単発text09_4
此処に眠る。

- 既往

<4.
灰を撒け



5.

「そっちは、いま一人なんですか。」
「いや、彼女がいるよ。流石にあの時の子とは違うけどな。」
「上手くいってる?」
「このままいったら結婚すると思う。」
「そっか。」
浮かれるでもなく、そうかといって追い詰められた風でもなく、あっさりと結婚の二文字に言及した優男は、煙草を一本取り出して火を付けた。燐寸を灰皿に捨ててから箱の口をイルカに向ける。
「ああ、已めたんです。気持ちだけ頂戴しておきます。」
「……止めた?」
落としてしまわぬよう、銜えていた煙草を指で挟み直すとたいそう不得心のテイユは心なしか落胆の色の滲む眉を曇らせた。
「願掛けで断ってるとか、訳有りの禁煙でもしてるの、病気とか。」
「吸わない方がモテるんですよ。」
「愛煙家だったのに?」
イルカは出し巻き卵を一切れもぐもぐと食ってにこにこした。酒で赤らんだ頬が上機嫌に見える。真に受けた訳でもなかったが詮索を遮断する回答は振り下ろされた大鎌みたいで、角を立てたくないテイユはその威力に従うしかなかった。

「箱を机に置かないから、おかしいとは思ってたんだ。てっきり切らしたのかと思ってた。」
「寧ろそんな過去を知る人間は今や殆ど里にいないです。内密にして下さい。」
「聞屋に売ったら三文記事になるかな。」
ぶっと吹き出したイルカは、他に水を向けた。
「彼女も吸うの。」
「ああ。吸うね。」
それから苦笑を洩らして彼は、彼女の紹介を始めた。「手首に傷の絶えない娘でねえ。」
「アー。」
グラスの水滴を親指で弄りつつ打たれた相槌には、傍観者の不熱心さがあった。「情緒不安定系ですね。」
「眠れないって、巻き物に仕立てたくなる量の手紙が宿営地に、ひっきりなしに何通も届いてた。」
「美人?」
「小動物っぽい。」
「小さいのか。」
「あと可愛い。」
「あと可愛いね、ハイ追記追記。相変わらず振り回されるのが好きなんですねえ。」
「こんな俺でも、誰かの力になれるなら……それでいいかなと思ってるんだ。彼女、生い立ちが複雑でさ。」
「しんどくねえの。」
「ほっとけないよ。」
何か言いたそうなイルカの唇を見て、彼は分かってると笑った。「俺にとっては、退屈しないとも言えるからね。」
「人生退屈してるんですか。」
「刺激的な奴が側に居ないとねえ。」
藍白の瞳が「ジブンも刺激的な奴だった」と語っていた。それをイルカは、
「献身的だね。」
と、受け流した。

「覚えてるかな。初詣。年を跨ぐ深夜に参ったの。」
「ああ、行きましたねえ。」
「あの時、俺、目がごろごろするって言ってたんだ。」
「うん。本殿前の石畳で、参拝の順番待ちしながら目ぇこすってましたよね。」
「そしたら……イルカ君が、ごしごししないでちゃんと処方されてる目薬を差せって言って。」
「覚えてますよ。テイユさんが、彼女にも同じことを注意されるんだって言ってた。」
「はは。まあ、その時の目が結局どんどん悪化しちゃってさ。実は、いまはもうそっちの目が機能してないから、そのへんの事情を盛って提出すれば現役引退は出来るんだ。」
「え、引退って……。忍やめて、何になんの」と質問するイルカは、頭の中に、片目に特殊な眼球を移植してある銀髪の上忍を思い浮かべていた。彼は今、何をして過ごしているのかなと思う。
「彼女の故郷に行こうと思う。一緒に。」
「それって遠く?」
「国内。退役したからって自由な移住までは許されないだろ。」
「それはそうかも。で、あっちの故郷で一緒に住むんですか。開業医になるとか?」
「医療系は考えてない。彼女の実家は農業やってんだって。」
「じゃ婿にでも入る気?」
「うん、まあ、それでもいいかと思ってるんだ。」
「はあ、信じられないな。」
「だろうね。ジブンには無理だ。」
「そ、そんな一刀両断に。分からないじゃないですか、俺だって、もしかしたら……。」
「……。」
二人はそこで、口を閉ざした。


