単発text04_1
此処に眠る。

視点切替 係留

嫉妬と懺悔と執着を君に



1.-イルカ-

紅葉した葉の残りが一枚、また一枚と枝を離れて空に舞う。山深い郷の小径は落ち葉の絨毯に隠れた。秋も終わりに近い。踏みしめる足元が紅や黄で照る季節に、初めて彼の家へ行った。
整然と片付いているわけでも、統一感が演出されているわけでもなかったその人の私的な空間は、とても居心地が好かった。他人の生活場所とは思えない程に落ち着いた。だから俺は、一度は御暇した彼の家へと物の数十分で舞い戻った。

帰るつもりで身支度を済ませた時には、食料の調達に行くと言う家の主人の戸締りを待って二人で表へ出た。そして別れ道まで一緒に、という会話を交わしながら歩き始めた。
暫く直進すると、出掛けに話していた辻に差し掛かる。そこへきて、これ以上進みたくないという気分と俺の足が結託した。急激に重たくなり、ぱったり動かなくなる。帰路に就く気は失せてしまった。
自宅へ帰る気分でなくなった、目的地を持たない俺は我が儘を口にした。
「もう一晩、泊めて下さい。」
すると釣られて歩を止めたカカシさんは、さも意外そうな間を置いたものの俺を見ずに、
「だったら夕食はどうしようかねえ。」
と予定していた街並みの方向に首を回して、独り言とも相談事ともつかない答えをくれたのだった。


それからの俺は次の日がくる度に、
「あと一晩だけ、泊っていってもいいでしょうか」という御願いを繰り返していた。数日経っても依然として彼は迷惑そうな気色を見せない。毎日戻ってくる客に、
「今日の帰りは、こちらは何時頃になると思います」なんて、自分の帰宅時間を知らせてくれる。俺はその彼から、
「今日こそ駄目です」と断られる、きたるべき最終日に向けて心の準備を怠らずにいた。そうして日中は子どもらに理想や希望を抱かせる役目を果たし、夜になると自らはその日暮らしの要領で確保したねぐらに這入った。

そんな様に判断を相手に委ねてズルズルと連泊をしていたら、或る木枯らしの夕、追い出されるどころか一大事件が起こってしまった。とうとう合鍵を渡されたのだ。しかしこの時点では事の重大さに反した暢気さで、自分は何人目か、いや何番目だったりしてなどと思っていた。それで、返却は退去の際にすればいいのかと訊ねた。そしたら、貴方の為に新しく拵えたものだからその必要はないと言われた。これは由由しき事態だと主観的に捉え直した、思ったより悪い状況下で、俺は引き揚げる潮時を感じていた。
丁重に辞退して、鍵は受け取らないでおくがいい。今まで散々御厄介になったことには礼を述べ、それで彼の家からは撤収するべきだ。甘えが過ぎると抜け出せなくなる。これが歴代の恋人達も使ってきた鍵だったのなら何の躊躇もなく借り受けていただろう。だが、新調された銀色は、俺には余りに奇麗に光り過ぎる。
(断れ、断れ。)
彼の為にもそれがいい。
(特別扱いを承認すると深みに嵌って辛くなるぞ。)
「アー、」
お互いの為に、そうするのが一番いい。
(さあ、もたもたせずに返すんだ。)
心の必死の訴えに、
「じゃあ、」
聞こえない振りをした俺は、
「有難うございます。」
結局この掌に載せられた彼の想いの塊を、握ってしまった。



年が新しくなり、里では明日の忍を育成する機関であるアカデミーの冬休みが明けた。明けたといっても、生徒が休みの間も教師陣は当番を組んで誰かしらが教員室に詰めていたし、他の日は他の日で教育とは別種の任務をこなしていたから俺とて来る日も来る日も人様の御宅で終日を無為に過ごしていたのではない。とはいえ短い最終学期が始まると、教鞭を執る俺の日常は規則性を取り戻した。毎朝カカシさんの家からアカデミーへ向かい、定刻通りに講義を終え、「只今」という挨拶をして人の家に上がり込む。

そうしながらも、自分の家の家賃は納め続けていた。引き払う気は更更ない。彼の元に自分の荷物を運び込むという考えも起こらない。己の還る場所を唯一彼の元と定める勇気なんぞ恐ろしくって湧きやしない。それに、相手の立場からしても居候ならどんな時でも気楽に追い出せるだろう。彼の日常に、俺は根を下ろしてはいけない。
そうしていれば彼の人生は守られる。俺の心も守られる。いつでも、別れることが出来る。


