単発text09_5
此処に眠る。

- 既往

<5.〜6.
灰を撒け



8.

蛍光灯の紐を引く。白い光が不安定にちかちか点滅してから、ぱっと流し台の手元を照らした。コップに一杯の水を飲んで深呼吸したが憂患の治まらない彼は、例の如く洗面所で鏡の前に立った。顔を上げると、答えを乞うもう一人の、カカシがいた。
(例えばさ、『今は僕たち私たちのイルカ先生なんだから邪魔しないで』――アカデミー生にそう談判されれば、どうだ。『譲るしかない』というのが模範解答なんだろう。差し詰め『皆のイルカ先生』は、そうやって作られてゆくんだ。)
上背のある集団に遮られていた父のシルエットが脳裏でゆらゆらと揺らめいた。
(どうして還って来ないのかな。)
亡霊は関係ないと追い払う。
(帰って来ないのかな、今夜はもう。)
鏡の男を凝視する。
(『彼』彼は。今、どこで、誰と、何をしているのかな。)
自分を見詰め返す、自分がいた。
(御前はなんで『俺』独りなのかな。誰のせいで。関係ないか。俺には。あの人には。イルカ。何も、何も、「全部は過ぎてゆくからね」。彼『彼』彼の後ろ姿を見送ったのかい。何度見送るのか。イルカ、イルカ。還って来ないよ。それがどうしてかは明らかでしょ。)
(俺はまだ敗北していない。)
(俺『御前』俺、それとも欠損……、でも他者じゃ、じゃないよ。)
(〈自由〉。〈自由〉だ。そして生きている。)
(御前が生きていようが死んでいようが、興味ないんだよ。)
(違う。〈意味〉が……いや……笑ってって……!)
蝉の抜け殻、車輪に潰され。握手。
(興味、意義。)
きらきら。干からびたミミズ、「行って参ります」、雨雲。背中。桜花。
(手が……、熱を……。)
瓶の中で蛍。笑う、白黒写真の。逃げ水。「恒に真となる」。宵闇。破綻、がらがら。画鋲の、星。光って。痛い。警邏から逃げながら。痛い。あれは。

話にならない話し合いが進行する。チカッ、チカッと点滅していた記憶が、ぐっとある瞬間に自分達を取り込んでガタガタと震動し、場面をくるくる替えるかと思えばしつこく遣る方ない一齣に攫ったりした。それを処理しきれずにじたばた藻掻く意識を放棄しかけた段に達するとふっと悉く消え去り、一気に現実へ逆に放り出される。カカシと鏡の中のカカシは、我に返って見詰め合う。互いに甚だ心許無い。なぜなら、鏡の中にあるのは自分自身の顔なのだから。
頭では自分だと了解しているのに感覚がそれに伴わない、この状態で不毛な雪崩れに飲み込まれると、脳内が沸き立つようにぐらぐらして彼は酔った。陶酔ではないこの嘔吐感は、塗炭の苦しみだった。
(ある。ある。ある筈だ。)
(イルカ。)
(あの人だって、俺じゃなくっちゃ、他の誰とも続きやしない。)
(なんでそう言えるの、根拠は、確かだと言える?)
(……他の可能世界にいる、俺とあの人も、どの時点かで出逢う。俺はどの世界ででもあの人と共に生き抜くんだ。どの世界ででも、必ずだ。〈そうならないことはない〉。そうならないことはない。必ず出逢って、必ず一緒に生きるんだ。それが俺の必然だ。偶然的真理なんか認めない。あの人の元へと傾けるだけの力しかない神に用はない。)
(だけど、理由のないものはないという主張は取り入れてもいい。)
(俺は必ずあの人の元へ、纏わり付く粘性を振り切って到達するんだ。かの自然主義者はそうしたのなら必然的にそうしたのだといって、事物が別様でない必然性を練り上げた。)
(永遠を触りたい訳じゃなーいよ。)
(それなら、貞淑と官能との間に必然的な矛盾なんかないというあの金言はどうだ。あらゆる真の情事はそんな矛盾を越えるんだって。)
(感情と理性の対立はあり得ないっていうのはどう。あくまで理性が反対方向へ転回するだけなんだって。)
(人間のふるまいは全て物理法則に従って生じるとした人もいる。)
どんな論理の力を借りれば彼と共に在ることが正しいことだと宣言できるのか。
(俺は、変わらなければならない。)
このまま往けば果てに待っているのは、胸を満たすのは、虚しさだ。
(〈飢え〉と〈悲惨〉を超えて〈言う〉を物にしなくちゃ。)
(あの人には一点の非もない。成長できずにいる俺が駄目なんだ。〈思い慣わし〉を、回避したい。)