黙って飲んでいたビールをことりと置いて、再び語り始めたのはテイユの方だった。
「別れても、好きだったんだよ。」
ゆっくりとした口調で打ち明けられてドキッとしたイルカが上目を遣うと、告白した人は照れ臭そうに口元を歪めて目を逸らした。
「誰と付き合っていることを聞いても、ずっと。」
「……。」
「でも、カカシ上忍にしたんだなあって思った時に、漸く吹っ切れた。」
「……、そうですか。」
「俺のこと、好きじゃなかっただろ。……イルカ君。」
「そんなことは……。」
切なく笑う彼はその表情で以て、
「好きでしたよ。」
というイルカの言葉を否定していた。

順序の列に並べられないカカシを別格として除外すれば、イルカはそれまでに付き合った人間の中でテイユのことが一番好きだった。しかし結局は、二人ともお互いから離れて行った。その、重ならない人生を選んだ。
イルカは最後までその人に彼女がいることを何とも思わなかったし、罪悪の念などさらさら湧かなかった。束縛したりされたりする関係性は理解不能で、時間が合う時に一緒に過ごせれば十分だった。それ以外の生活はどこで何をしていようが知ったことではなく、自分の側に関しても指図や制約を受けるのは鬱陶しかった。
明確な形式を踏まないで起こった擬似的な交際の別れ方は、テイユがこれから一年程忙しくなると切り出して、それから急速に距離が開いて、積極的にそれを埋めることも将来の約束もしないまま会わなくなって関係が終了した、自然消滅だった。
内気で穏和な彼とは相性が良くて、過激な本音を晒しても雰囲気が白けることはなかった。けれどもそれは、人は存外ちっぽけな利益と引き換えに堕落へ蹌踉めくものだとイルカに思わせる、軟派と後ろ向きの同調に違いなかった。耳元で一緒に堕ちてと囁いたが最後、あっけなく崩れて悪循環から抜け出せなくなる。共鳴が毒になる。二人でいても底へと転がり堕ちる一方で、二人して駄目になるという未来しか描けなかった。優しくて主導権を握る性格でないテイユとは、最終的には共倒れの破滅しか待っていないように思われたのだった。
そんな彼だからこそ上手くいく相手も世界のどこかには在るだろう。ただ、イルカは彼の薬でなかったし、彼はイルカにとって不可欠な心臓ではなかった。とどのつまり彼は好きな人間だったが、彼を愛してはいなかった。

「判ってたんだ。片道だって。俺だけが、舞い上がってた。」
「そんなことも、なかったよ。」
「ジブンは、誰かに恋したことないだろ。」
「どうかな。」
嘯いたイルカは、誰にも恋なんてしないと思って大きくなった。彼はまだ二十五だったが、人生が長いと涙してからかれこれ十九年も経つ。後何十年あるだろうとうんざりする。両親にも吐露しなかったその絶望感をこの世界で唯一、彼の人生で一度きり、伝えた人間なら一人いた。生涯掛かっても克服できるかどうか見通せない種類の煩悶の遣り切れなさをその人が抱えていると、直感的に悟ったからかもしれない。
「本気で惚れると、頭なんか回らなくなるんだよ。ああ、自分はいかれちゃったのかなって、もう、訳が判らなくなるんだ、怖いくらい。その人のことで頭が一杯になって。よく何も考えられなくなるって言うけど、それは本当のことだったんだって、体で感じるんだよ。冷静な性質だと自分のことを思っていたから、猶更焦ってさ。人って誰かのことをこんなに好きになれるんだって思うんだ。」
自己犠牲の精神がありそうで、だけど至極誠実とも言えない彼がそんなことを力説するから、イルカは可笑しかった。
「今の彼女のことが、大好きなんですね。」
「俺がそれを味わったのは、一度きりだよ。」
テイユはイルカに視線を注いでいた。
「きっと……イルカ君は、一生誰かを好きにはならない。」
「……。」
苦し紛れに微笑んで澄ましたイルカは、カカシのことをそんなふうに好きかどうかに思いを馳せていた。





6.

