単発text07_1
此処に眠る。

視点I 雨;裏

貴方の愛に打たれて泣きたい。



1.

十五の春に男を好きになった。
その瞬間に、これまでの世界は瓦解したか。
答えは否。俺の場合は世界の根幹的な部分が僅かに、だが決定的にひずんだと感じた程度だった。それからずっと一人に片想いをしている。
時を経るにつれ名前や同年代であること、噂の餌食になり易い人ということが知れた。ごく最近になって互いの接点がひょっと出来たのだが、それ以前には町角であれ忍の施設であれ偶発的に彼の姿を見掛けるということは滅多になかった。だからこそ続いていた気持ちなのかもしれない。深奥に断裂を内包したまま世界は、その状態で成立していたのだった。俺は、絶望の遥か手前で自己を保てていた。

そうして兎も角も第二次性徴期に人知れず踏み外して付いた、錯誤の傷をひた隠しにしながら表面上は至って平凡な階段を上り俺は大人へと成長した。一方的な思慕を傷と表現するのは少々言い掛かりめいていて気が引けないでもない。しかし、石ころ一つない真っ平らな道で、自分一人の不注意で転び膝を擦りむいたって付くのは傷だ。同様に、この恋心は俺の人生にとって、紛う方なきそれだった。無論、落ちた先が不可侵領域であることは分かりきっていた。
傷口を弄り回すと化膿する。掠り傷みたいな目立たない恋心も、下手に扱えばえげつない欲に侵され悪化する。それを防ぐには、触らないでおくのが最善だ。
この身とその人との間には、そっとしておくのにあつらえ向きの隔たりが何年もあった。俺の想いの、あってもなくても違わないような幽かさを守ってきたのがその実際的な距離だったと言える。あちらの稼業も忍ということは確かでも、こちらの所属先とは部署同士に関連性がないものだから、私語を交わすどころか公的な遣り取りさえ彼とは経験したことがなかった。

放っておいたところで、どこにも悪影響を及ぼさない恋だ。無理に捨てようと意識を向けるでもなく、遂げられない想いの深みに敢えて飛び込み藻掻き苦しむこともせず、唯、顧みるたび胸の奥に「在るな」と認めて十年が経った。
心の模様が絶えず変化する中それだけは不変に残り続けていて、いつまでも消失しない。その間に、下忍だった俺はアカデミーで教鞭を執るかたわら任務受付所にも座るようになっていた。
十六でやっと中忍になった俺とは違う、相手はとても優秀で、疾うから上忍だったその人は現在、アカデミーを卒業したての下忍を現場で指導する上忍師という役を兼任していた。


「おいイルカ、そろそろ起きとけ。交代だ。」
寝ている時以外は常に眠い。周りにはそう説明して一笑を買っている。
暗い寝室に単独で横になるのが苦手だ。しんとした夜には目が冴えてなかなか寝付けない。人の気配の感じられる場所ならば、あるいは自宅でなければ、布団が敷かれていなくても、明るくたって構わない。隙を見付けては小刻みな睡眠をとって不足分を補い補い生活している。十三であっという間に庇護の手を失い独り身になってしまった夜からそうだ。事実はかくも発展性に乏しく、面白味に欠けるものでしかない。
入れ替わりの時刻まで未だあるからと任務受付所の廊下でうつらうつらしていたところを、同じ時間帯の窓口を共に受け持つ同僚に声を掛けられ、伸びをしながら立ち上がった。
首をほぐしている最中に階段近くが視界に入ると、そこには偶然にもカカシ先生がいた。目の合ったことが嬉しくて自然と笑みが洩れる。彼が、俺の好きな人だった。

つい先日のことになる。久しぶりに顔を見た上忍師のアスマ先生と立ち話をしていたら、ひょっこり現れた、カカシ先生もまたアスマ先生とは旧知の仲なのだそうで彼等が挨拶をした、その流れで俺とカカシ先生は初めてまともな会話を何往復か持った。それもこの場所、任務受付所でのことだった。
強すぎる憧憬だと申告しても罷り通りそうな自分の想いの青さに十分満足していた俺は、今後起こり得ることを何も望まないでいた。ましてその想いが真っ赤に染め上げられてしまうなど夢にも思わない。

