単発text06_1
此処に眠る。

視点K 雨;表

刹那の恋の雷鳴は胸に永劫轟き渡る



1.

あの人に、図鑑を借りに来た。中身には全く興味がない。入り用でもない。支障がないなら開かずにおきたい類のものだ。
けれども、興奮を分かち合いたいのに誰も借りてくれないと淋しそうな顔をされたら断れない。「興味がありますか」と聞かれた時に、俺は嘘を吐いていた。
正確を期すれば興味はあるのだ、図鑑にではなく、有り金をはたいてそんなものを衝動買いした、人物の方に。
お薦めの頁があるのだと熱弁を振るわれると、
「そうですか」と相槌を打つ体の、血の巡りはトットットッと景気付く。この心臓のために、俺は見たくもない本を借りに出向かなければならない。

自分と幾らも変わらぬ背格好の相手は快闊さが売りで、ひ弱さの欠片もなければ、しとやかさとも無縁の男だ。毎日アカデミーの教壇に立ち大声を上げている。歳はニ、三下だったか。健康的な黒髪を伸ばし、いつも後ろで高く束ねている。地肌も俺の方が白いくらいで、とにかく立派な一男児だ。しかしこうなりゃ、男だの女だのという線引きなんぞは説得力と厳粛さを欠き、霞んでしまう。
だってそうだろう。左様な論点よりも前に、昆虫の顔面を集めて収めたものに嬉々として飛び付き、手当たり次第に宣伝する人間なのだ。仮にこれが女だとしても、その要素が俺にとって有効に働くことはない。願い下げに決まっている。従って、その一本線だけをひたすら見詰めて立ち往生していたところで如何にもならないのだ。
俺の頭では分からない。ただ心臓が行け、行けと催促するので俺はこいつの望む通り、アカデミーの廊下を進む。

人気の散った放課後は、辺り一帯が静まり返っていた。身に染み付いた忍び足も相俟って、耳が拾うのは唯一、雨の音だ。十五時を回った頃にサアサアと降り始めた。何枚もつづく窓の一面には赤屋根が目立つ木ノ葉の里特有の風景も広がっておらず、濡れる硝子の先は薄鈍色だった。

教員室で聞いた部屋の名前を、頭上の学級札に見付ける。お時間のある時にいつでもどうぞと言うから暇潰しに、なんの疑いもなしに大人の居所を訪れてみたらこれだ。
(居ないんじゃないか。)
一本の事前連絡も入れないで来た自身のことは棚に上げて不平がっているうちに、子どもの場所としてしか思い出せない部屋の黒板側の戸口に差し掛かる。と、横手にあの人の姿を発見した。小さな背凭れを最大限に活用して、教卓と直列に付けた作業場の椅子に上手いこと収まり、楽な姿勢を器用に取って眠りこけている。
他には生徒机の最前列、先生の真正面に、少年が座っていた。こちらも散漫な目付きでいる。そして、頭ではなく心の赴くままといったふうに手首を回して筆を走らせていた。

やって来た存在を迅速に感知するや、ぱっと顔を上げる。
試しに口元に人差し指を立てて静かにしているよう指示を出してみると思いの外聡く、開こうとしていた両の唇をきゅっと結んだ。
それから教壇にちらりと目を遣り担任の状態を見定めると、鞄と紙片を一抱えにしてそっと席を立ち、彼は教室を出てきたのだった。
切れ目なく横一本に続く机と椅子は、床に作り付けられている。だからその様にして挙動に注意を払えば、物音は生まれない。雨の音はずっと聴こえている。そうして俺の前に立った生徒は、手にした藁半紙を見せてきた。口の動きだけで「出来た」と告げている。
廊下の奥を指して「帰っていい?」と尋ねられて、目を落とすと表の面に空欄はない。再度教室の内の様子を確認してから俺は、一存で頷いた。逃亡の隙を与えた方が悪い。


渡された提出物をひょいと裏返すと、恐竜が何体も落書きされていた。ひょっとしたら麒麟かもしれない。もしくは別の、あの少年の空想上でのみ飛翔する生き物だ。
「……。」
教室に這入り、最前まで彼が座っていた席に着く。そこからは自然、寝ている人が見えた。
室内は翳っている。俺は頬杖をついて、あいつが一人占めしていた景色を映す。雨は依然として止まない。

俺が来た時も筆を走らせている最中だった、落書きに掛かった時間を見積もる。細部の書き込みの段階に着手してあるそこから、表の課題は随分前に埋められていたことが推察された。
彼は何故、ノルマを達成した時点で「先生、出来た」と声を上げなかったのか。これだけを置いて、思い切って帰ってしまったっていい。校舎には降る雨の音ばかりが響く。ここに座り、一体どんな時間を彼は過ごしていたのか。余程帰ってもすることがない境遇なのか。そうであるかもしれない。或いは、そのようなことはないのかもしれない。
(何れにせよ。)

