単発text11_1
此処に眠る。

- 既往

宙の音色で這う蝸牛



―― (一) ――

1.

誇らしげに広げた翼で気流にのった鳶が、濁りのない夏の空をなめらかに東へと移る。
まばたいてパシリ、パシリと映し直すたびに黒い影はフワリ、スルリ、もいちどフワリと、上昇しては、小さく、高く、遠くなってゆく。そこここに満ちて膨れあがっている日の光が眩しい。美しい形象は途中で旋回を挟んだが、それはあくまでも風向きと呼吸を合わせる自信に溢れた、優雅な待機のひとときだった。
やまない力を読みながら、鳶はあちらの山へ。それよりいちだん高いところに浮かぶ白雲は、反対に西へ西へと流れてくる。
ダイナミックに気流の交差する高みからすれば地べたで蠢いているに等しい場所で、吹く風は人間の額にかかる髪を微かに揺らしているだけだった。

アカデミーの屋上のカカシは、鉄柵に凭れていた。
健康そのものに見える教師の鳴らす笛の、高い音が鼓膜を震わせる。眼下の運動場のその人は初夏にふさわしい汗を掻き、生徒に熱心な指導をおこなっていた。
ピ、という短い合図を待って豆粒たちは順ぐりに同じ動作を披露し、終わると、待機の列の最後尾に付ける。教師はサラサラと判定を記入して閻魔帳を下ろし、また笛を吹く。どうも操練の試験らしい。
その時だ。校舎へ入る扉が卒然、内から開けられた。カカシが顔を向ける。と、歳のころ十ばかりになる少年は、びくっと体を硬直させた。もっぱら無人である所が変則していたのだからそれも無理からぬことだった。


「やあ。」
銀髪の上忍は、そこへ間髪いれずにあえてこう続けた。「また会ったね。」
それから、少年の回れ右をしのぐ早さで、現実の格子を幾重にも嵌めてゆく。
「君、あの人の組じゃなかったっけ。」
そうしてやすやすと足止めを食らわした大人は地上を指差し、
「筆記試験だけじゃ飽き足らずに、実技までふけてたの」とさらに一重を追加した。
「……こんにちは。」
だんまりを決め込んでやり過ごそうにも迫りくる質問の檻にぺしゃんこにされてしまいそうで、逃亡の機を失した少年は建物の薄暗がりからおずおずと日なたへ進み出た。たっぷりした白地の上着が光をたくさん反射した。栗色の可愛らしい髪はくりくりとあらぬ方向に逆巻いている。
「君とは縁があるのかな。」
「……。イルカ先生と、知り合いなんですか。」
こわばる声が彼の内気さを仄めかした。

「情夫だよ。」
「ふうん。」
意味を解していないふうでありながら、その一語を受けた子供は「面白くない」と意外にも即座に、実際くすりともしないで言い返した。
目を白黒させるか、煙に巻かれてぽかんとするかのどちらかを予想していた人待ちの男は、示された反応がほかのどれよりも物足りなくて挑発的に訓示を添えた。
「後で調べな。」
すると、尻込みするかと思われた少年はそこでぎゅっと口元を一方に引き攣らせた。
「愛人なんですか。」
「……二つの言葉が完全に同じ意味を指すなら何故そのどちらもが消滅せずに並存していると……って、言い過ぎか、長くなるしやめにしよう。名前は。」
「え。」
「君の。名前。」
「……。」
黒縁の襟ぐりから垂れる、細長いひらひらを指でいじる男児の挙動に当初のためらいが再び表われた。そのうちの幾分かは、思いやりなくぱっぱと切り替わる会話に対してだった。なんにせよ下を向き、口ごもった彼は、さっきから思考を巡らすのに大忙しだ。