「今日は。」
「や、イルカ先生、今日は。」
一も二もなく話し掛けたはいいとして、話題を吟味しているうちに制限時間を迎えてしまう。
「カカシ先生、昆虫の顔面に興味ありませんか?!」
「え。」
「実は先日、昆虫の顔面接写を集めた……写真集というか、図鑑を衝動買いしたんですがね、これが非常に素晴らしいもので。特に俺は、蚕の顔面をお薦めしたいんです。それで、この興奮を誰かと分かち合いたいのに、誰も借りてくれなくって。」
「そうですか。昆虫の。」
どう頑張ったって報われる見込みがないと解っている。だから、彼を前にしても気張って虚栄を張るということをしない。取り繕っても意味がないので、俺は有りのままの己を見せる。
「無いなら無いって、仰って下さいね。俺、断られ慣れてますから。」
蟲使いの生徒が在籍していた頃は、休み時間の昆虫話に花が咲いたものだった。そいつなら入手した代物を喜んでじっくり閲覧してくれるだろうが卒業した今となっては新たな社会勉強で毎日が忙しく、母校の教師に構っている暇などないようなのだ。
「やっぱり普通、気持ち悪い……ですよね。」
断られる度に吐かれる一言を、その通りに口にした。自分の敬愛するものを貶めて形容しなければ世間との対話が成立しないのが慣れたこととはいえ薄ら寂しい。
「イルカー。」
いよいよ交代の間際になった。同僚が戸口で呼んでいる。
「あ、では。不躾に、変なことを聞いてしまって済みませんでした。」
「ああ、イルカ先生。あの、興味ならありますよ、俺は。貴方が絶賛する、それ。」
本当ですかと聞き返したら、苦笑された。話を合わせてくれているのだ。社交辞令に過ぎない返事とは重々承知で、
「俺は、大抵の日はアカデミーにおりますから、いつでもお越しください。」
と一応伝えて辞した。彼が微かに気を緩めたのを間近で感じた時、嗚呼、やっぱり自分はこの人が好きなんだなと思った。それでも、普通の範囲内で親交を結び、一生その体裁を貫ける自信があった。





2.

カカシ先生に図鑑を薦めてから四日後、講義を終えた俺は放課後の学級に留まり小試験の追試を行っていた。試験を受けさせた生徒は一名のみだった。学力面での躓きはない。実技演習然り、授業態度にもほぼ問題はない。只この生徒は、予め告げてあった試験の日に限って欠席することが多い。それで本日またもや追試という次第だ。
この男子は大人の気を引きたがるというか、誰かの時間を己の為に割かせたがる。詰まるところ、何らかの方便を使ってでも人の傍に居たいのだ。しっかり監督していなくても、この生徒は大丈夫。俺を対象と定めたのも正しい。なぜなら、俺も似たような者だからだ。こういう一時を設けては睡眠を取っている。持ちつ持たれつ、こんな時には大人も子供も関係ない、生徒も教師も関係ない、人間同士の時間を共有しよう。

朝から雲行きの怪しかった空は、試験を始めた頃にとうとう降り出した。
カッカッと強い筆圧で文字を書く音がする。本格的な指導を考慮するほど目に余る状態でもないし、俺も使える時間しか充てないから、こうしてしばしば放課後の短い間を一緒に過ごす。忍を目指す子が入学してくるアカデミーには家系や生い立ちなど特殊な背景を背負った事例が珍しくない。だから、彼が特別手の掛かる生徒ということでもないのだ。
昼間は埃が舞う騒ぎの教室も、今は静かに落ち着いている。雨の音は、サアサアと耳の奥に残って響く。何時の間にか、俺は居眠りをしてしまっていた。


