単発text08_1
此処に眠る。
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| 草原の蟻 空を飛ぶ。 |
1. 春爛漫の昼に発生した、耳をつんざくような甲高い声が執拗に心を掻き乱し続ける。 泣くな。 それが止むまで男は、退散した屋根の上で麗らかな青空を仰いでいた。 瞼には平凡な薄い雲が残る。胸の底の濁りは、その場凌ぎのアルコールで飛ばす。 「D級任務は本ッ当に嫌。中でも子守は大ッ嫌い。」 幼い女児が泣くより年端のいかない男子の泣き声を聞かされる方が、彼には一等堪える。 「俺にとっちゃア、S級任務以上に精神をズタズタにされる仕事だあよ。」 泣くな、うるさい。そうして余計に苛付いてしまうのは、自身と同一の性であるからなのかもしれない。 「苦手なんだよ。」 身勝手な感情の塊みたいな声音が鼓膜にへばり付いて、頭が痛くなってくる。カカシは、細長い酒場のカウンターで自棄酒を煽っていた。その空間にはあくまでも静かな時間の流れと、全体を支配する特有の暗さがあった。客席はカウンターの一列のみである。 ぽつぽつある照明は天板の木目と、多種多様な瓶がずらりと並ぶ酒棚を照らしている。店員の背後で凝ったデザインのラベルや瓶の曲面が小さく光り、壁面がキラキラしていた。 「俺の個人任務だったら絶対に回ってこないのにさあ、ハー……、勘弁して欲しい。だから嫌だったんだよ、上忍師の兼務なんて。でもさあ、テメェがやりたくないからって部下の任務内容を偏らせるんじゃ、上忍師の存在意義に反するっていうか、むしろ存在自体が障害物じゃない。もうね、指導も糞もなーいよ。D級任務を上手に耐え抜く方法ってやつがあるんなら、こっちこそ是非とも教えて欲しいものだわ。ああー……ホント、勘弁してくれ。柄に合わない肩書を押し付けられて表にいるくらいならさあ、裏の暗部にいた方が断ッ然まし。聞いてんの、アスマ?」 くだを巻く新米上忍師と旧知の間柄である左隣の男は、唇の間から紫煙をフーと吐き出した、息の余りで以て「おー」と声を出す。彼も、下忍に任務経験を積ませる現場の指導官を下命されている。先輩上忍師である。がっしりした体付きをしており、手も厚くて大きい。その適度に肉感のあるごつごつした中指と人差し指とで煙草を挟み、顎の輪郭に沿って蓄えた鬚を空いた親指で触りながら彼は、救援部隊といっても過言ではない役割を担う、迎えの人間の到着を今や遅しと待ちわびていた。 不穏な空気を身に纏う猫背の忍と事務棟で出くわしたのが運の尽き、弟分の辛気臭さを知らん振りして別れることに関しては良心の呵責なんぞ起こらぬものの、周囲への危険性を発見しておきながら野に放ったとなれば己の責任感に傷が付くとあって、愚痴に付き合い飲み始めた結果、二時間が経った午後九時の段階でもまだまだその場は解決の雰囲気になかった。それで止むを得ず、ぐだぐだする酔いどれが席を立った隙にアスマは酒棚の裏で一服していた店員に駄賃を握らせ、ある人の元へと遣いに走らせていた。今晩行くと言っていたその夜がずるずると更けてゆき、何かしらの策を講じなければこのまま朝になってしまいそうだったからである。 何時までもそちらへ行けそうにない彼が店員に託したのは、逢瀬の中止ではなく、先約の女人をこちらへ召喚しようと考えた言づてであった。物分かりの良いその人物もカカシのことは子ども時分から知っているし、事情を話せば呆れて許してくれるとアスマは踏んでいる。彼が連絡したのは、私も飲んで帰ろうかしらと椅子を引いて参加するか、強制的にお開きと言い渡す采配を取ってくれることはあっても、異性には理解し難いあの、異常な感情の爆発を起こすような女ではなかった。 