企画text09_4
此処に眠る。
| - | 現役火影 |
| <4.〜6. | 8.> |
| 別れ話 | |
7. 季節外れの蛍がかじかんで発光したように、チカと読書灯が点いた。薬戸は床頭台の抽斗を開けた。浅い底の丸缶や黒い布、鬱金色の紙片やら、呪術道具の一式がそこにあらかじめ収納してあった。患者をこの個室へ運ぶよう仕向けた彼女が、事前に仕舞っていたのである。小さな瓶は中身が揺れた。液体が入っている。「まず私の身を清める」と言い、彼女は湿りけのある布切れで両手と首筋を拭いた。 そうしておいて、黒地に籠目の文様を施してある布に油紙を敷き、モジャモジャの草と、茎も葉もしっかりした草とを挟んだ。その上に柔らかな綿布を載せて瓶の液体をたっぷり染み込ませ、仕上げに赤い粉を振った。 「コンツリュー……ツディーゼーヴェル、ゼー、レアギー……アウデンアンルーフ。ディゼー、イス……ウンシュタフリ……。」 口の中でぶつぶつ呪文を唱えながら手馴れた動作で同じ物を二つ作ると、一つはイルカの体の下に置くから、素肌にして差し込める隙間を作れとカカシを使った。 彼がイルカの体に触れると、もう生きていないくらい冷たかった。それでも皮膚の硬直していない感触は、どれほどカカシを励ましたろう。 「なんだ、これは……。」 右の胸の下の辺りに黄色い、微小なミミズが数匹のたうった模様の刺青か痣のようなものの付いているのを、ポツリと点る明かりが照らしている。忍を生業にしている者なら真っ先に呪印を疑う形であった。が、初見で、それは記号のようにも文字のようにも見えた。 「呪術の紋。救急室の人たちはそんなこと、一言も言ってなかったでしょ。それもそうよ。ここに寝かせてから、私が付けたんだもの。」 「……。」 「フン、アンタがいくら指でなぞったところでどうしようもない。忍の呪印術じゃないんだから。」 彼女はこれみよがしにせせら笑った。 「それより、とろいわね。ちんたらしないでくれるかしら。」 そうして黒い布の片方が背面に敷かれた。 もう一つを紋へ当てるとそこで指先を動かし、何かの形を切っているのか描いているのかカカシには分からなかったが、ともかく薬戸が、 「これで、十五分もしないうちに目を覚ます」と言い、うっとりと眦を下げた。 「十五分……。」 「イルカ先生は見るからに頑健って感じだし。精力、ありそうよね。んふふふふふふ。」 「……。」 「ああ、待ち遠しい。さあ、私の呼ぶ世に帰ってきて。」 緩慢にまばたきをしながらカカシも独白めいた自嘲を真っ白い上掛けにベチャベチャと零した。 ご覧、魔物と獣が貴方を争っている。笑えるだろう。美しい魂の匂いを嗅ぎ付けたんだ。醜いと万人が顔を背けるだろうけど、貴方はどうかな。可能であるなら、食い千切って飲み込んでしまいたい。どちらもがそう思って、貴方を覗き込んでいるんだよ。花に、鳥に、風に、月に、目と目を見交わした、その後で。恋か。愛か。人類はこの動機をなんと定義するのだろう。 イルカは憧憬を抱かせる。子供の頃に捨てた、否、自分にはないものだと思っていた人性を開花させてくれるかもしれない。そういう憧憬である。 彼が笑うと、右のポッケを探してごらん、と言われた気になる。彼が目を逸らさずにいると、内側のポッケはもう見たかい、と言われた気になる。業が深ければ深いほど、その魅力に酔い痴れる。 カカシは長い溜め息を吐いて、ドサリと腰を下ろした。 「オイ、そろそろ詰め所に顔を見せてこないと、何かあったと思われるんじゃないのか。」 「ああ、アンタが変なことをしないように見張ってなきゃならないでしょ。だからこの病室はね、『火影様から直々に“私を寄越せ”って指名されてる』って言ってあるの。戻るのが遅くても、何かあったと思ってそっとしておく、大人なら。