9.

挿した鍵が空振りをして、帰宅したイルカは小首を傾げた。とはいえ、もともと出入りの多い家で寝起きしていたので、そのこと自体にはさほど警戒心を持たないでさっさと格子戸を引いてしまうと、押し入りだったら面倒だくらいの用心で宅の様子を窺った。
奥まった厨のみ微かに明るい。点灯の紐を引っ張ったのは恐らく住み慣れた家人だろうと見当を付けて暗がりのたたきを上がったところだった。果たせるかな水回りの集まるもう一方の廊下の角から、その人が出迎えた。
「あれ、カカシさん。」
彼の出てきたのはイルカから見て前方右に走る一本だ。正面の廊下は行き止まりで、左右にカカシの部屋と炊事場があった。


待ち人が、帰ってきた。
「……。」
あれは誰ですか。
何十回となく胸で繰り返した質問をぶつけようとしたが、カカシはどうしても唇の先へ気持ちを送り出せない。
「帰ってたんですか。帰還は明日だったのに、早まったんですね。」
「……。」
誰と、会っていたの。
素直に、言えばいいのだ。言ってもいいのだ。そうして人との関係は深くなっていくものなのだ。苦痛の極地でイルカに晒す自己がある。
帰ったばかりの方が、留守居をする羽目になっていた彼に「御帰りなさい」と挨拶した。
「……只今。」
成長するのだろう。直接本人に聞いて貰うのだ。素直になるのは、いいことなのだ。


彼に接近したついでに冷蔵庫へ立ち寄ることにしたイルカは、天井の電燈へ伸ばし掛けていた手を不意に止めた。塞いだ調子のカカシの前へ旋回し、じっと片目を覗き込む、その回った空気にふわりとアルコールの匂いが乗った。
「何か、俺に隠し事してます?」
「は、俺が?」
強力な抑制を突き破った憤懣に後押しされて、つっかえていた言葉の数数が遂に口を衝いて出た。「あいつと二人っきりで、しかも酒飲んでたの? 内緒にしてるのはそっちでしょ。俺には疾しいことなんて一つもない。」
「あいつって……。」
「『紛らわしい場合も同罪』とか言ってたくせに。」
イルカには思い当たる節があった。浮気について釘を刺した際に承知させた文句で、正しくは「未遂でも同罪」だったが、兎に角それで相手の言わんとすることに察しが付いた。

「あの男は、アンタの好みのど真ん中でしょう。」
開けた冷蔵庫から何も取らずにぱたんと扉を閉めたイルカは、体の向きを反転させた。
「さて、どうでしょう。」
「俺と似てる。」
「……どこが。」
「見た目。」
「確かに。体格や、色素の薄いところなんかはそうですね。切れ長の一重だし。美形で、和を重んじる人と見受けられそう。けど、中身は全然違いますよ。」
「へえ。あいつの中身、知ってんだ?」
声ぶりが一つ落ちたことで、彼はカカシが怒っていると知った。
「少なくとも自分と似た外見を挙げて堂々と好みのど真ん中だなんて言い切れません、普通。そんな自信家はそうそういませんよ。それより、一体どこで見てたんです。」
「俺が何も言わないとでも思って、高を括ってた?」
あいつの方がいいの、とは屈辱の感が過ぎて、カカシはどうしても訊けなかった。
イルカは罪の意識のない当惑の顔でいた。

