単発text08_4
此処に眠る。

- 写真

<5.〜7.
草原の蟻 空を飛ぶ。



8.

見事な統制の手腕を発揮する恋人を持つこととなったイルカは、当初に打ち出された数々の決まり事を従順に守っていた。他者との過剰な接触を避け、みだりに身体を触らせない努力をした。気任せに突然どこかへ出掛けることもなく、夜な夜な飲み歩いたり、遊びの果てに無断外泊したりということもなかった。
相変わらず交友関係は広いようでも、浮気をしている気配はない。ただ、指揮官みたいだと彼に堂々と面白がられている当のカカシは、相手が全く甘えてこないと思っていた。

カカシは経験から、女は抱かれたい合図に溶けた蝋のようにしな垂れかかってくるものと学習していた。誘いに乗ってやっている最中は、一旦阿呆臭いという嫌気が差すともう白けた熱はぴくりとも動かされなくなってしまうから、集中力を最大限に引き上げて正常性という一点のみに意識を絞り、やり始めた義務感で以てひたすらに打ち込んだ。他の男に貸し出されて悦ぶ調教済みを一晩借りると便利だった。命と意思を持った生物だと思うと気が触れそうになるときには、精巧に細工された脆くて繊細な操り人形を扱っているという自己暗示に掛かった。生身の人間として接するよりもそちらの方が、女の安全性は遥かに高くなったのである。

彼にとってイルカとの暮らしは、毎日が自己の人生にけりを付ける一種の、イルカを巻き込んでする紛れもない闘争であった。煩悶の日々が三か月、半年と連なりゆくなかで、なかなか決着のつかない問題に気が遠くなりそうな時もあった。
最初のうち、イルカは大して何も考えていないのだろうと思っていたカカシは段々と、イルカが何を考えているのかが分からなくなっていった。彼を抱いている時は生身の人間に触れているという実感で胸を満たしたいのに、逆に傀儡の空しさを覚える、逆回転する心の動きに腹が立って当たり散らすような、あらゆるものがぐんにゃり歪んでゆく興奮で箍が外れ、水飴みたいな重苦しさと呼吸のし辛さを感じる世界の閉塞を闇雲に破ろうとするような手荒さで酷い抱き方をしてさえ、翌日の彼は何事もなかったかのような態度でいたからである。そこには傷心も、怯えも、失望も、何も無かった。
どこまでも万遍無く広がってゆく愛は、設計に狂いのない囲いを用いて堰き止めればその場所でどんどん溜まっていくと予想していた。なのに、独占したい人の愛に限って、それがあたかも土の抜け道から外へ、外へ、いつの間にかじわじわ染み出し、乾燥して跡形もなくなってしまう水のように感じられた。カカシは複雑な高等忍術を会得する過程よりももどかしい、そんな挫折感を何遍も払拭しながら彼は彼なりに親密さというものを捻り出すのに苦心して、じりじりする真夏を越した。


暦は長月になっていた。
まんまるの月がぽっかり浮かんだ晩に、その辺で拾った、イルカと同じような肩まである真っ直ぐな黒髪で、黒い瞳の女を眺めながらどうしたものかとカカシは思案に沈んでいた。内緒の昔日をイルカに見せて無様な繰言を浴びせていたあの酒場で、とうとうもうこの女を一晩抱いてあの人のことは解放しようかとまで思い詰めていたのである。
それでも、自身の陶冶のしくじりはこの頃の彼には、克服できなかったという敗北感を以降引き摺る未来という意味合にまで改善されていた。孤軍奮闘の色は薄れ、単純に水と魚のような交わりを二人でしたいという恋の本来性が台頭してきたのである。
それゆえに、イルカを純粋にイルカとして受け取り、ほかの誰でもない精製されたイルカから与えられる愛の享受を目指したけれども、その人はカカシに興味を示さない。大人しく束縛されている姿がいつまでも仮初めに見えた。その身を拘束する同居人に対しては今晩の遅い帰りにも、無関心でいるのであろう。
カカシは女の頬を撫でるように触る。その手首を、ぐいと掴み上げた者がいた。