そうでしょ。隙がなくて残念ね。」 縦傷が走る男の左の眼は、瞳術を操る赤い眼を失ったのちに再生していた。揃った両目がギロッと動く。色違いであった以前よりも、むしろその一睨は凄みを増していた。 「なによ。恨めしそうな目を向けないでちょうだい。」 「……用意周到なことで。」 言いなりになった二つの眼が悄然と伏せられて、言い返した皮肉も賛辞に転調してしまった。彼の時間は、毎秒ずつイルカに殉じていた。一秒、また一秒。パタリ。パタリ。パタリ。パタリ。累々と斃れた一秒が、千の夜かに思われた。 「ふん。第一今日限りでここには二度と来ることもないんだし、知ったこっちゃないわ。」 「目的を果たしたら職場も用済みか。」 「職場ねえ。」 「一応そうだろう。まだ期間中なんだから。」 それまでしていた爪を気にする仕草を女がぴたっとやめた。 「なんのこと。」 「とぼけるなよ。元は民間病院から来ている看護師だろう。ここの医療忍との交換研修で。交流の期日は年明けだ。」 「……。」 「この人の意識が戻るまで話をしないか、ヒエラ。」 名札に下の名前は記されていない。派遣の件も話していなかった。薬戸ヒエラの平静が、俄然揺らいだ。 「さっき気付いたくせに、どうして私の名前を……。」 「さっきじゃない。」 「……さっきじゃ……ない?」 男は部屋から一歩も出ないで、ずっと付き添っていたはずであった。 「お前が最初の巡回にやって来たあとから、お前の素性は暗部に調べさせていた。」 「なに言ってるの。」 「三回目の巡回のあとにとりあえずの報告を受けて、四回目の巡回のあと……これの一つ前だな、日付が変わる前だ、その時間にも追加の報告を受けている。」 「……。」 夜の八時を過ぎた時刻、カカシは特殊な呼子を吹いていた。刻限も所も問わない。その高い周波数の非常召集音を聞き付けると、火影直属の部隊である暗部が動く。 火影の得意分野によって暗部は代ごとに特徴があった。先代である五代目の暗部は、医術に長けた忍が多かった。カカシが率いる現在の暗部には人間以外の生類を各人の相棒とする忍が多い。 三階の窓に、忍犬使いの忍が極秘裡に一番乗りして馳せ参じた。カカシは、ある看護師の来歴を大至急調べるよう命令した。 そして、およそ二時間で判明した内容を一先ず口頭で報告した暗部が、さらに一時間経った十一時半前後に再び情報を頭に入れ、枯れ葉一枚の軽やかさで窓辺に現れていたというのである。 特定の看護師に当たりを付けた根拠の一つ目は、教壇を退いて何年にもなるイルカのことを「イルカ先生」と呼んでいた点であった。イルカと接点があっておかしくない。年格好からむろん教え子ではない。あるいは以前に外傷を負った彼を看ていたか。だが、そこだけ取ってみたところで両者の関係性の良し悪しまでは不明であるし、なにせカカシの頭脳は随分と混乱していた。 一つ目の第六感を補強した二つ目に、並みより鋭い彼の嗅覚が、蘭の花で覚えた香気を知覚したことが挙げられる。看護師が濃やかな甘い香りを漂わせて働いているのに違和感があったのである。 駄目押しの理由は、なんといっても堂々と色目を遣われていた点であった。イルカに対してひとしお強い想いを寄せていることは、処置室前でした一度目の接触と、改めて注意深く観察した二度目の接触、つまりヒエラが一回目の様子見に来た段階で明白となっていた。 「この人に何かしたか」というカカシの質問は、疑念ではなく、その時点で既に入手していた情報を確認する尋問であった。 「あっそ。」 瞠目も束の間、ヒエラは難解な詩の朗読会に義理で出席した聴衆のように退屈そうにしていた。 「外部と連絡が取れたところで、それがなんだって言うのよ。やっぱりイルカ先生を救う手立ては判明しなかったんでしょ。それはね、時間が足りなかったんじゃないの。