単発text04_2
此処に眠る。

視点切替 係留

<1.〜2.
嫉妬と懺悔と執着を君に



3.-カカシ;中-

初めて踏み入った彼の家はめぼしい家財道具が全く足りていなかった。一間きりの間取りには、ベッドも本棚も収納家具も置かれていない。テレビを始めとする電化製品の系統も当たり前のように揃っていなかった。小さな冷蔵庫は一つあった。けれども庫内が冷却されているかどうかは怪しいところだ。そう思うくらいに生活感がない。ついでに人の生活している匂いもしない。
殺風景な部屋のうちで目立った物は三つ。先ず、床のあちこちに書籍や紙片類が山積みにされていた。幾つかは雪崩を起こして広がっている。それから、壁際に寄せられてある白い塊は蒲団だった。何故か敷布団しかなく、シーツの白色を夜目が捉えたのだ。後は窓に近い一角に、小さな駒付きの椅子を収めた木製の書斎机が置かれているのみだった。それにも資料や書類の束は並んでいるものの飾り気は一切ない。手元用の卓上照明が橙色に点っていたけれど、それでは当然、光は全体には行き届かない。天井を見上げたら、明かりの源は切れっ放しで放置されているどころか、取り付けられてすらいなかった。
何の洒落気もない一室の、クローゼットは開けたままあった。その中身さえもが乏しく、ハンガーに吊るされた数着の服と段ボールくらいしか目に付かない。
仮に引っ越し屋が直ちに突入して作業に着手しても、一時間と経たない内に全行程の完遂を報告されてしまえそうな雰囲気だった。

誰かの自宅というよりは、任務に必要な期間の仮住まいとして里が公金で借り上げた隠れ家みたいに殺伐としている。屑籠もない。口の開いた半透明の袋はあった。それにしても引っ越しの直前か直後でなければ、こんなに無味乾燥な巣の状態を維持した暮らしなんて信じられない。無駄の無さが徹底している。所謂彼らしさを表わす私物はどこにも見当たらない。不用意に転がる雑貨の一つも存在しなかった。俺が散らかす我が家とは真逆の雰囲気だ。
彼が人に与える印象からすればあと少しばかり温かみがあっても良さそうなものなのに、光の届かない水底を思わせる濃紺無地のカーテンが壁と床と天井の寒々しさをより一層強調していた。マスクを下ろすと口からは白い息が出た。
「窓、閉めていい?」
彼が頷く。
「暖房、付けていい?」
それに対しても無言で空調機の操作箇所を指差された。懐古趣味の喜びそうな旧式の調節摘まみが、年代を物語るアパートの外観と調和している。入居者が運び入れたのではなく設備として元から備え付けられていた物という判断が一目でついた。
「……。」
「……。」
音のしない時が流れる。送風口が、真っ先に耐え切れなくなったとばかりにゴオと勢い良く暖風を吐き出し始めた。その稼働に続くように彼は着座を短く勧めた。
「どうぞ。」
屈んでみると床の柔らかいのは只の毛布だった。
俺はというと、そこで挨拶し忘れていたことを思い出したのだった。
「今晩は。」

挨拶は好きだ。多様な話の中でも一番他人と通じ合えたと思えるからだ。「今日は」と言うと「今日は」と、ぴったり同じ内容が相手から返ってくる確率がかなり高い。それは、自身の率直な言葉が人と一致する数少ない機会だ。誰かに「今日は」と言われた際にも自然に、自分のどこも曲げずに同じ台詞を先手に返して、どちらも傷付かない。場は円満だ。滞りなく形式に沿って行われ、己を捻じ曲げる苦痛を伴わないうちに完結するから、俺は挨拶が好きなのだ。
差し向かいに腰を下ろそうとしていた動作が些か固まったものの、唇に妙な力を入れて曲げるあの彼独特な笑みを浮かべて、イルカ先生は胡坐を掻きながら応えてくれた。
「今晩は。うっかりしていました。会ってから、まだ交わしていませんでしたね。」
遅い瞬きをした弾みでこちらを見るかと思ったのに、視線は上がらない。
「……。」
「……。」
彼から何か喋り出すという期待は持たずにおいた方が良さそうだ。
「……、……飲み物、出しましょうか。」
「要らない。」
「アァ。有ったところで、水道水か粉珈琲です。」
前言は改めよう。どうでもいい話ならするらしい。
「ねえ。」
「……。」
「此処、引き払うの? それとも此処に、越して来たばっかりなの?」
「もう何年も、ずっと此処に住んでいるんですよ。これが、俺の部屋です。」
「こんな所で生活してたの?」
「ええ。まあ、最近はずっと、貴方の所にお邪魔していますから此処にはめっきり、帰らなくなりましたがね。」
「こんな……。」
「……。」
(こんな、いつ居なくなってもいいような場所――。)
生活の痕跡を小一時間できれいに消しおおせそうな。まるで、私有物の一切合財が始末される際にこの部屋の住人が立ち会えずとも構わないような。世界にちっとも根付いていない雰囲気の部屋で――。
「こんな所で、何してたの。」
「さっきから酷い言われようですね。ふ。これでも俺の城なのに。」
出会った頃は完全無欠を誇っていた彼の笑顔が、今はそこはかとなく脆い。