左目を封じてある俺の視界は、生来の右目に依存している為、意識しないでいると自ずから首が左に傾いていく。故に、左手で頬杖を付いてそれを支える。薄暗い天井。静かに刻まれる時。
監督する人数がたったの一名に激減した午後。そいつが大人しく机に向かっているなら、サアサアと降りしきる雨に眠気が誘発されても無理はない。うとうとするのが似合の状況だ。
最後まで声を発さずに「帰っていいか」と判断を仰いだ少年の、言動の端々を思い出す。
(彼は、滑らかに眠りの淵へ下降していった先生を起こせなかったのではなかろうか。)

そしてまた、放置して帰ることもできなかったのではないか。ちょうど今の自分のように。図らずも俺とあの少年は、目指した第一条件が重なったのだ。
とすれば彼の去り際の逡巡は、我が身の進退ではなく、この人を案じてのものに違いなかった。あれは、専断した忍――俺の権限と、己――あいつが去ったあとに起こり得る展開とを併せて、警戒の是非を決するのに置かれた一拍だった。
(あいつはきっと、とても大人だ。)
補習が聞いて呆れる。近い将来に任務先で会いそうだと思いながら氏名欄を見た。戦術に長けた忍への成長が見込まれたものの残念なことに、癖の強すぎる字は読み慣れた担任でないと判別不能な悪筆だった。





2.

黒い大きな長方形の上辺、中央を占める文字盤には秒針がない。この部屋で起こる変化は、分針が決まった出番のたびに右回りで一歩、無音の裡にその立ち位置をずらすくらいだ。サアサアと響き続ける雨の音。黒板の右端に今日の日付。窓寄りには伝達事項が小さく記されていた。あれがこの人の字かなと思う。
こうして座っていても、アカデミーについて懐かしいと思い出される記憶は特にない。膝を縦に収めるには机の下が少々狭いという現在があるだけだった。
上映するフィルムがない銀幕のように窮した目が、その場凌ぎにイルカ先生を映す。相変わらず寝ている。
そのうち眼前の教師に対して、のろのろと思い起こすことがあった。実は図鑑の話を持ち出された時もはじめ、この男は寝ていたのだ。


彼は、忍が任務を言い渡される階で、ガヤガヤした周囲から浮いていた。階段から広間へ向かうところに長い腰掛けが置かれている。そこで壁に背を付けて腕組をし、受付所の激しい混雑を物ともせずに首を垂れて静止していたのだ。こんな場所で休むなんてどんな神経の持ち主だと着目してみたら、周りに溶け込まないその一塊に見覚えがあって、貴方の班の三人を春まで担任していましたと最近挨拶してきたばかりの教師だった。
「おいイルカ、そろそろ起きとけ。」
交代だ、と通りがけの僚友らしき青年が声を掛けていた。その時に限らず初対面の時も、事務棟のこの場所で顔を合わせている。どうやら教育のみを生業にしている訳でもないらしい。
伸びをして立ち上がると俺を見付け、人懐こい笑顔になった。そして、今日は、と言って駆け寄ってきた彼に忙しない様子で間髪を容れずに叩き付けられた挑戦状の文言こそが、
「カカシ先生、昆虫の顔面に興味ありませんか?!」
だった。

全体俺は、唐突に何を切り出されたのか。相手も次の予定に追われている風だったので全速力で頭を回転させて理解に努めていると、見る見るうちにしょげ返っていった彼は頼りなげに言い足した。
「無いなら無いって、仰って下さいね。俺、断られ慣れてますから……。」
先方の反応を見越しつつも聞いて回ることを止めない、駄目元の心意気につまされた。果たして何人がこのアンケートに面食らい、その中から何人の豪傑が主題に辿り着いたろう。的中している内心を正直に告げてしまえば俺も数多の凡夫同様、この人のしょぼくれた背中を見送ることになるのは必定だった。
「やっぱり普通、気持ち悪い……ですよね。」
謝絶の憂き目に遭うことはおろか、手酷い拒絶さえ経験済みらしい。誰かに付けられた傷をあからさまに引き摺った面持ちで返答を待たれても困る。非常に困る。
(俺に、或いは、という公算でも見出したのか。)
それならばそれで、根拠を逆に問うてみたい。
「イルカー。」
離れた出入口の方で、彼を起こしたのと同一の声がした。ここで、俺の思考をぶった切って挙手したのが心臓だった。
「立候補したいのは山々だが手の生えていない自分に代わってお前がさっさとその手を挙げろ」と言わんばかりにドクン、ドクンと、要望に副う返事を俺に強請ってきたのだ。
ここ一番でけんもほろろな態度に出ては男が立たぬと扇動された、結果は、始めに述べた通りだ。くるりと反転して持ち場に向かったイルカ先生の足取りは弾んでいた。心臓は、ドキドキドキと小躍りしていた。俺だけが、厄介なことになったと複雑な心境になった。