何日掛けたって、私以外の奴にイルカ先生を生き返らせることはできないの! ……ふふ……あっははははは。」 「楽しそうだな。」 「だって可笑しいじゃない。分かったのは原因不明ってことだけだったでしょ。この無能ども!」 笑いの余韻が、にんまりとする口の端をピクピク引き攣らせていた。 カカシは奥歯をぐっと噛んだ。 「それにかえって好都合だったかもしれない。自己紹介の手間が省けて。」 「俺と話す機会を見計らっていただけで、そもそも素性を隠す気はなかった。」 「そう、別に隠してたわけじゃない。」 どこかで何かの拍子に目を付けられたとしても、彼女は同じことを言えばよかった。いつ見破られても、その時に、「私に変な真似をしたらイルカ先生の目は覚まさせない」、と。 「アンタらの察しが悪かった場合は八回目に来た時に、私から名乗るつもりでいたわ。それまでは、なんていうかな、仮初めの逢瀬ってやつね。」 「つまりまだ二時間も、この人を仮死状態で放置する気だったのか。」 女の目がニコリと異様な力で山形に曲がった。 「馬鹿なアンタに思い知らせてやる時間でもあったの。愛する人をこんなふうに追い詰めておいて、アンタは何もできやしない。助けられるのは、この私。うふふふ、どう。実感したでしょ、この差を。別れることが、イルカ先生の為になるってことを。」 「歳の離れた弟が、この人の教え子だったのか。」 挑発を無視しておいて、カカシは全く別のことを口にした。 噛み合わなかった返事に、よく回るヒエラの舌がはたと止まった。 「キラル。」 「……。」 「弟だろう。」 「……さあ、どうかしら……。」 「下忍だったようだ。」 「何それ、階級? まあ、そうよ、学校を卒業して、忍になった。」 「薬戸キラル。十二年前、齢十一で忍者学校を卒業している。」 「……今は天国にいるけれど、それも承知の上でしょ。」 「記載は病死、と。」 「うちの家系は仕方がないの。アハ、まさかそれを披露して、私にうろたえて欲しかったんじゃないわよね。」 「ああ、そのまさかだったが……当てが外れた。」 もっと目に見えて虚勢を張るか、さもなくばこちらの無神経さを罵るかと思っていたが、カカシが見込んだほどは、彼女は気が動転していなかった。しかし、 「ねえ、そんな程度の過去で私を丸裸にしたつもりなの? そんな、たかが家族の生死ごときで?」 と、口を衝いて出てくる言葉は確実に、だんだん上ずっていく声に乗っていた。「でも、じゃあ、これは知ってた、ねえ?」 起こるかもしれない変化を見逃すまいとして、うるさい女のことは黙殺し、カカシはイルカをじっと看視していた。 「確かに、書類の上では弟だった。けどね……。」 女の注目されない感情はとめどなく、ひとりでにますます昂っていった。情緒の文目がぐちゃぐちゃになるのを堪えるあまりわななきながら、握りしめた拳を唇に当てている。 「だけど、あの子は、私が十五で産んだ、最初の子よ!」 それは半ば叫ぶような、どこか痛ましい声であった。 残留した真実は身に降りかかった時から体内に食い込み続けて今の今まで排出されずにいたというのに、言ってしまった瞬間それは、無色透明の楔になって抜けた。そしてフッという僅かな呼気に吹き飛ばされた。あっけなく、跡形も無くなってしまった。質も無い。量も無い。もろもろの事実すら無かったかのごとく、どこかへ消えた。二十三年間刺さり続けた楔の穴には、まとまりを失くした痛苦がブクブクと煮え滾ってすぐにも吹きこぼれそうに女には思われた。 「ふうん。そこまでは掘り起こせなかったな。」 そう応じたが、カカシの無関心は露骨であった。 人生で初めて暴露した秘密をあっさりと聞き流されてしまったヒエラは、曲げた親指の関節に歯を立てた。なおも散らない苛立ちが募る。 