カカシは夜からも昼からも剥落したイルカのことを確実に捕えて、総身の力で引き留める人間だった。それでいて、君は君だと半可な部分を生温くくるむことはせずに振り翳した鞭が似合いの眼差しで改心しろと課題を課した。それも、意識しないうちに成長過程で身に付けてこれた他の人では思い至らないくらい低い次元の、根本的な前景に心が働いていないのかと気付いた上でのことだった。だから自分に合わせて説明を工夫し、補足してくれる彼の傍に居ると、イルカはその鼓吹に応えたい気持ちから芽生えた向上心を常に保ち得た。

季節が真逆だった寝苦しい夏の夜。一人で起き出したイルカがごそごそと準備をして玄関戸に手を掛けた、午前零時のことだった。
「どこ行くの。」
背筋も凍る、怒気の押さえ込まれたとても恐ろしい声がぱっと後背でした。驚いて振り向くと、真っ暗ななかで仁王立ちのカカシが睨んでいた。その途端、激昂の気にどんと圧され、びり、びり、と腕の産毛は逆立って、握られたように心臓が縮んだ。
「こんな時間に、何も言わずに一人でこそこそと、どこへ行く気。」
「起こしちまって、すみません。」
「噛み合ってない。」
あまりの空気の張り詰め方に、何が何だか分かっていないイルカはたじろいだ。
「……え……と……。」
「言いなよ。」
「流星群を、見に、行こうかと……思って……。」
「ハ?」
圧倒的にその場を掌握されて夏だというのに寒気がしたイルカは、的外れな流星群の説明から始めた。
「星が……たくさん飛ぶんです、今晩。」
「それが。」
「そ、それを、見に行こうかと。」
「……どこまで。」
「旧市街はちょうど切り立った崖が西にあるから、あの辺りにしようかと思っています。」
「旧町? 色街を抜ける気?」
目を細めたカカシは半信半疑で、イルカは一向悪びれていなかった。
「……えっと……。……一緒に、行きます?」
「一人で、本当に天体観測に出掛けるところだったって言うの。」
「はあ。」
「……、…………ふ……。」
項垂れたカカシの呼吸は、どこか苦しそうに乱れた。ぐらぐらと揺れた冷気はそれから溶けてなくなり、便所へ駆け込んだ彼の異変を受け止めたイルカは、足を通し終わっていた履物を脱いで後を追った。東に伸びる廊下を挟んで便所と風呂があり、突き当たりに洗面台が取り付けられている。
蛇口を捻りどばどばと水を流して口を漱ぐカカシの顔からは血の気が引いていて、柔らかな豆電球の明かりを受けても蒼いのをイルカが心配すると、
「問題ない。……俺も行きます。道中ちょっと話があります。」
と、言い渡された。
こういう事態にぶち当たるごとにカカシは、「予定は事前に連絡しておけ」、「真夜中に何も告げずに一人でいきなりどこかへ出掛けるな」とイルカにまめに言って聞かせたのだった。

そうして、総身の力で引き留めるが故に壊れて仕舞いそうになるカカシ自身もまた、イルカを必要としていた。イルカは、歪んでいるとは思わないまでも彼の一般的とは言い難い感覚の変形を感取していた。
ある平日の風呂上がりには、他愛ない会話の最中にふと笑い掛けると、体ごと位置をずらしてその微笑みを自身の正面に捉え直した真顔のカカシがじっと見てきた。「なんで笑ったの」と純粋に不思議がって見られる側は毎回、発信機能付きの精密機械になって観察されている気がしていた。
ある休日の午前中には、胡坐を掻いて雑誌を開いているところへすとんと腰を下ろすや否や、いきなり無断で人の手からそれをばさりと払い落して、すっきり空いた膝の上に勝手に頭を載せて寝転がってきた。けしからん、なんと暴力的で我が儘な所業かとそれに憤るのは、やられた方を弱い立場だと思い込んでいるからだ。実際は、イルカには、何十分も前から黙然と拗ねていた子供の逆襲以外の何物にも見えなかった。そんな彼が、内面生活に張りを齎してくれるのだ。イルカは畢竟この甘え下手をせいぜい甘やかして、その居心地に慣れさせてやりたくなった。


「カカシ上忍さえいなければ、俺の人生は――思い描いた通りのものだったんです。」
それは余りに色のない、腐り切った、窒息寸前の、上向かない世界だ。
「……俺は、貴方の言うように、一生誰にも恋はしないかもしれないですね。」
カカシを求め絡み付く心の糸は、恋が愛に化けたとしても敵わない、それよりも強固に人を支えもするし狂わせもする、動物の中でもヒトにのみ備わっているあの劇的な観念ではないかとイルカは思っていた。

焼けぼっくいに火は付かない。とっくにさらさらになっている灰は、枯れ木に花を咲かせる為にある。





7.