明確な切欠は必要ない。
今日、俺は自分の帰り道に就いた。本来の帰り道だ。自分の家へ寄る理由は学年末にしか使わない冊子がどうしても入用の時期がきたからだが、それはまた彼の家へとは向かわない口実をも担う。
通用門を出て、沈む太陽の方角へ歩く。久しぶりの道だった。黒い山の端に強烈な赤が走り、金色と空色が虹色の上方で混ざっていた。その景色が無性に人に慈悲を欲させる。おまけに人肌が恋しくなる冷え込みだ。
「ハー。」
大きく口を開けて、長く息を吐く。白い煙はもくもくと後ろへ流れてゆく。俺は一人、冬であることを実感していた。
自宅に到着し、長年使ってきた鍵を取り出す。かじかんだ指で回していると、不意にカカシさんの冷たい手が思い出された。

一月ぶりの我が家は空気が淀んでいて心持ち埃っぽい。窓を開け放って換気した。
明かりは点けない。月もさやかだし、街の灯りのあるうちは闇に飲まれることもない。
ドサリと鞄を足下に落とした。丸めてあった毛布を引っ張り出して床に敷く。同じ場所に布団もあったがそれに触るのは大仰な気がした。横たわると、部屋からは物音が絶えた。
「…………。」
自分の家に一人で居るなら、余所で誰かと居た方が淋しくない。
(だけど。)
その相手としてあの人を選ぶのは、勿体無いのだ。俺が彼を一人占めしてしまうのは何かに悪いと思う。何に対してなのかを無理矢理に形容すれば、例えば天に悪いと思う。俺の分には不相応だ。
そのことを承知していながらいつまでも身を退けずにいる。別れの契機を遠ざけてしまう。彼の優しさに付け入ってしまう。

(俺は、もうあそこには立ち入らない方がいいんだ。)
それは、最初に泊まった夜からずっと分かっていた。一刻も早く撤収するべきなのは常に明白だった。
(元々自分が勝手に立ち寄り、上がり込んで帰らず迎えた、そんな朝が十重二十重と連なってあるだけで、あそこへ帰ると約束したことは一度だってない。)
一々こんな苦しい抜け道を探しては完全包囲網の完成に抗っている。だが、余すところなく崩落させられる日も近い。
躰を重ね、合鍵を受け取った。俺はじわりじわりと決壊に近付いている。
(でも、若しも今晩このまま、あそこへ帰らなかったら――。)

窓から入る北風に身体が凍える。寒い。
一人だ。

静かだ。
眠い。

寒い。
独りぼっちは、嫌だ。

俺は仰向けになって天井に、覚えたカカシさんの部屋を描く。
(どうしてあんなに居心地の好い場所が空いているんだろうな。)
彼の隣は、月日が幾ばく流れても素敵な恋人で埋まる兆しが一向に見られなかった。そのことが不思議でならない。
欠点が一つや二つでないにしろ、あんなに優れた人もいまい。惚れてしまえば痘痕も笑窪だろうに、あんなに魅力的な人が未だに誰にも独占されずにいるのが心底不思議だった。
「……。」
頭の中に完璧だと思う女を創る。男の方は上手く想像が働かなかった。兎に角俺は、その未来の誰かに用意されているあの場所を、譲れる余裕を残しておかなければならない。明け渡す決心を早急に付けるべきだ。
(俺じゃなくても……。)
彼は失恋したと思うだろうが、俺との傷はきっと年月が癒してくれる。次の恋人が癒してくれる。悪い物を食って当たったくらいに思える日が必ず訪れる筈だ。

眠い。
寒い。
静かで、一人だ。
色んな記憶の断片が、部屋のそこらじゅうを駆け回る。
だから一人は嫌なんだ。
時間軸なんか関係ない。散乱した走馬灯が一斉にぐるぐる回り、飛び跳ねた影絵は縦横無尽に暴れて、騒々しくて賑やかで、うるさくって止まりゃアしない。いつしか静かな現実空間からは閉め出されてしまう。その混沌に挟まる果敢無さのように、チラチラと映る。鮮やかで眩しい緑の中に佇む彼の髪が、肌が、伏せられた目が、頁を捲る指先の動きが、絶対的な雰囲気が、チラチラ映ると、俺は呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
だから自分の部屋は、嫌なんだ。


俺はあの人から、離れられる。
(離れたくない。)
いいや、彼の人生を台無しにはしたくない。離れられるさ、今なら間に合う。
ドン、ドン。

ドン、ドン、ドン、と、卒然玄関のドアが叩かれた。
俺には訪ねてくる人間など存在しないと言っていい。住処を他人に教えないからだ。何事かと訝しがりつつ開けると、カカシさんが立っていた。