夜の十時が迫った頃、重たい扉に付いた鈴がチリンと、新来の客を控え目に告げた。現れたのはうねる黒髪を豊かな胸元まで伸ばした、竹を割ったような性格の美人ではなくて、健康的な漆黒の直毛を後頭部で束ねた青年であった。 「アスマ先生、今晩は。」 「おう、イルカ。奇遇だな。」 「後は、俺が。」 「お?」 熊みたいな男から、今にも横へ崩れてゆきそうな背中に視線を移すことで意思表示しつつイルカは来店の経緯を小声で明らかにした。 「代わりますよ。」 珍しく許容の量を超えて摂取したアルコールにやられて項垂れた頭を、カカシは肘を突いた手でどうにか支えていた。 「なに、二辻向こう、そうだ、あの辺りに煙草屋があるのをご存じですか、ええ、その道で、紅先生にお会いしたんです。挨拶がてら行き先を尋ね合って、そこで店からの伝言内容を立ち聞いたものですから。どうも俺の方が手も空いてそうだったし、それで自ら志願しました。紅先生は、『イルカ先生が代わりに行ってくれるなら私は家に帰ってるわ』って。」 「あー、そう、家に帰ってるって。そうか。で、お前がこの状況を打開しに来たってえ寸法か。」 「はい。意外な名前を含んだ救援要請だったものですから、冷やかしに。」 「オメェも昔っから変わんねえな。ふわふわと定まんねえっつうのか、無駄に機動力があるっつうのか。」 「神出鬼没となら言われたことがあります。それに、紅先生のほうは何やら訪ねてくる御仁がある風だったんですよ。いい人でしょうか。」 「お、おう、さあな。物好きもいるもんだ。」 「そんな言い方。素敵な女性じゃありませんか。」 「そ、そうか。アー、じゃあ、マア、こいつを頼む。最終的に起きなかったら仮眠室にでもぶち込んでおけ。」 「了解しました。」 「ハー……。泣けばどうにかなるっていう魂胆が気に食わない。うるっさいなあ……。」 カカシは耳朶をぐにぐにと押し潰している。余程その奥が気になるらしい。右目を除いて覆面している彼は酒を飲むのに鼻から下を露わにしていたものの、普段から斜めに使って左目を封じている額当ては尚も装着されていた。 その彼に右半分の素顔がなるべく晒されない壁際の隅を取られたアスマの席は必然的に左側になっていた。ついでにいうと、この酒場の出入口も席に着くと左手に当たる。 「ちょっとアスマ、聞いてる?」 トロンとした目付きのカカシはいつまでも背後の何者かと喋っている、程よい絡み先を逃がさじと勢い良く面を上げた。 「はいはい、ここからは交代して俺が相手ですよ。今晩は、カカシ先生。」 「イ……?」 「そういうこったから。あばよ。」 気心の知れた上忍仲間が軽く片手を上げ視界から消えると入れ替わりで、今、この時には、地上で最も合わせたくなかった顔がすっと映った。 よりによって一番見られたくない人に一番見られたくない姿を晒す羽目になってしまった深酒のカカシは、身柄の引き渡しを完了してさっさとこの場を後にする兄弟分を人非人と非難すべく僅かに正体を取り戻すと背を起こして、イルカ越しに伸びる通路に矛先を向けようとする。それを阻止するかの如く空いたばかりの椅子に座った彼が、 「聞いてますよ、なんですか」とすぐ傍で相槌を打ってくるものだから視点を手前に引き戻されたカカシは新たな生贄と目が合った。顔の真ん中を横一線に走る傷跡が、近い。 「最悪。」 がっくりして右肩に口元を付けたが、調整しきれていない呟き声は筒抜けになっていた。新手の犠牲者として登場したのは、彼が密かに想いを寄せている、忍者学校の教師であった。 2. 教師と上忍師という、この二つの役職は、学窓を巣立つ生徒を介して交流が生まれやすい。従ってイルカはアスマのみならず、同じく上忍師の紅とも面識があった。