「今晩は。」
カカシがぬっと視界に出現した腕を辿る。そこに立っていたのは、間に割って入るように上体を傾けて、払うように放した手首の主にではなく見知らぬ女に挨拶をするイルカであった。眼帯代わりの額当てもマスクも下ろしていないカカシは壁際の席におらず、出入り口に背を向けていた為に彼の登場に驚いた。一括りにした跳ねる黒髪は分かったが表情はカカシの側からは窺い知れない。
「おや、俺とは似ても似つかない容姿だ。」
彼女の頬は暗がりのなかでもほんのりと色付いており、くりくりした目をしばたたかせると長い睫毛がばさばさと動いた。
「あ、貴方、一体……?」
「俺ですか。この人のコレです。店主、両席のお代は。――釣りは要りません。粋な店の雰囲気を壊してしまってすみませんでした。」
立てた親指の腹を女に見せてから、カウンターを挟んで店主と短い遣り取りを交わし、手早く札を二枚出す。それから再び、何が起こっているのか一向に把握出来ていない彼女に向かった。
「どうも、俺の飼い主がお世話になりまして。犬の顔は八匹とも覚えられるのに、ネコの見分けは付かないらしい。」
「……は? 何の、話よ。」
イルカの大きな口が弧を描いた。
「では、夜道に気を付けてお帰り下さい。女性の独り歩きは危険ですから。失礼。」
そこですっと笑みを消して真顔になったが早いか八匹もの忍犬を使役する忍の腕を引っ張り上げた彼は、そのまま強引に店から連れて出た。カカシは一言も口を挟めなかった。


ある程度歩くと、カカシの腕を鷲掴みにしていた手をぱっと開き、大股で二、三歩進んだイルカは、
「御免なさい。」
と、背を向けたままで俯き、謝った。
「御免なさい。」
横に並ぼうとして速めかけたカカシの足が停まる。
「御免なさい。カカシさん、御免なさい。」
「……。」
「俺、……俺は、……。」
「……。」
次に吐き出される言葉を待つというより、カカシは困惑していた。振り向かないイルカは顔を上げない。彼を雁字搦めにしている普段と今晩の自分の行いを考え合わせても、それはこちらの台詞であって彼の台詞ではないと思う男は何よりも、震える声が怒りに染まるどころか泣きそうになっている仔細を知りたかった。

「……初めてです、こんな気分は。俺は今まで好きだと言ってくれていた人達に蹴り飛ばされても、殴られても仕方がない。やっと解った……。長らく謎だった、そっちも自由にすればいいのにとしか思えなかった。なんで異様に、絡み付いてくるように、変わっていくのか不思議だった。どこかに閉じ込めたいって欲望に駆られるほど誰かを一人占めしたいなんていう感覚は、俺にはなかったのに。……貴方に置き換えて考えたら、ぴったり当て嵌まったんです。今まで言われていたことが。辛いっていう感情が。胸が痛いっていうことが。自分以外の奴には許さないで欲しい距離ってやつが、どういうものかっていうことも、実感できた……してしまった。」
イルカはカカシとの生活で、大別しかされていなかった物事の線引きの本数を段々と増やし、大切な物や身近な人の度合いを細分化していった。そうして未熟な面をどんどん変えてゆき、自分をだれさせない彼のことを何時の間にかとても好きになっていた。カカシの持つめりはりは、共有すると心地良かった。
「幾ら俺と誰かの二駒を考えても導き出せなかったのに、貴方と誰かっていう二駒を目前に置いたら、辿り着いてしまったんです。」
イルカは、初めて焼き餅を焼いていたのである。
「もしも過去を活かして生き方を変えてもいいなら、俺は、貴方と関係する人生の上でその報いを受けたい。」
路上でする内容ではなくなってきて、カカシは取り敢えず彼を黙らせようとした。
「イルカ先生。こんな往来で何を言っているんです。一先ず落ち着きなさいよ、ね。」
覗き込むと、突如として愛が開花したらしい彼が面を上げた。落ち着いていられないその顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「貴方への気持ちを、誰に聞かれたって俺は構わない!」
恥ずかし気もなく告白してくる語気に多少気圧される。
「分かったから、泣かないでよ。」
カカシは苦笑した。「子供みたいに泣いて。困った人だね。」
その一言を聞いた途端イルカは、如実にハッとした。大慌てで呼吸を整え、袖口でごしごしと涙を拭い取る。

彼の所作を見て、カカシはピンときた。
「……、もしかして今、……酔っ払ってうだうだとくだを巻いてた晩に俺が言ってたことを、思い出してます?」
イルカは眼球をツーと横に動かして誤魔化そうとした。
それが何よりの答えであったからカカシは笑った。
「俺が苦手なのは、子供の泣き声だよ。まあ、貴方の涙も苦手なのかもしれないけれど、その泣き方は反則だあよ。もっと奇麗に泣いてくれなきゃ。笑っちゃうじゃない。」
「カカシさん。……カカシさんは覚えてますか、俺に写真を見せてくれたこと。本に挟んであるやつです。」
「ん、アァ。」
「さっきの、あの店でのことです。」
「……ウン。」
「俺には思い入れのある店だから、同じ店で誰かとしけこまれると腹が立つ。」
イルカは続け様に言葉を放った。
「……俺は! 俺は、あの写真の子に、もっと、もっと笑っていて欲しい!」
泣いたり怒ったり、忙しい人だなと思っていたカカシは、間違いなく心臓を射貫かれた。