「私の母親は、男運のない、糞女だった!」 骨肉を軋ませるように彼女は吐き捨てた。 ヒエラの家は、生まれた娘を魔女に育てる家系であった。木ノ葉の里を擁する火ノ国よりはるか西の地方にルーツがある。太古の昔、その知識や技術は民衆に尊ばれていた。ところが、時代を下るにつれ畏怖の念が大きくなっていく。群れは本性を発揮して日和見に走った。物の見方はたちまち反転する。ヒエラの数代前には、得体の知れない呪術や魔術を使う者は見付けしだい火あぶりにするという事変が起こった。彼女の母は、魔女狩りと恐れられたその凶行から逃れ逃れて、忍術を使う忍が築く隠れ里へ、それも、故郷からはうんと遠い隠れ里へ辿り着いた。周辺の隠れ里では間者の嫌疑が掛けられるおそれもある。遠方の里のほうが、かえって渡り者は居付きやすかった。先代の魔女はそして慎ましやかに異なる文化圏で糊口を凌いだ。それが木ノ葉の里であった。 それにしても、話の軸が突然母への罵倒に切り替わった。裏街道を跳梁してきた見聞は後味の悪い筋を推測した。が、どうあれ劇しい刺激を用いる幕ではないと、カカシは静観を決め込んだ。 「……親をそんなふうに言うもんじゃない。」 「はあ?」 殺伐とした室に「アッハハハハ」と、悲痛な高笑いが響いた。 「馬鹿じゃないの。どうせアンタも同類のくせに。ねえ、そうでしょ。半可臭いこと言わないで。ゲロ吐きそう。」 「諭そうってんじゃない。余りに可哀想だから、助言を。」 「熨斗を付けて返すわ。アンタだってまともな家庭で育ってないでしょ。判るの、そのさもしい目付きでね。ああ、誤解しないで、蔑んでるんじゃない。蛇の道は蛇ってやつよ。」 イルカの顔を体の正面に捉えて座る男は、寝台の向こうにちらりと横目を遣った。 「ただ越えていけばいい。たかだか一世代前の片割れにすぎないものの周りを、その歳になってまで未練たらしく、口汚くウンウン蠅みたいに飛び回るだけの熱量があるならそれを他のことに充てろ。」 「私に命令するな! ――ふん、そうね、これからはイルカ先生とのまぐわいに充てるわ。指をくわえて見てるがいい。」 こいつが何者であるかはあらかた掴めた。もうすぐイルカを我が物に出来るという胸の高鳴りを十分に味わっていることも見て取れる。その高揚感は俺から勝ち取ってやったという思いと裏表だろう。 まともな家庭なんて寝言をほざいているからお前は仕合わせになれないんだ、と引導を渡して不毛な応酬を切り上げてしまいたかったが、カカシは聞くに堪えない煽りもなすがままにした。そうして、かけがえのない人が深部から蘇る前触れを辛抱強く待っている。待ちながら、イルカの信条を耳の奥で音楽のように聴いた。 ―― 長所が一つもない人間はいない。 貴方は本当にどうかしている。 そう思っていたところへ、「そう言えばアンタ」とヒエラが言った。 「イルカ先生のことを『この人』、『この人』って。全然名前で呼ばないわね。」 これにはカカシもぎくりとした。 怖いのである。失うかもしれないという恐怖心が、そのおそれのあるものの名を口にする行為を頑なに拒んでいた。 意志は、必ず助けると燃えている。 理性も、イルカはもうすぐ目覚めると分析している。 それなのに、自己を防衛する機制だけが単独の働きをして、喪失への対処をはやばやと始めてしまっているのである。気が狂ってしまうのを防ぐべく先行する本能が、唯一の人の名を呼ばせない。そうして取った、失うかもしれない者との心の距離が緩衝の役をして、彼の抑制を担保していた。 「つくづく薄情な男。」 「……ああ……。」 とりたてて唱える異議のないカカシは、一心にイルカの生命力に縋っていた。 -続- |
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