……。」
額に掛かる髪を掻き上げ、彼が言い直した。
「疲れてるだけです。」
「……俺……、……。」
イルカは、父と母が存命の昔日を隠し味に使ったような夢から覚めて、その延長上にある今はカカシに優しく叱られていることが、なんだか嬉しかった。

(――疲れるよ。)
蒸した夜。真逆の季節だった。

――疲れてるだけです。
あの時と同じ。また、俺が疲れさせている。

(――別れたいの?)
でも、たとえ足手まといだとしても、その俺がどうしたいのかと、カカシさんは矢印を突き返してきた。
――……俺……、……。
手を煩わせてばかりで、売り込む利点もない男だけど。

「……別れ話は……しない……。」
掠れた声でイルカが言った。
思いも寄らない一言ではあったが、心当たりがある。何年経ってもイルカが忘れていなかったように、カカシにとってもそれはいつまでも色褪せない思い出だったのである。ただ、それをこの状況で持ち出してきた彼の図太さにカカシは失笑した。
「偉いじゃない、覚えてたの。記憶もしっかりしてるようですね。」
「うん……。」
天辺から爪先まで自己を取り戻したイルカは全身のだるさを押して、目を瞑りながら唇を突き出した。
カカシは首の角度を少し変えて目を細める。その小さな仕草で、窘められていると、イルカには通じた。










-続-
9.〜10.>
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