ふと目を覚ますと、黙々と鉛筆を走らせていた居残りの生徒はなんの前触れもなく、何故だか俺の好きな人に変身してそこにいた。
「え!」
「どーも。」
えも言われぬその余裕ある雰囲気が到底真似とは思われない完璧さを有している。
「え、……え?」
全く状況が見えなかった。
「生徒をほったらかして寝てちゃ駄目でしょ。」
「お、おう、すまん。」
まださほど親しく話したことがなくていかにもカカシ先生の口調だという側面からの判断はつかなかったものの、男子生徒を知る側から言えばそれは、そいつの台詞回しではあった。「いや、お前、なんでカカシ上忍に変化してるんだ?」
「え。…………、アー……上手く、化けられてる?」
「ああ。上手い。」
近付いて目を凝らしても細部までよく再現されていて、さして知らないくせにと突っ込まれれば返す言葉もないがそっくりというか、怪しい箇所が一点も見当たらない。本人と並んでも遜色ないと思われる。有無を言わせずいきなりその姿と引き合わされた俺は、覚めたばかりの丸裸な内心で大いに焦った。

  お前が誰を好きなのか、私は知っているぞ。

まるで何か超越的な存在からその秘密を突き付けられているみたいに錯覚した。

何故だ。悪戯で化けるにしたって、何故この人を選んだのだ。裏では肝を冷やしつつも平静を装い、急いで教師の仮面を付ける。
「上手いが、動機も選択理由もさっぱり分からん。」
「憧れ、てるんだよ。」
「へえ。そうだったのか。」
口ごもる小声から得た理由に異議を唱える者は、里の中にはいないだろう。俺は胸を撫で下ろして納得し掛けていた。「どうせなら先生に憧れろよ。」
「ふふ。先生には、今に追い付くからいいや。」
「こいつ、よ、く……言う。」
珍しく生意気を言ったので額を小突いてやろうとしたら、ちょっと子供の業とは思えない身のこなしですっとかわされた。これは、おかしい。
ほっとしたのも束の間、背を向けた俺は変わる顔色を気取られないよう窓際へと移った。

「ねえ。先生は。」
「うん。」
相槌を打ちながら、この人物は一体誰だと思う。いや、一つの妥当な可能性にはもう突き当っている。
「この忍のこと、どう思ってる。」
どうしてそんなことを聞くのだ。正体が何者だろうと質問の意図が今一汲み取れない。
「カカシ上忍か。」
可能性を口にした、この声は上擦ってはいなかったろうか。心臓がどきどきする。
「どうって、」
あんまり俺を焚き付けないでくれ。
「そりゃ……、」
ずっと好きだ。でも、それは決して他言しない。墓場まで持って行く一言の他に、生徒に教えられる模範解答を拵えなければ不味い――もし仮に、背後の人物を生徒とした場合。
振り返ると、やっぱり俺にはカカシ先生本人としか思えなかった。
「その容姿で神妙に待たれると緊張するだろう。」
生徒の場合に限らない。いずれにしろ俺の告白は、他人の耳に入れられるものではないではないか。

それにしても、何故、貴方ほどの忍が自己の評価など気にするのです。それも冴えない男教師なんかの評語が欲しいだなんて、なんだか可笑しい。どんなに名うての強者でも、誰かに誉められたり認められたりしたい欲求は平凡に持ち合わせているということなのかな――これを一番真っ当な解釈とした。
「すげえな、と、思ってるよ、うん。」
「好きか嫌いかで言ったら。」
それはつまり、人としてという次元で問答がしたいということか。折角素早く揉み消した思い上がりを、助長させる聞き方は性質が悪い。これ以上俺を追い詰めて何になる。
「好き?」
それが求められている答えのような気を、起してしまうでしょう。
投げられた直球の勢いに飲まれて、危うく安直に肯定してしまいそうだった。
「……お前なあ。」
ここにいるのは生徒ではなくカカシ先生だと九割のところまで思っていた。ところが、残りの一割はモヤモヤと不確実だった。どうしても俺を欺く理屈が分からないのだ。存外悪戯好きなのか。こちらの分が悪くなるより前に真面目に確認してみようかとした、まさにその時だった。
「先生、俺、なんだか腹が痛い。暫時失敬。」
そう訴えた彼が瞬く間に教室から退散し、俺は確信を十割十分に変えたのだった。
そんな小難しい挨拶をして下校する子供なんていない。少なくともこの男子は使わない。そもそも一人称が違う。あいつは自分のことを名前で呼ぶのだ。それで「女みたいな奴」と嫌って弾く同級の男子達とよく諍いが起こっている。