「アンタが望むなら、俺はネコにもなれる。犬にもなって、恋人にもなる。友にもなるし、教師にもなる。弟になり、兄になり、母になり、父になる! 子にもなるよ。何にだってなる。初対面の人に後釜って嘲弄された時はかちんときたけど、」
イルカが謂れのない謗りを受けていることなどは初耳であった。
「誰が、」
「それはまだ我慢出来るよ。でも、誰かを重ね合わせられる身代わりは嫌だ。」
「……イルカ先生、貴方……。」
「アンタ、ホントは俺のこと好きじゃねえだろう。」
「それは……。」
「俺のことが、好きな訳じゃねえんだろう?!」
「それは、こっちの台詞です! アンタ、形だけは素行良く振る舞ってるけど……好きだって台詞を、今まで一度でも心から口にしたことがあったのか?!」
「だから……気付いた今から伝えまくることにした! 好きでウ!」
す、と出し切る前にカカシは大声を出す口をぱしりと手で塞いだ。
その手首をイルカはまたグイと引き寄せて、意表を突かれた彼を抱き締める。故意に込められる力の加減は、熱い抱擁ではなく嫌がらせのそれであった。
感動は刹那に宿る。その一瞬が強烈であった時に残るのが余韻である。生憎カカシの相手は煌めく余韻に浸る隙も与えない。
「やめて下さい、往来で。ちょっと、離れなさい! イルカ、待て! こら。待て!」
その聞き分けない眉間に手の平を当てて押し返していた時だった。カカシの眼界、二筋先の十字路にランタンの明かりがぱっと現れると、ふわりと上がった。不審な物影を発見して、様子を窺うときの動きである。
それが夜間の警邏隊であると、二人はすぐに察知した。





9.

イルカは忍者学校と受付所を担当しているが、受付所との兼任といえば警邏隊との組み合わせの方が圧倒的に多い。つまり、街を巡回しているのも忍である。
(おおい、そこのお二方)と声が上がる。
「不味いな。俺が襲われてると思われたんですよ、イルカ先生のせいで。」
「ンな馬鹿な。あ、近付いて来る。」
次に掛けられる声はこんなとき、(ちょっとお話を聞かせて貰えますか)であると相場が決まっている。
「サイアク署に連行されますよ。」
「なんで。何もしてないのに。」
里の年中行事がある夜には韋駄天走りで、逃げ回る生徒を何人も補導している教師は言った。
「疑われても仕方のない紛らわしいことをやっていたらお説教ですよ、というコトで……逃げるべし!」
「え?!」
「痴話喧嘩でーす、お騒がせしましたア!」
イルカは面が割れる前に地面を強く蹴り、逃走した。
「カカシさん、これで捕まったら赤っ恥!」
「ちょ……!」
カカシも驚きながら信じ難い決断に身を投じ、真面目に走ってその場を後にした。
月下の筋には狐につままれたような顔の警邏隊が取り残されていた。


無人の小さな公園と、静まり返った真っ暗な銭湯を過ぎれば川に出る。人気のない橋の上で走るのを止めたカカシは、ふうと一息ついた。
「なんで里の誉とまで謳われた上忍が……。」
イルカも息を整えながら、文句を垂れるお人好しを見ていた。
その視線に気づき、里の安全を守る警邏隊から不審がられたことが遺憾である彼はきっと睨み返す。
「見るな。」
「本当は見て欲しい癖に。」
ぷいっとそっぽを向いた、カカシは家を目指して川沿いの道を歩き出す。
追い付いてにやにやしていた、悪戯小僧の気質がある男は無言の恋人にギュウと頬を摘ままれて涙目になった。

「俺って、適当に生きているように見えますか。」
「ふん?」
「俺はね、懸命に生きてるんだよ、ずっと。だから、やっぱり貴方のことは離しません。」
「……でも、一回しょの手を離して貰えまひぇんくぁ。」
抓った指が口の端に引っ掛かり、イルカは上手く喋れない。
「離さない。と、言っているでしょう。」
「ウー」と低く唸るから、威嚇されたカカシは仕方なく嗜虐心を引っ込めた。

「カカシさん、俺、すんげえ気性が激しいみたいです。今回初めて知ったんですが。やばいですよ。」
「やばいんですか。」
「やばいです。」
「何がかね。」
「今度浮気現場を目撃したら、どうなるか分かりませんよ。」
「浮気って、お前が言うな。」
「浮気したことなんて俺は一回もねえ。」
「ウン、マア、そうですけど、俺もしてませんよ。」
「殴るぞ。」
「謝ってやってもいいけど、してない。悪かったよ。」
「未遂でも同罪だからな。」
「大丈夫です。」
慎重に判断を下すカカシは任務の現場で滅多に使わないこの言葉を、イルカの前では比較的よく使う。
「俺、同じ間違いは二度としないように仕込まれているので。」
カカシは満月を見上げた。
イルカは、静かにカカシの歩調に合わせて歩いていた。










終.
(2013.06)