しかし、下忍と認定した卒業生を自らの部隊員として預かる上忍師の実務に就いて日が浅いカカシにとっては、教師よりか事務棟の窓口で報告書の受理を行う中忍としての印象の方が強い。イルカは、学校に籍を置きつつ任務受付所という忍施設で事務方の手伝いもこなしていた。 歳も体格もさして違わない男のどこに惚れたのかと問われても、カカシには具体的にここという箇所がさっぱり挙げられなかった。ただ、初めて見た時にやりまくってみたいと思い、初めて口を利いた時に我が物にしたいと思ったまでだった。それからは、自分だけのものにして、彼を見ると沸き起こる何かしら綯い交ぜになったような気持ちを清清するまでぶつけ続けてみたいという衝動の規模がその度ごとに右肩上がりの直線を作っていくのを自覚していた。 そんな不埒の火種を秘匿する男の素顔を初めて見たイルカは、どおりでモテるわけだと、表に出さず大いに納得していた。 「荒んでますねえ。何かあったんですか。」 「べっつにィ……。」 とは言うものの今晩のカカシの頭はもう大分酒にやられていて、教職に就く者からの共感が得られそうにもないことを分かっていながら歯止めが利かずに、つい口を滑らせてしまう。 「昼間に聞いた、男児の泣き止まない声が耳にこびり付いて、取れないだけ。」 「ああ。へえ。そうでしたか。」 「……。」 イルカは驚きも、困りもしなかった。ジントニックを静かに傾け、詳細の追及も始めない。 逆さにした三角錐に柄を付けた形の杯からオリーブの刺さった串を摘まむとカカシは、黄緑色の実を口に入れた。何度食してみても美味いと思わないから歯を立てるのに彼は毎回ちょっとの勇気を出している。 「イルカ先生はさあ。」 「俺ですか、はい。」 「教師をやってるだけあって、やっぱり子ども好きなの?」 「んー? いやあ、それはどうでしょう。教育を施す対象として接する分にはいいですが、自分の子をもうけたいと思いませんからねえ。」 「……。」 「そんなこと言っててもいずれ出来たら子煩悩になるんじゃないのって冗談にされちまうけど、この遺伝子を引き継がせたいとは思えません。」 「……。」 ぴたりと動きを止めたカカシは一呼吸置いて、手元の小さく畳まれた白い紙に串を差し入れながらゆっくり首を回すと左隣を視界に捉えた。 「……なんですって?」 「子は人類の宝だと思います。皆で守ってきゃいい。だけど、だからといって自分の子孫を残す気にはならないんです。」 カカシの心臓がどくどくと速く打ち、頭は一気にずきずきしてきた。 「もっかい、言って。今の台詞、ハア……。」 「ありゃ、大丈夫ですか。そろそろ出ますか、カカシ先生。」 「…………、…………、……――俺、なんで貴方のことが好きなのか分かった気がする。」 お互いにちゃんと返事をしないから彼等の会話は交差してちっとも片付いていかない。 「好……、え?」 思いも寄らない不意の言葉にイルカが気を取られているあいだに酔っ払いは更にウイスキーの水割りを注文した。 「これ、誰だと思いますか。」 いつも持ち歩いている愛読書をおもむろに腰の小物入から取り出したカカシはパラパラと頁をめくり、栞のように挟んであった一枚の写真をイルカに渡した。 それは彩りのない白黒で、被写体は仰向けの嬰児であった。握った玩具の取っ手が忍道具のクナイに似ている。とはいえ口元に当たっている部分は切っ先ではなく丸い形に加工されていた。素材もきっと危なくない物だと信じたいところである。それにしても、ふっくらした頬、小さな手足、何より笑顔が可愛らしい。何色かは判然しないものの柔らかそうな頭髪は肌より明るいと思われる。例えば銀色だと言われればそのようにも見えた。 「あの噂話は本当だったんですね。」 