「あいつと何かした。」
「……。」
顎を片手で押さえ上げられたことで首筋が伸び、面を背けることを許されない彼は遠くを見る目付きになった。
「アンタ俺のなんだから、他の誰かにふらふらしてたら駄目ですよ。」
「……。」
「信頼してるのと舐めくさってるのとは違う。」
イルカは咎を吟味した。
彼から手を離したカカシはその口振りも突き放すように冷たかった。
「俺がアンタのことを信じているから問い質さないのと、アンタが俺のことを黙認するだろうって軽く視ているのとは違うんだよ。俺の立ち位置をどう捉えていた。」
「カカシさんのこと。好きですよ。すみません、俺、莫迦だからよく解かんなくて。」
「止めて、そうやって会話を切り上げるの。その台詞は嫌いだよ。自分を貶めないで。」
「そういう訳じゃ……。」
「使う奴を気遣ってるんじゃない、俺が馬鹿にされてる気分になるんだ。第一に、言われた方はどうなるんです。言った本人はその常套句で逃げておいて、相手を強引に高位へ追い込むのは卑怯だよ。第二に、本気で考え抜いた上で出した結論なの。それにしては短時間であっさり用いられると思わないか。解からない理由は貴方が本当に莫迦だからなんですか。俺だって無明の裡でも眠りから醒めたいと模索してるんです。碌に思考しないで、こっちの位を断定して投げ出す、その姿勢に腹が立つんだよ、俺は。」
「あの人は、十年も前の一時期に、よくつるんでいた人です。今日、偶々ばったり会っちまったんですよ。それで、家に帰ってもカカシさんはいないし、と、思っていたし、即席麺を啜るくらいならと、外で飯を食っただけです。」
「……。」
とことん煎じ詰めるカカシの思索癖にもイルカは真摯の二文字を付与して、是認していた。
――貴方のここはなんだか鍵のない部屋みたいだけど、俺しか入れないで。
胸に手の平を当てて、そう願われた夜もあった。彼は、人から嫌われていることは察知出来ても、どれだけ親密かという距離感については、謂うなれば大きな一目盛しか持っていなかった。負に振れていない正の範囲内では十年来の知己も、会って五分の人間も大差が付けられなかった。
カカシは口煩く、事あるごとに規則や指標を伝えて復習させた。一般には束縛の著しい過干渉な恋人と映ったが、人とどこまで仲良くなれているのか、その加減の仕切り板が未形成のイルカにとっては、誰もそこまでしてくれなかった、しかし自分には必要だったことをしっかり施してくれる、親切で忍耐強い恋人だった。イルカは、己の奔放さを箍がないだけだと見抜いたカカシに惚れた。


また、夜中にイルカは、カカシがシャワーの迸る水音で掻き消しながら風呂場の扉の向こうで一人ぎり忍び泣いているのを、喉を潤しに勝手元へ立った際に気付いたことがあった。大の男が嗚咽するなんて余程のことだ。それでも敢えて聞き出すことはしないで、謎は謎のまま、知らない振りをした。そして、二人で居るのにどうして一人で泣かねばならないのかと思っていた。泣きたいときには誰の肌にでもいいから都合好く縋る自分にはまるきり分からない行動だと思った。
それから対立と共感の層でもって日々の濃淡を織り成し、寝返りを打った相手の肢体の重みを心地良いと受け取れた感動を越えた。あの磨り硝子越しの感想は徐徐に、涙するならいつかはこの胸に来いという心積もりに変わっていった。人の心を開きっ放しの部屋だと見做したカカシに、いつか心を開いて欲しいと望むようになったのだった。
「カカシさんが家に居たら飯を食いには行ってなかったし、誰かと会う予定があったならちゃんと事前に伝えておきますよ。それに、言い付けを守って日付が変わる前に帰宅してるでしょう。ほら、俺、イイ子にしてましたよ。」
「……。」
惑乱から回復してよくよく顛末を見直したカカシは、視野の狭窄に恥ずかしくなった。
「飲み会以外で酒を飲んだら、いけないんですか。」
「……いけなくはないですけど、イルカ先生は、酔っ払うと、あれだから。」
「あれ?」
「さかる。」
「アァ。さすがイルカセンセーの専門家。」
「何も、なかったんだ。」
「何もありません。」
いずれにしても、行き違いに対する謝罪は双方が求めていなかった。それぞれのもっとずっと深部で、業が蜷局を巻いている。
「俺は貴方を裏切らない。」
「……好きだから?」
「そう、アンタ以外どうでもいいからね、俺。」
軽率で浅薄な有りようを自ら何遍も見限ってきたイルカは、カカシが満足するなら多弁になっても構わなかった。「大事にしたいと思っていて、尊敬しています。序列とは無縁で、特別な人なんですよ。」

