企画text09_3
此処に眠る。
| - | 現役火影 |
| <2.〜3. | 7.> |
| 別れ話 | |
4. 病院は今晩一人目の急患を担ぎ込み終えた。けたたましい音の絶えた夜半、清潔な病床で目を閉じて動かない躰の傍に男は座る。イルカは安らかな眠りを続けているようであった。今のところ、見ている分には辛そうにしていない。 「あら、まだいらしたんですね。」 「ん、アァ。またアンタか。」 この看護師は、カカシが駆け付けた日没からいた。彼女と顔を合わせるのはこの巡回で六回目である。最初は、処置室前で。次は、一時間ほどして様子を窺いに来てくれた。その次は、消灯ですとわざわざ声を掛けてくれ、その後も彼女は十時、十一時と一時間おきにイルカの容体を気に掛け、病室へ足を運んでくれていたのであった。 「失礼します。検温して、病状の記録を付けます。」 「よろしく。」 ほんのちょっと前に夜はひっそりと日付を跨いでいた。 「まだ働いてんの。」 「はい。」 「夜勤の人員は。」 「まあ夜勤だなんて、お詳しいんですか、白衣の天使に、ふふ。」 「そういうんじゃなくて。もっと体を動かしてた時代に、ここに放り込まれることがあったから。聞いたのは火影として、体制が気になったんだよ。」 「そうですか。人手は足りています。私は、希望して残っているんです。」 「へえ。仕事熱心だね。」 イルカから目を離さずに口を動かしていた彼は、彼女の唇が弧になるところを見逃した。 「火影様こそ、こちらで一晩明かされるおつもりなんですか。」 「ああ。」 「何か、召し上がりました?」 「いや。そんなことはどうでもいい。」 「いけませんよ。」 ふと、カカシの脳裡にイルカとの食事にまつわる印象深い場面が蘇る。 それは、付き合って間もない頃であった。任務が終わったら何時になっても構わないからうちを訪ねて下さいと言い含められていたので、カカシは恋人の家へ上がった。月は高く、人々がおやすみと挨拶を交わして火の始末をつけ、そろそろ布団に這入ろうかという時刻になっていた。訊かれるままに小腹が減っていると答え、横着して台所で手を洗う彼に、流しの窓からそよそよ入る涼風が当たった。教材作りの手を止めてイルカは茶漬けを作り、そして、交際を機に買い足した椅子を引いた。だが、食卓に膳は一人前しか用意されなかった。 ――あれ、アンタの分は。 ――俺はもう食べました。 食べたのなら居間にでも行って好きに時間を使えばいい。持つ箸もないのに向かいの席に着いた意図が、カカシにはいまいち分からなかった。 ――なら、どうしてそこに居るの。 ――独りで食べさせたくないんです、俺が、貴方を。 ここでホロホロとほぐれるような心が備わっているなら、どんなにか救いの余地があったろう。残念ながら孤独な食事をして育った男にとっては一人きりが普通であったものだから、正直に白状すると今更そんな温情を施されたところで、見せつけられた行為そのものに特段嬉しさを覚えたりもしなかった。ただ、この心理は花束を贈られた人と同じではないかと洞察していた。 イルカに心を配られている。世の人が〈温かい〉や〈優しい〉と形容するその心配りをどう受け留めるのがもっともらしいのか、前例を持たない当座のカカシは、正しい反応を思い付けずに結局は「へえ」と平坦に受け流してしまったのであった。 「看るほうが倒れてしまうのが、一番厄介。」 「それは、忠告をどうも。」 「イルカ先生のことは私が看ていますから、少し休まれてはいかが。」 カカシが目を上げると、彼女も話し相手のことなど見ていなかった。献身的な看護師はさも愛おしげに、意識のない患者をまじまじと見詰めていた。 「……アンタが?」 「私が。」 「ぶっ通しで、えらく手厚い看護をしてくれるんだね。」 「これが天から与えられた私の使命ですから。それを全うしているまでです。」 「そう」と受けて名札を確認する。「薬戸」とあった。 「ヤクトって読むの、その名前。」 「ヤクコ。」 目付きを険しくした火影と視線をぶつけた薬戸は、その瞳に凶暴な憎悪を溜め込んでいた。「やっと私を怪しんだの?」 体温計の待ち時間を示す砂時計の砂が、無音のうちにハラハラと下の膨らみに積もってゆく。 「イルカ先生と別れて。」 イルカと、別れろ。 いきなりのことであった。脈絡がない。が、力の籠った発声からして、口走ったのではない。それは、言うと決めていた台詞に違いなかった。 