「人を招くのが好きではないので、この有り様をこうして御覧になるのは貴重な体験ですよ。」
「……。」
彼のお道化に今晩は付き合ってやれそうにない。
「ねえ、なんでこんなことになってるの。」
「そうですねえ。……無くても、生きていけるかと……思った、物を……、」
彼が口籠るせいで余計に言葉がこの身に刺さる。
(『無くても生きていける』、か。)
「捨てていくうちに。」
「……。」
「最近までは、ベッドが残っていたんですけどねえ。ある日……やたらと大きな気がして。」
「……。」
「処分しちまいました。」
「……物を大事にしない奴は、嫌いだ。」
「……、特に良い思い出も、滲み付いてなかったですから、ハハ……でも、今度からは大事にしねえと。貴方がそう言うのなら。」
挑発のすぐ後に従順さを添えるあざとさが如何にも彼らしくて、人からは表面的な変化がないと言われもするけど、この感情は容易くそれに刺激を受ける。
「今日は此処で寝る気なんですか。」
「さあ。どうでしょうね。」
ふらふらとした空気を纏って、どこかに行く当てでもあると言うのか。この男なら他にあってもおかしくない。どこまでもその身を一所で囲わせない、流浪の野良に首輪を付けるのは全く以て至難の業だ。
「俺を、怒らせたいのか?」
「…………。」
肯定の黙秘か、否定の放棄か。肝心なことは、俺に明かさない。


「……。」
「……。」
「……、……静かですね。」
確かに、気を散らせるもののないこのしじまが俺の神経をぐらぐらさせる。
「今、何時くらいなんでしょう、そう言えば。」
(そう言えば時計もないのか、この家には?)
膝立ちになった彼は、上体を捻って脇の机から手探りで何かを捜し当てると顔を近づける。銀の鎖の付いた懐中時計の文字盤を読んでいた。終わるとまた元の所へそれを置いて、こちらを向く。
「……暗いですね、この部屋。」
肩まである黒髪を困った手付きでバサバサと乱暴に掻き乱し、自分の家を見渡している。
「すみません。明かり……。」
「無いんでしょ。」
露わになっている頭上の差し込み口を指差した。目が合ったのは、束の間のことだった。
「無い物を探しても、見付からないよ。」
「……。」
「お気遣いなく。」
「…………。」
(おい。俺の声が、届いているか?)
腕を伸ばせば優に肩を掴んで揺すれる範囲でわざわざこんなことを思わなければならないことが、非常に面倒臭い。
いつだったかイルカ先生は、空腹だと短気になると言っていた。俺が苛々しているのはそれが原因であるのかもしれない。

また部屋がしんとする。
「……、……ラジオでも、掛けましょうか。ひょっとしたら、管弦楽団の演奏会を録音したものが、」
彼が前方へ、つまりこちらへ出る身の動きを見せた。先ほど目の端で捉えていた、空調機と白色の間に転がっていた何かはそれだったのだろう。位置は俺の背後になる。
「今週は確か――」
横を通ろうとしたその手を掴んで引き寄せ、その流れで押し倒して上に乗った。
解かっていない。彼は解かっていない。俺の執着心がどれだけ剥き出しになっているのか、彼はまるで解かっていない。解かっていたら俺の元から去ろうとする気配など見せない筈だ。せめて気取られない努力くらいしろと思う。
「アンタ、拾われたんだよ。」
教え込まなければならない。
「誰に拾われたのか、分かってる?」
しっかりと。





4.-カカシ;後-

「言って御覧。」
「……。」
彼に是非とも教え込んでおかなければならない。
「……。」
初めてイルカ先生を間近で見た数年前の夜が、俺の胸で、不死鳥のはためかせた両翼の如く翻る。
「……、」
その時の我が家も真っ暗だった。真夜中にこうして、この声に、俺の名をせがんだのだ。
あの時酔い痴れていた彼は緩み切った声で、初めて俺の名を呼んだ。
「……、」
今でも酔っているのだろう、差詰め、どぎつい度数の現世にでも。
「…………、……、…………カカシさん。」
「ウン。」
あの時も根負けした空気を見せつけ彼は下から、今みたいに俺をその眼に映していた。
(嗚呼、なんという巡り合わせか、俺達は、或いはあの夜から一齣の転換も果たせていなかったのか!)