イルカが虚ろな目を食卓へ移した。紙袋と、林檎が二つ載っている。
「カカシさん、これは?」
「ん。林檎。」
「俺の分も?」
「ああ。」
紙袋にはパンが何種類か、二つずつ入っていた。
「これ、半分は、俺の分ですか。」
「……美味しいモンは何でも二つずつなの!」
当然の取り分をいつまでも学習しない。否、遠慮深いという皮を被って打ち解けてくれないと思うカカシの言い方は癇癪を起こした子供みたいだった。
イルカは毎回こうして確認を取る。好きだとか何だとか囁かれるよりもよっぽどときめくこの答えを聞くたびに、物覚えの悪い男に成り下がる彼は嬉しがっていた。
「カカシさん。」
と、改めて呼び掛けて、狭い範囲にしか差さない明かりのはずれで彼は唐突に言った。「口でして。」
「何……、……。……酔ってるの。」
「…………、…………敬虔な、殉教者になってみたい……。」
噛み合わない珍獣との会話に、カカシは慣れていた。

「アンタの痕で一杯にしてよ、俺の体。」
首の後ろに腕を回され口付けられた彼は、
「優しくしたいよ、俺は」と呟いた。それから、膝を折っておもむろに低くなった。
以前に非情な抱き方をしたことがあるのを、カカシは酷く後悔していた。まるでどうせ御前はそういう人間だろうと端から思っていたとでも言うように、その扱いに対してイルカが無反応だったからだ。カカシがその肌を離さずに眠るとあべこべに鬼畜と詰るこの人は我が身を大切にしていないのだと、そうして悟った。イルカの目には誰のことも紙人形のようにぺらぺらに映っていて、特別という冠はごみ同然の代物で、彼は彼自身からも肯定的な価値を奪った。時に豹変したみたいに、異常に快楽に溺れたがる彼を、言いなりになって沈めたりはしないとカカシは己に誓っていたのだった。


愛し、愛されるという雛形を小説や映画に学んだカカシはその世界を羨ましいとは思えなかった。ただ、彼は誰かとの親和に憧れていた。今では、その夢に現実味を帯びさせている源に、声の具合一つで異変に気付いてくれるイルカという具体的な名前があった。
「どうか俺を信じて。」
その肌の温度が俺を拒まないのなら、それが続くことを願う。
跪いた彼はその太腿に恋人の片脚を乗せて、曲げられた内側に接吻した。
「ねえ、俺を収束値としていればいーんだよ、イルカ先生は。」
「……意味、分かんねえ。」
「後で教えてあげる。紙と鉛筆用意してね。」
「朝まで掛かるから嫌だ。」
洒落にならない明け方を知っている笑顔を見下ろして、イルカも笑った。
貴方の生を祝福しよう。貴方の罪を引き受けてあげるから、楽しいことがあった日にはピヤノを弾いて賛歌しなよ。俺は傍で、鉛になった魂を清らにするから。

貴方の生を祝福しよう。
そうして、痙攣する人生に寝そべり極彩色に昇天する夢を彼等は見る。










終.
(2014.08)