text02_4
此処に眠る。

視点:K 出会い

<9.〜12.
純潔デストロイヤー



13.

「イルカ先生。」
今日の接近は濃密過ぎる。
この人はどうも向かう所敵なしのようだけれど、その無敵の部分こそが頗る不確実で危なっかしい。対しているのが俺じゃなければ疾っくに相手の実力行使を食らい今頃は泣きを見ているに決まっている。と云うことは、俺にだけ無敵なのか、俺だから無防備なのか。否、そうではない、自惚れては不可ない。これは偶発の状況だ。彼が諾に転がるよう仕向けた此方のやり口と、それ以前に捕食現場に偶々居合わせることになる気紛れの働いた結果だ。人を懸想の土壺に嵌めてしまう彼の作為の有る無しが、読み切れないから危なっかしい。
あの魅力が人工的な罠であるなら好きにすれば良い。天然の魔性ならば始末が悪い。俺には関係のない事だから、その実はどちらであっても構わない。欲ばかりが先行する俺は只管、さっきの表情を独占したい衝動に襲われている。
「俺の、顔と名前……一致してたんですか。」
先生の纏う空気がグラリと揺れた。俺と遊ぶみたくユラユラしていた時とは違う。そう云えば、此方も彼を名前で呼んだのはこれが初めてだ。そんなことより、と先を急ぎたいところだが一寸待て、今の科白は聞き捨てならない。だって、まるで俺が見境のない男みたいではないか。
「俺は誰にでも優しくはしないよ。」
「ははあ、そうなんですか。」
「そうだよ。ねえ、先生は違うの。誰にでもそんな貌を見せるの。」
自分の気持ちが段々と駆け足になってゆく。色んな迂回路を、見逃して進んでしまう。
「そんな顔って、どんな顔です。」
ゆっくりとした先生の歩幅には慎重に合わせなければ、この夜がふいになる。頭の隅に控えている後詰の余裕では、それでも良いと思う。今なら未だ、駆け足で〈親切な人〉という門口まで引き返して行ける。

「ねえ、撫でられるのは嫌だった?」
そんなら、もうしない。もう一遍さっきの表情にさせたい気持ちはあるにせよ、口で拒むなら仮令その言葉が裏腹なことを掴んでいたとしても俺はしない。だから、折角融解している関係性を正しく凝固させようなんて無粋な真似だけはしないで欲しい。
「……いや。」
願った甲斐なくこの人は口惜しい軌道を採るのか。それでも退き際が肝心だ。
「そう、御免ね。」
「いや、そうじゃなくて。」
「ん。」
(引き留められたら、帰れないよ。)
相変わらず鈍臭くてボソボソ寝言を言うような喋り方に俺は取り敢えず安心する、そして微かな期待を抱く。

「すげえ気持ち良かったから……驚いたんです。」
そう告白したイルカ先生は自分の言葉に苦笑した。齎された内容が、俺の握っていた確信と一致する。
(ほら、そうでしょう。)
確かにさっきの先生は言葉通りの表情でいたもの。俺はアンタをその表情に、もう一遍させてやりたい。気持ち良かったのなら、二人の間に不都合は何もないと思う。そろそろ俺も感覚優位の世界に潜りたい。嫌がる事を、俺はしない。
「嫌がる事はしないから。」
陳腐な常套句に先生は意味深な笑い声を洩らす。流れに乗る御手前が鮮やかだ。
(なんてこった。)

俺じゃなければ、絶対に焦がれ死にしている。俺は昂ぶる神経に逆らわず、碌に正常の回転をしなくなってきた頭の後方に確保していた退路の橋を興奮の槌で叩き割り、背水の陣を布いて臨むことを決めた。
(優しくするから。)
ここで、ずっと装備した儘だった額当てを外して、目覚まし時計の横へ置いた。文字盤なぞ目に入らない。せいぜいあと一刻位は世界もこの部屋も静謐だろう。対照的にある狂騒は世界の隅々から俺の心臓に集中し心臓はそれを総て吸収して、破裂しそうなまでに膨張しているように感じる。
(ねえ、優しくするから、触っても可いかな。)
マスクを下ろして、唇を月の薄明かりに現す。先生の眼を見る。
(嫌がる事はしないから。)
先生に跨る。素顔をゆっくり寄せてゆく。先生は酒臭い。
(優しくするから。嫌がる事はしないから。触っても可いかな。唇を合わせたい。舌を入れたい。触りたい、触りたい。)
「イルカ先生、好きだよ。」
今は。

