単発text06_3
此処に眠る。

視点K 雨;表

<3.〜4.
刹那の恋の雷鳴は胸に永劫轟き渡る



5.

どこもかしこも寂寞としている校舎に、照らされた一角は全然なかった。
(帰ったのかな。)
教員室の可能性を捨て、二階へと上る。階段も廊下も仄暗い。

こんな天気では西日も差さない。心細い暗色を濃くした教室を覗いてみる。すると、あの人の姿が確認出来た。二列目の窓際で突っ伏している。俺はその場で脱力して、ほうと息を吐く。
「やれやれ。」
教壇から生徒の机へ、場所は移っていたけれど、彼はまたしても微睡んでいた。
(本当に、よく寝る。)
そこまで行き、自分は最前列に入った。階段教室の座席は、机も椅子も固定されている。縦の幅が調節出来ないその構造に多少の窮屈を感じつつ体の正面を窓側にとって斜め前の席に座り、通路に伸ばした足を組んだ。列ごとに付けられた段差は大したものではない。そこで、後列に休むイルカ先生の肘の先に、そっと左腕を載せた。折った腕が枕となる。
格好が安定して、やることもなくなって、自然と耳を澄ましていた。寝息は聞こえてこなかった。寝顔も殆どの部分が彼自身の腕の囲いに沈んでいる。うつらうつらするだけでぐっすりとは眠れない俺に半分、その睡眠を分けて欲しい。

ぼちぼち日沈の刻限だ。午後の陽気は雨に奪われ、肌寒い。辺りを、静寂が支配していた。諸々の陰気で構成された一時を、飽和した静穏と捉えるので俺の意気地はいとも容易く萎んでしまう。
教室は暗いままで置いた。そうして現状を維持し、あわよくば静閑の立込めるこの刹那を引き延ばそうと考えるものだから、傍の人を揺すって目覚めさせる気にもならない。

街の灯がちらほらと窓の硝子に暈けて光る。とても美しい。腕の隙間から辛うじて見える、イルカ先生の眉目。余計なお節介とは百も承知で、その頬の血色が良いことを思った。明日は青空が広がるのだろうか。朝の葉桜に、濡つる情緒が宿っているなら言うことはない。この世のえぐ味は、もう沢山だ。





ふと目を開けると、イルカ先生とまともに視線がかち合った。知らぬ間に体勢を起こしていた彼が相当な至近距離にいる。ということは、俺も眠りに落ちていたのだ、それも完全に意識を飛ばして。
(嘘……だろ。)
深い睡眠を取ったことは感覚で分かった。滅多に味わうことのない澄んだ心持ちと、冴え切った頭があるからだ。それが俄かには信じられなかった。おまけに二分ほどかと高を括っていたら俺は結局、二十分もどっぷり寝ていた。
「起きましたね。」
とっぷりと暮れた世界で、イルカ先生は微笑した。雨が、止んでいた。驚愕のあまり俺は返事をし忘れていた。

「カカシ先生の髪って、ザラザラしてるんですね。」
目をきょろつかせて、あ、そうだそうだと見付けたように彼はその一言を持ち出してきた。
「……………………、…………は?」
「や、あの、済みません。悪口のつもりはなくて。」
傷み切った俺の髪は、指摘通りの手触りだ。しかし、その符合は取りも直さず一つの事実を意味することになる。
「触っ、たんですか。」
「え、ええ、……はい。」
「俺に、触れた、って、言うんですか。」
「ご、御免なさい。」
「謝る、必要はないんですよ。その、参考になる事例がなくて。」
まだ直前の事態もよく飲み込めていなかった俺は、降って湧いた新情報に当惑しきりだった。他人の手の届く範囲内で完全に意識を飛ばしていたこと自体が信じ難いというのに、実際に触れられても反応しなかったなど、咄嗟には認められない出来事だ。何しろそれは、次の事柄を導き出す。
「貴方、俺を殺せますね。」
「ふ、憤死ですか?!」
起きましたねと声を掛けてくれた、あのトーンが惜しまれた。さては制限時間でもあって長続きしないのかと疑いたくなってくる。
「謝ります。御免なさい。カカシ先生にはもう絶対に触らない。約束します。」
心臓が物言いたそうにキュウと身を捩る。
(痛いから、やめろ。)
「無断で触って、御免なさい。」
「怒ってなーいよ。」
俺の加えた補足に、イルカ先生は安堵の表情を浮かべた。





6.