唐突な要求に何かしらの答えを返す前に、カカシは、要求と眼前のイルカとの関連性を尋ねた。 「……この人に……何かしたか。」 「私? 私は、林檎と特製のジャムを振舞った。」 イルカを助ける手掛かりが見付かったかもしれない。と同時にそれは、犯人の自白も同然の返事であった。 「お前か、この人をこんな状態にしたのは?」 「アンタよ。この人をこんな状態にしたのはアンタ。ああ、けど、私に変な真似をしたらイルカ先生の目は永久に覚まさせないから。」 房の空気はすっかり不穏になっていた。 「やっぱり単なる失神だとか、寝不足が原因って話でもなけりゃ、病気でも、忍術でもないんだな。」 フン、と看護師が鼻で笑った。 「胃を洗ってたけど、ましてなんの検査もするだけ無駄よ。忍術じゃなくて、呪術と毒の合わせ技。ちなみに猶予が幾日もあるなんて思わないでね。そんなに長くない。今だって、この状態が長引けば長引くほど内臓には負担が掛かってる。」 毒。それに、なんの検査もするだけ無駄ときた。ということは、病院の検査では引っ掛からない成分か。毒なら肝臓に負担が掛かる。 彼女の言は、一応合点がいくものであった。 「……殺すのが目的か、この人を?」 「馬鹿なこと言わないで。アンタと一緒にしないでよ。」 「ハ?」 「火影様と対等に話し合うためよ。こんなふうにね。」 「……。」 「アンタが相手だから、こんな方法を取らざるを得なかった。」 人質を取るにとどまらずその命を危険に晒しておきながら、対等とはね。 カカシの内心が、マスクを下ろしている唇の角に如実に表われた。 「別れろ、か。その話に入る前に、この人の状態を包み隠さずに言え。」 「私に命令しないで。」 腹立たしさを露わにした薬戸の強い語気が、威圧的な男の雰囲気を跳ね返す。 「……。」 カカシは、揉め事の場数を踏んでいるどころか、相反する主張が激突する抗争や、交渉が決裂した挙句の局面でのみ生き続けてきたといって過言でない忍であった。一呼吸の間を置いたのは、息を呑んだからではない。 とはいえ、やり場のない個人的な忌ま忌ましさを肚の中で中和するのに苦心していた。 「いいわ。」 憎たらしい相手を制したと思う顎が無意識に上がった。「私に殺す意思はないけれど、もしイルカ先生がこのまま死んだら……それもアンタのせいね。話し合いが長引いたり、良い結果が得られなかったりしたら、それは私のせいじゃないもの。アンタが悪い。そうでしょ。だけど、私がこうして見守っている限りは大丈夫。」 薬戸が上掛け越しに、イルカの胸にそっと手を添えようとした。 「触るな。」 途端にカカシが目を剥いた。ヒュッと相手の喉が締まるような、怒気を通り越した殺気が迸る。 「……これだから厄介だったのよ、アンタをイルカ先生から引き剥がすのは。私に危害を加えないで、って最初に忠告しておいて正解だった。」 まあいいわ、と腕組みして彼女は砂時計を一瞥した。 「なんなら、砂が全部下に落ちたらアンタが体温計を抜きなさいな。いずれにしろ、話がまとまればここですぐに呪いを解いてあげる。さっきも言った通り、こうなってる半分は毒が廻ってるせい。だけど致死量じゃない。一晩でそっちは抜ける。但し、普通の体力で、代謝が追いつけば、ね。」 「……。」 カカシは乏しい判断材料を吟味し、並べられた言葉の真贋を検討した。呪術は、極西の魔女が扱う領分である。忍の忍術が他の流派に洩れないごとく魔女の呪術も秘伝であり、そのほとんどが謎に包まれている。遠く離れた木ノ葉の里ではほぼ研究もされていなかった。 「分かった? 呪術が効いているまんまじゃ毒に負けるのよ。」 「……。」 寝息も立てずに白い寝具に包まれているイルカの唇が、青い。 「さて」と言った薬戸に、主導権はあった。 5. 「それじゃ、私のお願いを発表するわね。」 揚揚と声が弾む。 「まず、ここでイルカ先生と別れて。この場で。夜が明けるまでに、よ。私が見届けるの。」 薬戸は開いた手の平の指先同士を五点合わせ、花弁のような口元を綻ばせた。 「それから、後日お見合いを薦めてちょうだい、もちろん私との。アンタがイルカ先生を捨てる理由や、私のこと、私との今晩のこと、一切イルカ先生に言わないと誓って。」 さも悪気はないといった素振りである。 「俺じゃなくて、この人が狙いなんだな。」 「馬鹿じゃないの、そうに決まってるでしょ!」 「誰がアンタなんか」と苦虫を噛み潰したように顔を顰め、彼女が寝台を挟んでカカシに相対した。 