彼が天井へと視線を外した。婉曲に俺を避けようとする。顎を掴んで焦点をこちらへ戻させた。
こいつはちょっと目を放した隙に居なくなるに違いない。だから言い聞かせておく。
「駄目でしょ、勝手に居なくなっちゃ。」
こちらの事情などお構いなしに、煙のように消え失せる。この空間に包まれているとそれが根拠に薄い当て推量でないことを肌で感じさせられる。
「居なく、なった訳じゃ……。ただ、荷物を……。」
「建前なんてどうだっていいよ! 戻って来る気があったのか? ないでしょ。なかったんでしょう。」
「……。」
「それで、理由も……特にないんでしょう。」
彼の空気がひゅっと揺れた。図星だ。分かっている。俺は全部、分かっているのだ。
「俺の事、好きでも何でも、ないんでしょう。」
だから離れないように、しっかり自覚させておく。
(お前は、誤魔化されてくれない人間に拾われてしまったんだ。)
「カカシさん……、好きですよ。」
「嘘吐き。」
「……。」
「嘘吐きだ。」
しっかとその眼に焼き付けておけ、それでも自分から別れを切り出すことをしない男の執心を。
身軽になろうとどんなに足掻いても捨て去れない葛藤は、代わりに引き受けてやれない。けれど重いままの、その体躯ごと引き摺って俺が進んでゆければ問題ない。誰かにやるには惜し過ぎる。
扱い難さに閉口したって灰汁の強さなら俺の方も大概だし、そこらの輩には勿体無い。


この人は強い。この人は強いという己の審美眼を、俺自身が信じている。
(そうだ、この人は居なくならない。これを連れ去ろうとするのは――。)
この人ならきっとおこがましい限界を設けずに、本分を全うできる。
(居なくならないという己の確信が裏切られることはない。俺の裏を掻きたがっているのは――。)
仮令蜷局に絞め付けられても力尽きて折れることはないだろう。
(その芯は崇高だ。俺を不安にさせるのは――。)
弱いのはこの人ではない。この人ではないのだ。俺の信頼を踏み躙る、そいつがこれを奪いたがる。
(それはアンタじゃない。アンタの美しさを、俺は見抜けてる。)
気の済むまで存分に格闘していなさい。
(弱いのは、そいつなんでしょう。)
そいつと決着が付かなくても負けはないと見込んでいる。
(ねえ、そうでしょう。)
端から見ているとそれどころか、なんだかんだ言って結局そいつとはむしろ仲が良いのでは、と勘繰りたくすらなってくる。そいつの正体は、いじけ虫だ。
この人は単に、いじけ虫と、仲が良いだけのことなのだ。
(反吐が出そうだ。)
そいつに俺は嫉妬する。最大にして生涯の天敵だ。
(人に何の断りもなく、これを良いように扱いやがって。)

他のどんな人物も、この虫に比べれば所詮は全員が競争し得る第三者だ。現在を生きる人間が相手なら、立ちはだかるのが誰であっても最終的に立っているのはこの俺だ。もういない人間を偲ぶ心に口を出すことは何人にも出来ない。少なくとも俺は遠慮する。それにひきかえ、この虫の巣くう先ときたらどうだ。最も己の力の及ばない領域に潜伏している。この虫こそが、俺には断然目障りな存在なのだ。
しかも、向こうは向こうで俺のことを毛嫌いしている。故に、御得意の忌ま忌ましい弱さをチラつかせて同情心を煽り、今度はこの人を操ろうと企んでいる。そうして俺から引き剥がす魂胆でいる、そんな奴に渡すわけにはいかない。
「……。」
「……。」
それに、イルカ先生の一人占めは、俺が、一番の適任者だ。

そうは想っても、偶には、俺だって自信を、失くしそうになる、時がある。
俺のものにはならなくても、これは、俺の傍にずっと、ずっと、居ればいい。










-続-
5.〜6.>