2.-カカシ;前-

解錠の音がする。部屋を見上げても洩れる明かりはなかったから空振りに終わる呼び掛けだと思っていたのにドアが開いた。それが肩幅にも満たないので、俺は立っていた位置を横へずらした。
「寝てた?」
「い、いいえ。」
それにしては開かれた隙間から外へ伸びる光が、やはりない。彼の背後は真っ暗だった。
「どうやって此処を……、調べたんですか?」
「ええ。」
「……。」
後ろめたい人間がする表情をしている。事務方を丸め込んで住所を入手し、いきなり訪ねた俺がその表情を作るなら分かるが、ここで彼の方がそんな顔になる事由は何なのかと思ったが早いか悪い予測がひゅうと立った。
「誰か、来てるの?」
「え、いいえ。」
「そう。」
「……。」
疲れ切った顔のイルカ先生は額当ても外して、髪も下ろしていた。
「来ないの、今日は?」
「はは、此処には誰も来ませんよ。」
「俺の家に、貴方が来ないという話をしてるんだよ。」
疲れているというのなら俺だって待ち草臥れた挙句に空きっ腹を抱えている。彼と暮らしているうちに別個にあった空腹感と食欲は一本線で結びつき、それらは一体化の一途を辿っていた。

「あー……。」
言葉を濁すこの人は、自らの意思でやって来て家へ泊った晩からこっち何が気に入ったのか好きにさせておいたらずっと居て、今じゃ毎日を俺の周りで送っていた。そしてふらりと何処かへ行く予定が入ると、決まってその理由と日程を伝えてくれていた。俺がそうしろと指示したことは一度もない。それでも彼は、律儀な事前連絡を欠かさずに入れていた。
(そのことに慣れた矢先、普段通りに家を出たきり帰って来ない一匹について気を揉むことは過干渉か?)

「行こう、と、思ってた……ところで、ちょうど。」
嘘吐き。
「いいよ、別に。無理して、来なくても。」
俺自身も嘘吐きだ。
「家には、来たいなら来ればいい。」
「そう、ですか。じゃあ、今日は……行かない、です。」
この人は自由を求め続ける。きっと、束縛を感じると窒息してしまう生物なのだ。
「分かった。」
もう、これまでに何度もこうして彼を見送っている。俺は何度も引き下がってきた。彼のことはそうして徐徐に落としたのだし、聞分けのない奴に付き合うのは鬱陶しいという気持ちは自分にも解かる。こんな場面なら尚更御免だ。
「それじゃ。」
「はい。」
ドアが、閉まりだす。
「カカシさん、さようなら……。」
知っている。
その「さようなら」は、駄目だ!

俺は知っているのだ、その眼差しを。どこを見ているのかも知っている。長すぎる譜面の終止線にばかり魅入られていることなんてずっと昔から知っている、出逢う前から知っているのだ、俺は。なんて忌ま忌ましい弱さだろう!
足を挟んで、閉まりきるのを阻んだ。
ドアを開ける。驚いてこちらを見る彼を、力任せに捕まえる。今は絶対に放したくない。

俺が妄想するこの人の最期はいつだって、暈ける外側よりも対照的にぼかぼかと真っ黒な、穴だらけの体内だった。そして、そんな彼の骸が世界の何処かに残っている時には、自分が直接其処へ行って回収したいと至極まともな心で思っていた。けれど、縦令何処にも何にも残って無くったって俺は其処へ行く。必ず迎えに行く。俺はもはや行動範囲に制約のある餓鬼ではない。
そして、何度も捨てられるほど莫迦ではない。


「嘘吐き。」
薄々気付いていた。
「今日、家に来るつもりなんてなかった癖に。」
平生なら無罪の俺を寝起きの悪い目付きで睨んで近寄って来ない彼が、今朝に限ってこの身の外形を、触って、確かめていた。目線は心臓の辺りに定まっていた。指の腹で頬を触り、耳を包み、顎をなぞって肩先に触れ、腕をスルリと一撫でして、それから出て行った。あの時に彼の手がこの手まで下りてきていたら、俺は握り返していたと思う。
終始無言だったことにも、口数の少ない朝の姿には見慣れていたけど、気付いていた。
「嘘吐き。」
本当は、もっと前から予感していた。どうしたって俺のものにはならないから好きになったのだ。
(アンタが齎すこの矛盾と、俺は生涯遊んでいられるのに。)
「嘘吐き。嘘吐き。帰って来ない気だったんでしょう。もう、俺の処には……、」
「……。」
「帰って来ない気だったんでしょう。」
力一杯抱き締めた。それで彼が粉々になってしまってもいいかとさえ思えた。
「く、るし……、痛、い。」
「ふざけるな。」
「ゆる、めて。」
「却下。」
反射的にそう答えたものの一先ずの身柄確保には成功しているのだし、対話によってまずまずの平常心を取り戻せていた俺は腕の力を抜いてやった。引いていた顎を戻して、ふと顔を上げる。彼の肩越しに、無灯に等しい室内の様子が見通せた。

「引っ越しでも、する気?」
「……、…………上がってください。」
促されるままにサンダルを脱いだ。
何もない部屋だった。
それから、極度に寒い。彼の躰のとても冷たかったのは、真冬の日没の後に窓が開けられているせいだった。










-続-
3.〜4.>