「アンタ、居酒屋でイルカ先生に有り得ない仕打ちをしてたでしょ。」 「居酒屋……?」 「八年前の冬のことよ。忘れもしない。アンタ達、草色の隊服を着た団体で小上がりを占めて、えらく盛り上がって飲み会をやってた。私はね、同じ店のカウンターにいたの。その時からアンタのことは大ッ嫌いだった。イルカ先生の横にずっと居座って、何様よ。最初っからムカついてたの。」 「で?」 いかにも邪魔臭そうにカカシが言った。 「いい?」と彼女は息巻いた。 「アンタが現れてイルカ先生の周りをチョロチョロするようになった、それより前に、私のほうが先に、イルカ先生と出逢っていたの。」 「……。」 褪めた眼に、脂肪分の多いベラベラ喋る肉塊が映る。 「飲み会がお開きになって、帰り支度をしてアンタ達が席を立った時。アンタはね、お酒が入ってニコニコと上機嫌でいるイルカ先生の首にマフラーをグルグル巻き付けて、それを首輪見たいに、ギュッて引っ張ったのよ!」 「……アア。」 カカシには思い当たる日があった。 言われてみれば、もう五年以上前のことになるか。 酒が弱いくせに注がれるままに杯を進めたイルカが、「もう一杯頼もう」、「まだまだ飲むぞ」と見境を失くして、隣の酔漢と気安く肩を組合っていた。それで、他の奴とベタベタするなという悋気もさることながら、それよりも皆が引き揚げようとしている潮時を顧みずにいるから、強制退去の措置に踏み切った。 確かにマフラーの端を引っ張ると、酒で安定が悪くなった体は大袈裟に傾いたし、彼は例の如く「グハア」と鳴いた。そしてそれを目の当たりにしていた飲み会の参加者たちは、驚いたり焦ったりしてざわついていた。 さらには後日、狼藉を働く上忍という蜚語がヒラリ、ヒラリと気紛れな蝶みたいに、人から人へ移って回った。 中忍の側がいくら、仲が良いんです、だからじゃれ合いの範疇で、と弁解しても、上忍には分が悪い。それじゃいけないと分かっていてなおイルカは、恋人同士のじゃれ合いの一環です、とは言いかねて尻込みしていた。周囲から心配されたイルカはカカシ本人に、「カカシさんは、千鳥足の俺を家まで送ってくれたんですよ。あんなの、おどけてただけじゃないですか。俺のせいでカカシさんが誤解されてしまう」と参った顔で相談した。「それだけ名演技だったんでしょ」と、カカシは取り合わなかったことをよく覚えている。七十五日放っておけばいいと思っていた。 カカシとイルカにとって三文芝居であったことが、他人の認識と大幅にずれていたという訳である。 はたけカカシは人非人。どうやら彼女も、その顛末の肩棒を担ぐ一人であったらしい。 カカシはことさらに眉根を寄せた。 「だったら何。」 言葉にも表情にも嘘はない。不快感で胸が焼け、実際にうんざりしている。イルカに対して有り得ない仕打ちだなどと、死の手前に陥れた人間の口から非難されているのには、片腹痛くもあった。 「逃がしてあげなくちゃ、私が。」 「この人が俺の元を離れることと、この人がお前のものになることは、繋がってないぞ。」 「アンタにイルカ先生は釣り合わない。イルカ先生には、私が相応しい。」 「この人が欲しいのか。」 「そうね……、イルカ先生が欲しいというのは、曖昧かしら。イルカ先生と、契りたいの。」 カカシの眉山がピク、と攣った。 「イルカ先生と熱い一時を過ごしたい。きっと素敵よ。甘くて。とろけるような。優しくて。いいえ、案外激しいのかも。ふふ。だから、少なくともそれまでは殺さない。」 「精液を絞り取りたいだけか。」 「口を慎め! 本当にムカつく屑。」 目的を遂げる為に手段を選ばない。彼女は自分と類似の、人間に擬態している何かだということが判然とした。カカシは自己を碌でもない男だと評していた。翻って、我執の概念を持ち合わせていない相手の醜さに胃が縒れた。 彼と彼女との違いは、我執に自覚的であるかどうかであった。 彼女は、イルカを手に入れるという欲望の成就を優先順位の一番に設定している。無傷で、という常人の分別は通用しない。最悪イルカが死ぬという事態を仮定し得えているところを見ても常識の非共有ははっきりしていた。 万一イルカが亡骸となれば、願望は叶わない。「だから、死なせるような策は講じない。そもそも好きな人に危害を加えるなんて信じられない」。そう考えるのが普通の人である。彼女の考えでは、そうしたものは意気地なしのどっち付かずという中間層をなしており、その層に独立した地位はない。あるのは、「現実が私の望み通りになるか、ならないか」の二択である。