「どれだろうなあ。」 「カカシ先生のお子さんですか、この子は。」 まことしやかに囁かれている巷談をイルカは思い出していた。 (カカシ上忍が肌身離さず持っている本には秘密があってね。そこには、写真が忍ばせてあるんですって。) (カカシさんはいつも本を読んでいる振りをして、実は赤ちゃんの写真を見ているの。) (車輪眼のカカシには隠し子がいるらしい。自由に会えない分せめてもと写真を常に持ち歩いてるって話だぜ。) その噂の主はバサバサした銀髪である。 「そうだよ。隠し子。」 「へえー。面影が、似てますね。」 「嘘です。」 「は?」 カカシはくつくつと笑う。 「嘘です。俺の子どもだって、皆が言ってるんですか、それを。」 「あー……、はい。」 「それは、俺です。」 口角が上がっている割に目が全く笑っていないので、視線が合ったイルカは少々険呑な感じを受けた。が、肝が据わっているというか、色んな人間に好かれているのと同じ分だけ色んな人間に睨まれてきたイルカは動じない。 「へえ、カカシ先生かあ、これ。」 他者との距離を初っ端の時点で取っ払ってしまう彼は、それですぐに打ち解けて親しくなれる者とは仲良くできるが、踏み込まれることを迷惑がる者からは敬遠されてきたのである。「ふうん。」 「ナルシスト野郎って思いました?」 「うん。や、でもマア、これはいい一枚なんじゃないですか。」 「正直者。」 写真に収まる当人でもある持ち主には、それを見せられている人の粗いお茶の濁し方が可笑しかった。 「しかしもっと気になるのは、色がないことですよ。白黒だなんて、カカシ先生ってば年齢詐称でもしてるんですか。俺より上といってもアスマ先生よりは下ですよね。この御時世に、いや、その論点からいけばお子さんにしたところでおかしいですが。」 「意図は撮った人間に聞いて下さい。」 「ふ、マアそれもそうか。当時のカカシ先生はこの、赤ん坊なんだし。じゃ、撮影者がどなたなのかはご存じで?」 「……。」 「……アー、はい、これ、どうも、ありがとうございました。」 ぺこりと頭を下げ、下の二角をそれぞれ両手で持って、イルカは相手の思い出の品を差し出した。 「可愛いでしょう、その俺。」 「え、ええ。」 受け渡しに失敗してカウンターの天板に腕を下ろし、また写真を片手にする。その中の赤子は、こちらを見てにっこりしている。釣られて自然にイルカの顔も綻んだ。 「可愛いです。笑ってますねえ。」 「ウン。笑ってる。」 「…………。」 「しかも、カメラを見てるんです、その俺。目が、合ってるでしょう?」 「ええ、合ってます。カカシ先生がこっちを見て笑ってる。」 「そう、笑ってるんです。……そうやって写真を見ると目が合うということは、これを撮った時に、カメラを持った人間は俺を見ていて、俺もその人を見ていたということ……でしょ。」 「……そうなりますね。」 「父だよ、撮ったのは。」 短い寸胴に替えられた杯を煽ったカカシは、その人のことを「父さん」と呼べた例が一度もなかった。 他人に対して父親のことを口にする際には、公の場では「はたけサクモ」とか「はたけ上忍」、「サクモ上忍」と言い、私的な場面では「あの人」か「父」と言っていた。そして本人に向かっては、息を吸って、吐いて、一拍置いてから「ねえ」や「あの、ちょっと」と声を出して呼び掛けていたのである。どうしても会話中に相手を指さなければならない時には「あなた」という語を使った。それは、サクモの方が「父さん」と呼ばせない雰囲気を作っていたからだというのが息子の言い分であった。 -続- |
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