一安心して、それから、彼は後ろの列に右肩を付けて凭れ掛かり、体から力を抜いた。俺に正面を合わせて、つまりは横向きに座り、列の中側へ足を伸ばしている。
「……。」
「……。」
「戻って来ちまったんですね。」
ぽつりと彼が呟いた。
活動が盛んでないときのこの人の雰囲気に浸かると、不思議と心が凪ぐ。心臓がこうして大人しいと俺の疲弊も軽減されるというのに。
「俺も、ほとほと弱ってるんです。気紛れで立ち寄ったり、後先なしに飛び出してしまったり、そうかと思ったら、ほら。また、戻って来てしまって。疲れました。」
校庭の彼岸で灯る宵の町並みが奇麗だった。

「ねえ。」
「はい。」
「俺の中には、やっぱり何もなかったよ。」
案の定待った甲斐のない俺からの回答が気の毒で、
「ああ」とあっさり合点した彼の顔は見られなかった。
「探して下さったんですね。」
「うん。何も、残ってはなかったんだ。」
「そうですか。」
一旦そこで区切った後に彼は礼を口にした。「我が儘を聞いて下さって、有難うございました。」
その了承がさっぱりしていればいるほど手ぶらで帰すのは気が引けて、俺は自分なりの持てる所感をせめて隠さずに述べた。
「同時に出てたんです。」
「……。」
俺が遁走した理由は、そのことを暴かれるのが怖かったからかもしれない。
「音に乗せて、外に出ていたよ。」
もう一度、有りのまま音にしようか。
「イルカ先生。」
俺の声は、どんなふうに響いたのだろうか。


「気になるからって、何にでも首を突っ込んで答えを欲しがっていたらきりがないですよ。」
「……そうですね。」
きつい物言いをしたつもりなんてなかった。むしろ親切な助言のつもりでいたのに、席から立ち上がった彼は辛そうに歪めた顔を見咎められないように俯けていた。
「あの」と試みた弁解も、イルカ先生によって遮られてしまう。
「そろそろ、門も施錠しないと。もう俺が最後なんです。」
「あ、済みません、そうだったの。俺が、来たから。」
「いいえ、カカシ先生が二度目に来て下さるより前からですよ。」
何時の間にか開いていた窓に手を掛け、彼が星のない空を仰いだ。
「雨上がりの空気は清澄ですねえ。」
伸びる首筋。吐息混じりの、張らない声が心地良い。雨も上がり、世界はいよいよしんとしている。スウとたっぷり息を吸い込み、ふうと吐く、相手の呼吸が、強調された音量で伝わってくる。景色は夜になっていた。教室も闇に染まっている。
マスクを下ろして、窓枠に手を掛け、割り込むようにして自分も外の空気を肺に入れた。鼻腔にデカダンの香りが満ちる。場所を取られる形で半歩退いたイルカ先生の深遠な両眼は、初めて触れた俺の素顔に釘付けになっていた。

見詰め返してやったら慌てて逸らすという読みは外れて、肉感的な唇が半開きのまま彼は、悪戯半分で実行に移した俺から目を離さない。
何となく負けた気がするから自分が折れるのは嫌で、逸らせ、逸らせと念じながら揺るぎない漆黒の双眸に視点を定めてみても全く効かない。気まずくないのかなと思う。イルカ先生の考えは、常人には推し量れない。

世間離れしているこの人に戸惑う度に、心臓が、何かを急かす。強いて選ぶならそうした一面が抑制されている時の、例えば一介の上忍のことなど眼中にない風な、独り言のように話す静的な彼の方が俺は好感が持てると言うのに、こいつはまるで聞き分けない。叶うことなら蠕動でもして彼の元へ行き着きたいと叫ぶみたいに俺の体内でキュウキュウとのた打ち回る。そんな様に暴れられても最早彼とは詰める歩幅のない距離だ。
それでも心臓はドクドク騒ぎ立てて、俺に何かをさせようと躍起になる。始末に負えず、間近になったイルカ先生に口付けた。
軽く付けた唇を離すと、先生は漸く喋った。
「不躾な質問を、してもいいですか。」
その対応ぶりが至極冷静だったので、俺もなんだか間の抜けた応答になった。
「なあに。」

「カカシ先生は、俺のことが、好きなんですか。」
固唾を呑んでなりゆきを見守ろうとする心臓の煽りを食らい、俺の呼吸は浅くなる。
「いいえ。」
「……。」
沈黙を挟んだ躊躇の末、途方に暮れた顔で彼は眉間に皺を寄せた。
「じゃあ、今のは、どう処理するのが、最良でしょうか。」
「俺は別に、好きでも何でもありませんよ。」
「……。」
「ただ、心臓が五月蠅いんです。」
その五月蠅い心臓に、俺は振り回されている。

「……それは、貴方では?」
「俺の意志とは関係なく、動くでしょう、心臓って。つまり、好きとか、どうとか関係……、……あるんですか。」
実に不可解だ。
「……。ちょっと、猶予を頂いてもいいですか。参ったな。……、ああ、俺も頭がこんがらかってきました。」
「ええ、大変難しい問題です。」
本人でさえ自力では解決の糸口も見付けられず、どうにもこうにも目処が立たないという深刻さだ、聞き齧ったに過ぎないイルカ先生の理路が混乱に陥るのは尤もなことだった。
「心底扱いあぐねているのです。」
「……一緒に、考えましょうか?」
遠慮勝ちに力添えを買って出てくれた、その人をつくづく情け深い男に思う。
「それは心強い。是非ご助成願います。」
「尽力します。」
彼はしっかりと頷いて請け負ってくれた。俺は、その親切を喜んだ。





7.