星がたくさん飛ぶと言う。それが出まかせでないのは、間の抜けた応答からみて間違いない。
「……ふ……。」
「……?」
「……、……、ふ……。」
「カカシさん?」
黙って出て行かれると、不安になる。
俯いたカカシはそう白状したかった。だのに、本心を音にしようとしても、どうしても喉でつっかえる。不慣れを乗り越えようとすればするほど胃からはむかつきが込み上げてきた。吸った空気が肺でうねるようで、息苦しい。不安になるという一言を伝えられないもどかしさが、すぐそこにいる彼の個性を覆い尽くしてゆく。そうして黒い記憶に仕立てあげてゆくから、現実感を必死で手繰り寄せた。手繰ると、ぶれない心像のイルカに帰着する。生き血の通う目前の実体は不確実だった。それで身体は緊張を緩めたが、昂ぶる精神は安堵していいのかと躊躇した。そのひずみが断裂を生んだ。己の内の不協和音にえずいたカカシは、とうとう堪え切れずに上がり框からやむをえず退がった。
イルカも、奥へと引き返して彼のことを気遣った。
体調が悪かったんですか。
水道水の滔滔たる流れに差し入れた指の腹の触覚と、背面の暢気な声の作用によって、カカシの今此処は一時的に安定した。辛うじて悪夢の再現は、阻止された。


星がシュウと走って消える。
「俺が、カカシさんと、こうして、この空を見ていることは偶然なのかな。」
きらきらする晴れた夜空をイルカが眺めていた。
「さあね。ただの現実だよ。」
「もう大丈夫なんですか。」
「……。」
「変な物を拾い食いするからですよ。」
「してないし。」
ゴロンと寝返りを打ち、白眼で上方を見遣る。
「アンタと一緒にしないで頂戴。」
大判の茣蓙も、蚊遣り道具も、イルカが用意したものだ。カカシの声は、疲れていた。
「俺はすると思ってるんですか、しませんよ、俺だって。」
「……。」
「付いて来なくても、家で休んでりゃアいいのに。」
「嫌だね。」
「強情だなあ。」
「……。」
深更の天に星が弱く強く、白く輝き、煙っている。
「ねえカカシさん。カカシさんの好きな星座ってどれですか。」
「特にない。」
「まあそうおっしゃらず。」
「じゃあ獅子座。」
「獅子座……、春の大三角ですね。」
「イルカ先生が好きなやつは、いま見えているどこかにありますか。」
「俺は、砂時計型のやつが好きです。」
それは刻刻と東の空から昇ってきている最中だという。
「星座というより、その砂時計の中にある星雲がお気に入りです。生まれたての星星の揺り籠なんですよ。」
イルカの語り口を聴きながら、無抵抗な耳の奥で「清清した」という幻聴がこだまする。

全てから解放されて、清清した。
漸く捨てることが叶って、清清した。

偏執の塑造した幻影がカカシを苦しめるのだ。
泣きそうになってむくりと身を起こした彼は、力なく伸ばした指先で好きな人の腕に触れた。
「一寸だけ……ぎゅってさせて。」
「……、発情したんですか。」
子供染みた台詞の前ではどんな言い分も勝ち目がなく、ましてお道化は無用の長物に等しかった。
「うるさい。イルカと一緒にするな。」
「オイ。そんな臍曲がりには指一本触れさせんぞ。」
「ああ、そうですか。」
カカシは構わず、ゆっくり抱き締めた。



湯豆腐屋でガイとは解散し、とぼとぼと歩いていた彼は、取り逃しはしなかった半年前の成功を胸でなぞっていた。
家は暗い。イルカは帰っていなかった。
霜月のオリオン座はまだ頭上に上がってきていない。あの星座が天辺に着くのが先か、恋人の帰りが先か。そもそも今晩、イルカは帰って来るのだろうか。これを考えるのが嫌で時間を潰していたというのに、カカシは結局しんとした家で一人装備を解いた。










-続-
8.〜9.>