窓の景色は雨に煙っている。どこまでも規則正しく、一定の間隔でしか動かない長針。無遠慮に目前の人を眺めながら、俺は今、何をしているのだろうかと思った。



暫くするとひとりでに彼が起きた。目頭を擦りながら顔を上げる。茫漠としていた半眼が正面に焦点を合わせるや否や、その体が椅子から転げ落ちそうに跳ねた。
「え!」
「どーも。」
「え、……え?」
「生徒をほったらかして寝てちゃ駄目でしょ。」
「お、おう、すまん。いや、お前、なんでカカシ上忍に変化してるんだ?」
「え。…………、アー……上手く、化けられてる?」
どうやら同じ席に座っていた俺を、居残りの生徒と取違えているらしい。どんな可能性があったら生徒がはたけカカシに変化するのだか、そこへ直らせて小一時間問い詰めてみたい。とはいえ、純粋に教師としてこの人が俺を生徒扱いするなんてことは今後有り得ない、稀有な機会だったからつい、その面白い勘違いに乗っかってしまった。
イルカ先生はそろりそろりと近付いてきて中腰になると、まじまじと俺を見る。
「ああ。」
顔を寄せるのにも躊躇がない。「上手い。」
彼の左右の瞳に、自分が一体ずつ収まっている。「上手いが、動機も選択理由もさっぱり分からん。」
そりゃそうだと腹の中で同感する、俺一人が弁えている厚顔無恥な台詞は喉で少しつっかえた。
「憧れ、てるんだよ。」
「へえ。そうだったのか。どうせなら先生に憧れろよ。」
「ふふ。」
堂々と眠りこけていた者の発言に堪え切れず、失笑した。

「先生には、今に追い付くからいいや。」
「こいつ、」
と、いきなり人差指が眉間めがけて突き出されたので、自動的にスイと後ろへ上体が引けた。躱されたイルカ先生は固まったまま、
「よ、く……言う」と全部を喋り切ってから、空振りした指を自身の米神に当てて小首を傾げた。只今の攻撃は、食らっていなければ不自然だったということだ。
本来この手の活動をそつ無くこなすのが、大の苦手だ。任務においても間諜役や、別人に成り済ます能力を求められる潜入といった諜報の系統は、依頼内容の難易度に関わらず受けたくない。そうした自らの傾向と一致しない現状に、俺は今、何をしているのだろうかという感想を強くした。
ところが、違和感をさして気に掛ける素振りもなく移った窓から雲行きを窺う男を振り向かせた、この口に上ったのは、正体の白状ではなかった。

「ねえ。先生は。」
「うん。」
「この忍のこと、どう思ってる。」
「カカシ上忍か。どうって、そりゃ……、」
「……。」
「その容姿で神妙に待たれると緊張するだろう」と困ったように笑ってから、彼は歯切れの悪い返事をした。
「すげえな、と、思ってるよ、うん。」
「好きか嫌いかで言ったら。」
イルカ先生が一瞬息を詰まらせた。
「好き?」
「……お前なあ。」
これは遊撃部隊が前線へ上がりすぎた。流石に不審感を抱いた彼が近寄る動作をみせる。撤退の潮時を見誤ると事後処理が色々面倒だ。演技は門外漢である上に、あの少年のことなど俺は何も知らないのだからこれ以上は、というよりそもそも、演じようがない。
「先生、俺、なんだか腹が痛い。暫時失敬。」
相手が一歩を踏み出すより前に、いち早く席を立ち廊下へ逃れた。その途端ハッとしてすぐさま教室に顔だけ突っ込み、回収した藁半紙を手に持つあの人に聞き直す。
「間違えました、やっぱりもう、帰っていいですか。」
「あ、ああ。気を付けてな。」
「さようなら。」
「おう、さようなら。」
それから無人の三階で一息つけて、窓硝子に当たった雨粒が光るのを楽しみ、数分後、俺は何食わぬ顔で一つ下の教室に戻っていった。

「今日は。」
「む。」
イルカ先生は、
「むう、うう」と唸りながら、近付く俺の覆面をまじまじと見極めた。
「……カカシ、先生。」
「はい。どーも。」
「本物?」
「そうですが、どういう意味でしょうか。」
「いえ、何、今し方生徒が、……あいつ、大丈夫かな。」
初登場の体で再登場した都合上、話に付いていくことは出来ないから極力そらっとぼけて頭を掻いていると、彼に、
「ああ、こちらの話です」と苦笑いされた。










-続-
3.〜4.>