それからというもの俺とイルカ先生は、二人で様々な検討と実地に臨み、互いの余暇を費やして数々の議論と試行を重ね、半年後に共同で一つの結論に至った。
「これ、多分、付き合ってますね、俺達。」
昼日中の河原で、針金の輪を丁寧に泳がせる手付きをすると透明の膜が離れて球になり、晴れ渡る秋空にフワフワと上がる。彼が今朝思い付いたと言うシャボン玉祭りに誘われ家を出たのだったが、祭りといっても参加者は他にいない。
「ええ、これは俗に言う恋人同士でしょう。」
発起人のイルカ先生はフーと息を思いきり吹き付け、銜えたストローの先から小さな玉を放射している。
この人は、何をするにもその語の尻に安直に祭りと付けたがる。否、実現すれば共に楽しめる筈だと彼の主観が働いた発想に対して、よく使っている。先週はたこ焼き祭りが我が家で開催されていた。

彼とも知り合いの、友人であるアスマに、
「最近イルカとつるんでるらしいが、お前らの一体どういう点で馬が合うってんだ」と疑問を投げ掛けられて、
「心臓が変になるのを相談している」と答えた俺は、イルカ先生のそうした親身な協力に見合う何かを返したいという考えから、自分のやる気とは無関係に、大抵の催し参加を渋らないよう心掛けている。それに俺が拒んでも、素直に引き下がった後から彼は一人ででもその企画を決行しようという行動力を見せる。それを許すのは、酷だ。
ところが、目を輝かせて語られた希望であったり、興奮を抑えながら控え目に薦められたものであったりを、首を横に振るのを淋しげな顔で了解させるのじゃ男が立たぬとばかりに受け入れていると、時折、透明化処理を施した骨格標本の写真を鳥類、爬虫類と見せられながら「なかんずく魚類が最高じゃないですか」と力説されるような羽目になる。それでも、そうして紹介されたものがまた驚嘆に値する崇高な煌めきを有していたりもするのだ。
現に、柔らかく揺れるシャボン玉の虹色にもうっとりしている俺がいる。

彼の意識はストローの先に集中しているようで、慎重に息を吹き入れ大きめのシャボン玉を見事に作り、空に送り出すことにも成功していた。
「失念していましたが、貴方、大丈夫なんですか。その、他に好きな人がいたりだとか……、もう半年も経っているけれど。」
「今頃気付いたんですか。」
さも意外そうに目をぱちくりさせた彼の声には聞き慣れない冷たさがあった。
「しかし、そんなことを聞いたところでどうするんです、それで、貴方は。」
「どう……。」
「俺が、それでは本命の元へ戻ります、と言い出したら?」
「……、……そう、……と、言います。」
「それで?」
怒っているのだろうか。にこりともしない彼が、突き放すような口振りで語尾を上げた。
「…………それが貴方の出した答えなら、俺はそれを支持します。」
自分のその答えを否応なしに自分でも聞かなければならなかった俺は勝手に意気消沈した。


「飽きた。」
「え。」
「もうシャボン玉は飽きました。ついでにご心配には及びません、俺は最初からカカシ先生のことが好きなんですよ。それより水切り対決しませんか。俺、すげえ飛ばせるんですよね。」
最終結論に至ったからどうだというのだという態度で俺の本題は横へ置かれた。再び同じ位置へ戻されることは、こうなると十中八九ない。イルカ先生は怒ってはいない様子で、それはそれで何よりなのだけれど、聞き違いでなければさらっと重大な告白をした。
「貴方、今、なんて。」
「俺に惚れると火傷するぜ、フ。」
彼は腕を水平に振って石を投げる真似を二、三回して見せた。
「そんなことはどうでもいいから、言われた通りに己の発言内容をそのまま復唱しなさいよ。」
「俺を本気にさせたこと、後悔させてやる。目に物見せてやりますよ。」
「…………。」
体が火照る。気張ってバクバクと動く心臓の所為だ。

俺に限った話をすれば、相変わらずこうして、不本意な場面で動悸が激しくなる。周りはこぞって恋だ、恋だと囃し立てた。しかし、そんな時にイルカ先生のことが好きだという実感は、泣きたくなるほど微塵も伴わない。それは、外傷を負った時の痛みと似ている。内の患部からくる苦痛であればラグも生じず、感覚と一致しやすいというのに。心の話であるなら、どちらかといえばこちらに属していそうなものなのに。個人的には、深手であってもどこか切り離された激痛になってしまう外傷のようなのだ。
俺だって、鼓動と連動して情愛を自覚出来るようになるという努力の仕方が存在するなら寝る間を惜しんでとっくにしている。けれど、俺はきっと己の心臓が不如意に悶えるきっかけも、理由も判然しないうちに人生を閉じるのだろう。
「それは無責任に聞こえるぞ」と相手の心情の方を念頭に置いた忠告をくれたのは、俺より数段慈悲深いもう一人の友人のガイだった。

最後に、何かの折にイルカ先生は、貴方の心臓とも上手く付き合っていけそうだと自信していたから、俺は一任しておけばそれでいいかと思う。聊か卑怯な手法ではあっても、大地は愛という名の下において無法地帯らしい。それを防ぐ手立てについては、ここで述懐しても無益なのでもう黙る。










終.
(2013.03)