「ほう、用心深いんだな。けど、ここは自分の里でしょ。――俺は、はたけカカシという。」
「……、……蔵下。」
「ああ。」
にょろ、にょろ、にょろ、と縦に三つ波が連なっているようにしか見えない下手な字は、ク、ラ、ゲ、と書いてあったのだ。
「氏名欄の謎が、いま解けた。」
それは数か月前、なりゆきでカカシがアカデミーを訪れた日のことだった。閑散とした教室を覗くと、試験監督が舟を漕いでいる。たった一人いた居残りは、目が合うと物音を立てずに教室を抜け出してきた。そして戸口にいる来校者の前に答案を掲げ、託したあとはそれっきり。その子はサアサアと降る雨の音に紛れて、教師の知らぬ間に下校してしまったのだった。
行き合わせた前回がそうした妙な状況だったものだから、双方とも今日初めて口を利いた。
「ほら。こないだ君から預かった、解答用紙。」
蔵下は無論その時の人物を覚えていた。斜めにした額当てで片目は塞がれているわ、頬も鼻も黒い布で隠されているわ、人相が判然しない代わりに、覆面という裏返しの特徴が残るからだった。それに、彼にとっては先生の眠りを妨げたくなかった自分の意向をどういう訳だか壊さずにいた、少し不思議な大人でもあった。
とはいえ、それにひきかえこちらは違うと、彼は追試の日のことを持ち出されるまでは面が割れていないものと油断していた。強烈な印象を与える見た目でもなく、派手な事件も起こしていない。当然記憶していようはずがない。むこうにとっては見分けのつかない、大勢いるアカデミー生のうちの一人にすぎないことを疑っていなかった。だから、「また会ったね」というのが人違いした発言でなかった確証を掴まされた蔵下は驚いた。

「僕のこと、覚えてたの。」
「まずい?」
「味方?」
「え。」
「イルカ先生の、味方なの?」
「……そうだな。」
難問だ。
今度はカカシの頭がぐるぐる回る番だった。
「どうだろう……。」
味方になるって、殺さないことだろうか。死なせないことだろうか。
「敵対は……したくはないけどね。」
彼の思想を守ることだろうか。命を守ることだろうか。楯になりたいとは思うけど、そんな願望は答えにはならない。
「ま、心配には及ばないよ。イルカ先生、強いから。」
値踏みする目つきをちらと向けたものの、少年はまた、ただ「ふうん」と言った。


「あ、先生。お見通しって感じでこっちを見上げてる。」
「え、イルカ先生? お見通しって?」
「んー、俺が誰かと話してて、君はあそこには不在で、となると、ねえ。あ、背中向けちゃった。」
「顔、怖かった?」
「ウン。でもあの人いつもおっかないよね、眉間に皺寄ってて。だから、眩しがってたのか、怒ってたのか、俺にはよく分からない。」
「ほんとにイルカ先生のこと、好き?」
「さあ。多分。」
「うう」と蔵下は弱ったが、欺瞞して済ます大人の方便に比べれば心持ちはよほどすっきりしていた。「はあ、……教室に戻ったらお説教かも。」
「ああ、そうなるのか。マァ頑張って、て言いたいところだけれど、その時間さ、今日は俺に譲ってくれないか。」
てんから張り合うつもりのなかった蔵下は地上にたつ土ぼこりを柵越しに見下ろし、ちょっと検討して諾した。カカシは礼を述べた。運動場で整列した生徒に腹から声を出して授業のまとめをやっているイルカの、遠目ながらの推測はおおよそ当たっていた。





2.

半鐘が放課後を告げた。てんやわんやがおさまった学級に顔を出したカカシは蔵下をそれとなく逃がし、蔵下は要領よくその場を立ち回って去った。知能犯に共謀されてやれやれと首を振ったイルカは帰り支度を済ませ、相談事がありますと言うカカシを伴い通用門を出た。

ほっつき歩くような、しまりのない足取りの先方について行く。やがて四方を道に囲われた公園にふらっと入った。やたらと目立つ赤や黄の遊具が並んでいる。日はだいぶん長くなったが、たまたまここで遊ぶ子供はなかった。
ブランコの脇をてくてく過ぎる。天気の挨拶は交わしたが、本題はなおも不明だ。植え込みのぐるりにあるベンチには目もくれず、相談者は滑り台の梯子をカン、カン、カン、とのぼり始めた。よもや滑る気ではあるまいなと懸念していたら頂上の手摺に尻を付け、城門を守る見張り兵みたいに、といってもそれにしては頼りなげな猫背になって、入口の方面を見渡す彼は止まった。
「イルカ先生、どうしよう。」
大の男が、真っ青なペンキ塗りの滑り台を占拠している。
「どうしました。」
小さい段板にちょうど腰が収まったので、イルカは顎をおもいきり上げて反り返り、そうもたない視界で悩める相談者の一部をどうにか捉えた。面と向き合ったところで片や覆面なのだから、このさい声の届く範囲におればそれほど差し支えはない。
だいいち場所が場所だし、そもそもさほど深刻でないと思っている。といってもカカシは至って真剣なのかもしれない。が、当人以外にしてみれば聞き損もいいところで、臍で茶を沸かすのは毎度のことなのだ。
その題目も一本っきりしかない。胸のあたりをさする彼の相談とくれば、中身はイルカにはもうお約束のものだった。