成功か、失敗か。成功は努力で勝ち取るよりも、運任せの観が強い。とにかく無傷であれ、いささか傷んだ状態であれ、イルカが自分のものになればそれで成功なのである。 死んだら死んだで、彼女は欲しかった高級靴を泣く泣く諦めるのと大差ない落胆を味わうが、そのうち新たな執着物を見付けているに相違ない。 「さあ。さっさと、今、ここで、別れなさい。」 「ちょっと待ってくれ。いくらなんでも急すぎる。ハイそうですかって、手放せるわけないだろう。これでも俺なりに……。……俺の……世界を支えてる人なんだ。」 「あっそ。それが私になにか関係ある?」 「……考える時間がないと……。」 「駄目。今、この場で答えを出して。部屋の外には出させないし、私も出て行かない。下手な手回しはさせないわ。」 「手回しって……そんな余裕……。」 カカシは項垂れ頭を抱え込んだ。 「早くしなさい。じゃないと手遅れになる。何度も言う通り、殺す気はないのよ、私。まだ理解していないのかしら。イルカ先生がこんなことになってしまったのは、アンタのせいなのよ。」 じろっと男が上目を遣った。 「責任転嫁という言葉を知っているか。」 「平行線ね。」 薬戸はやれやれと首を振り、砂時計や記録簿を置いた台に凭れ掛かった。 6. 「私、これまでに何度もイルカ先生にお願いしていたのよ。」 「何……?」 「アンタが大陸を跨いでなんだかよく分からない戦争をしていたあいだも。聞いてない?」 「その様子じゃ、秘密にされてたのかしら」と妖艶に科を作って、薬戸は勝ち誇った。 「……。」 イルカがそんな話をしたことはなかった。 「でも、イルカ先生はいつまで経っても靡いてはくれなかった。義理立てしてたのよ。アンタなんかちっとも里にいないくせに。」 彼女の憧れは、カカシの知らないところで増幅していた。 「イルカ先生を家に招待したかったけれど、女の細腕一本じゃ運ぶのは難しいし……。それで、アンタがいなくなればいいと思い付いたの。だけど流石に車輪眼のカカシって名を轟かせる腕のいい忍、私には消せない。じゃあどうしようかしらと思っているうちに、やることが終わったんだかなんだか知らないけれど、アンタは還ってきた。還ってきたってだけでも憎々しいのに、ふてぶてしく火影になんか着任して。ますます近づきにくくなったわ。まあ、イルカ先生が私のものになるなら、アンタのことは別に、生きていようが死んでいようが構わない。それで、三人で落ち着いてお話できるようにね、色々と骨を折ったのよ。で、めでたく、こうしてアンタに別れ話を勧められる状況が整ったってわけ。」 「お前が優位な形で、な。」 「なに言ってるの、公平な話し合いの場を設けたまでよ。」 カカシと薬戸は敵意を剥き出しにし、真っ向から睨み合った。ずしりとした、総毛立つような二人分の鬼気が病室を満たす。それがおどろおどろしいうねりを生じさせるかのごとく蠢いていた。 「……。」 彼がおもむろに立ち上がった。イルカの脇から体温計を抜き取る。銀色の筋はかなり低い目盛に留まっていた。 「……。」 それを振って水銀を下げる薬戸の顔色は変わらなかった。 だんだんカカシは、上空の鳥にフンを引っ掛けられた気分になってきた。なにもこんな極小の一点に当たらなくたって、土地は地平線の彼方の、さらに地平線の彼方まで広がり続けているというのにという不愉快が込み上げてきたのである。当たらない確率のほうが圧倒的に高いものに的中される不運といえた。 「……目が覚めた時、この人に後遺症はないと断言できるんだろうな。」 「ないわ。大切な人だもの。」 なんだかんだとイルカへの恋慕を述べているが、良人を探しているのではなく、良い道具を品定めしている感覚でいることが彼にはよく理解できた。イルカと書いた木板を首にぶら提げた射精する人形を椅子に括り付けておけば、彼女の理想の家庭は円満なのである。 かといって、グズグズしてはいられない。一刻も早く蘇生させなければならない。 息を吸い、ゆっくりと吐いてから彼は決断を下した。 「いいだろう。別れよう。」 かなしい人の睫毛よ。 カカシは心に焼き付けた。 そして貴方を生かす。 かなしい人の鼻梁よ。 カカシは心に焼き付けた。 そして貴方を生かす。 かなしい人の唇よ。 カカシは心に焼き付けた。 イルカはまだ、生きている。 -続- |
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