机上に残された藁半紙を手に取ると、解答欄は全て生徒の自筆で埋められていた。俺の教え子はどこへ行ったのかと思ったが鞄も筆記用具も、忘れ物を何もしていないところを見ると心配には及ばないだろう。差し詰め舟を漕いでいる内に飽きられてしまったのだ。そこへ、最前の落ち度に気付いたらしくカカシ先生が慌てて一旦引き返して来た。
「間違えました、やっぱりもう、帰っていいですか。」
「あ、ああ。気を付けてな。」
「さようなら。」
そうご丁寧に言い直してから、今度はばっちりと退場を成し遂げたのだった。
「おう、さようなら。」
生徒に対する口調での返事は聊か緊張した。
相手の思惑が掴めず戸惑いはしたが、俺はカカシ先生と話が出来て楽しかった。

雨は暫く止みそうにない。





3.

それなりに好きになった人はいた。けれども、どうしたってそれなりにしか好きにはなれなかった。
「私のこと、本当は好きじゃないんでしょう。」
「俺は本命じゃないんだろう。」
「誰か他に好きな人がいるんでしょう。」
そんなことはないと取り繕っても効かなかった。ある程度の期間を付き合うと、俺の気持ちが他にあると感じ取った恋人達は誰も彼も同じ風な別れ話を切り出した。
根拠のない雰囲気を覚る人間の感覚は鋭いのだなと思った。そうして追い縋らない俺がまた、腹立たしいと見える。「別れても良い友達でいましょう」なんて形を変えて繋がっている関係は一つもない。当て付けに新しい恋人を紹介されたことならあった。

雨の雫が窓硝子を伝い落ちる。その速さにのせて辿るのは、近くにいた恋人の向こうにいつもいた、遠くから見掛ける彼に纏わる微小な記憶の粒だった。
蓋し人は他人の心の所在に敏感だという感想は並行して対照的な人をも浮き上がらせ、どうやらカカシ先生はそういう空気にとても鈍いらしいということを俺に知らしめた。要するに彼は、向けられた好意に鈍感で、無自覚な色男だったのだ。
黙って突っ立っていても持てるのに、さては脈があるのではという相手の勘違いを誘う言動をするからなお持てる。それは誑し込もうとして為されるものではなくて単純に、彼の厚意と素直な性格に起因していた。この天然の厄介が齎す結果は、一人芝居の痛感と、誤解から生まれた失恋だ。
ところが、それでもいいと想いを寄せる人の絶えない事実が、彼の人気を翳らせない。今日も明日も、歎く衆人は、あの人にその気はないと口の中で何度も唱えて自らに重々言い聞かせている。そして、悪気のない色男の愛想は野放しにされどこからも責められることがない。
改めて、この俺はどうか。何気無い振る舞いを真に受けそうになる大勢の中の一人に相違ない。踏み込んではいけない性欲は、その時その時の恋人に摩り替えて発散されていたのかもしれない。だからこそ、彼への想いは激しく燃え盛るでもなく、殊更粘着性を帯びるでもなく、淡さと穏やかさとを保てていた。

「今日は。」
「む。」
降りしきる雨をぼんやり眺めていると、稍あってどういう訳だかカカシ先生が薄暗い教室に戻って来た。
「むう、うう。……カカシ、先生。」
「はい。どーも。」
「本物?」
本人として扱えばいいのかという意味合を込めて聞いた。
「そうですが、どういう意味でしょうか。」
「いえ、何、今し方生徒が、……あいつ、大丈夫かな。」
試しに、痛む腹を抱えて帰ったことになっている生徒を心配してみせると、彼はすっとぼけて頭を掻いた。何も付け足されなかったから、俺はその件については当初の通り安心していることにした。
「ああ、こちらの話です。」
自分が変人の烙印を押されていることは横に置いておき、カカシ先生のことを変わった人だなと思った俺は笑ってしまった。










-続-
4.>