「デートしてくれって言われました。」
「……どうしようって、どういうことです。」
身を入れて聞く気がなかったイルカは冒頭に裏切られて、滑り台のてっぺんを顧みた。まずこの手の話に出てくる役者は二人ぎりとのみ思い、おっとり構えていたのだ。ところへ初耳の、自分でもなく彼でもない何某が舞い込んできた。それに加えて、断る断らないの即断が下されていない口ぶりにかなり当惑した。
「心臓が、……。」
「どきどきしているんですか。」
「いや、なんだか……。」
生徒に調べておけだなんて偉そうなことを言っておきながらこの男は、屋上より遥か高空で生じている大気の複雑な動向が測り知れないのと同様、己のなかで渦を巻き、混じり合い、微細な起伏で織り成されている感情の状態をいまいち自認していなかった。
感情自体ならもちろんある。あるけれども、楽しさは倦怠の翳りを帯び、悲しみの源泉はたちまち湧き起こる闘志によって見失われ、喜びにはつぎのどんでん返しに備える冷静さが絶えずぴったり貼り付いている。ぽろぽろと崩れたあたりの悲哀と失意の抽出方法は未解明、失意と怒りの境目にしたって不透明だ。
つまるところ、感情のどれかが突出して胸がその一色に染め上げられることがない。良い気分なのか、悪い気分なのかくらいの別はついたが、ひとくちに良いといっても、嬉しい、楽しいといった自身の気持ちをきっちり収める箱の名札の適正を彼は知らずにいた。そうした彼の鈍感に、イルカは付き合っているのだった。


「なんだか痛むんです。」
「痛みますか。ははあ。じゃ、もしかしたら俺に、多少なりとも申し訳ないって思ってるんですかね。」
どうしてそうなるかといえば、イルカはカカシが好きで、カカシもイルカが好きなはずで、二人は事実上付き合っていると言ってよい関係にあるからだった。けれどもただ一点、カカシには恋をしている自覚がなかった。
「そうなの?」
「そうなの、とは随分な。だってカカシ先生は俺のことが好きなんでしょう。」
「多分そうだと思います。」
「……。」
「……ごめーん……ネ……?」
人が気分を害したということは観察から導きだせるのに、その原因を経験の角度から実感することができない。それで、心細そうにせめて場面に合わせた言葉を吐く。
そうされるとイルカは過敏に、相手が放散する不安の粒子を吸い込んで、強く出られなくなる。そして大目に見る言い訳を、「惚れているから」以外の理屈に求める。例えば教育者の顔になって、本人が分かっていない状態で叱っても好い結果は得られにくい、などと。
「まったく。いったい誰に誘われたんですか。」
「司書見習いです、図書館の。」
とにかく順序立てて事の全貌を拝むことにしたイルカはつとめて沈着し、経緯に耳を傾けた。

「じつは、貸出し不可の本をね、無理を言って、書き写すあいだこっそり持ち出させてもらってたんです。古い論文が底本に使っていた、その物があるって判ったものだから。どうしてもその原本にじかに当たりたくって。今回の件は、その時の見返りというか、袖の下としての、返礼なんです。」
(俺は、相思相愛だと思い違えていたのか。)
彼のイノセントな世界観に飛び込んだ形で告白を受け止めた。てっきりそうだと思っていたイルカは、己の短絡に歎息した。
「なんでまた、テメェの体を賄賂に使ったんです。」
「そんなんじゃないよ。頼む時に、いい思いをさせてやるって言ったの。具体的じゃなかったのがいけなかったんです。」
動揺も不愉快も抑えて聞くものの、こんな話を聞かされてにこやかになど振る舞えるべくもない。
この人は他者から自己がどう見られているのかという視点がすこぶる弱い――それがカカシに下したイルカの分析だった。










-続-
3.〜4.>