軽薄だとか不実だとか、世間の通念とは、昔っから反りが合わない。忍としての己に火影が与えるものを除けば、他人から下される評価になど何の価値もない、鬱陶しいだけだ。
その時の最重要項目。可及的速やかに好結果を得る為の最善策の選択。それが俺には大切だ。それに合わせて生きていれば、巷が振るう常識との衝突は付き物となる。己の規定する最重要と好結果の様相は必ずしも大多数の思うそれに合致しない。それでも一貫して、自分の価値観がぶれなければそれで一向構わないのだ、俺は。
「好き。」
惚れた訳ではないけれど、俺は誰にも惚れないのだから台詞だけで許して欲しい。
「好きだよ。」
恋した訳ではないけれど、今はこんなに口付けたい。舌を這わせたい。指を這わせたい。
「イルカ先生。」
(アンタが胡蝶になってる内に、何故だか解らないけれど、是が非でも貪り喰ってしまいたいんだよ、今直ぐに。)
若しも先生に好きな人が居たって、俺に恋人が居たって関係ない。俺の中では矛盾しない。先生に触る事は矛盾しない。純潔なんぞ犬に喰われてしまえばいい。





14.

「イルカ先生、好きだよ」と甘く囁いて抱き締めた。身体と身体を擦り合わせた。イルカ先生は、相手が男だからとかいう問題以前に多分、酔っていて立たなかった。俺も、縺れて焦って何だかだと詭弁を喚きながら駆ける己の感情に追い付けない戸惑いからか、イルカ先生が男だからか、良く分からない変な緊張にずっと付き纏われていた所為か立たなかった。挿れたい、挿れたいと先生の耳元に溢しながら抱き締めた。或いは上から降らせるように何度も言った。どの道挿れられない事は分かっていてもこんな時の心境なんぞ、それに尽きる。そのうち立つのではないかと唇を合わせ、舌を入れ、躯中をまさぐり、肌を合わせて幾ら揺れても悪足掻きにしかならず、結極俺は、どうしても立たなかった。

先生は、我武者羅に狂う本人には気付かれないよう密やかに、俺の肩を宥めるようにさすっていた。そんな風にして我慢強く、莫迦な男が諦める迄、鼻に掛かった甘い喘ぎを時折聴かせてはずっと付き合って呉れていた。そうして俺の言葉と行為を一度も否定しなかった。銀杏の木の上で先生を根気強いと思った、自分の感想を思い出した。相手の言葉を遮らない話の聞き方が好いという感想を思い出した。泥水の様な言葉から本意を丁寧に掬う声を尊敬したことを思い出した。唯、幾ら「好き」をあげても先生はずっと黙っていて、一言の相槌さえ返しては呉れなかった。夢現の世界から俺を映して幽玄な表情を浮かべる、そんな先生に挿れられない代わりに、「好きだよ」の台詞と共に抱いた腕にギュウと力を込める行為を何遍も繰り返した。突っ込んだり引いたり出来ない代わりに、「好き」を添えて腕の力をきつくしたり緩めたりした。これほど虚しい代替行為を、俺は他に知らない。


先生は気持ち良さそうなあの表情も沢山作って見せてくれたけれど、俺の男としての面目は丸潰れだ。なんという汚点。なんという失態。全身から血の気が失せて放心した。俺が出したのは赤っ恥の汗だけだ。情けなくて涙が滲む。俺は、本気で泣きそうになった。それを堪える為に先生の背中に額を押し付けて、また両腕に力を込めてギュウと抱き締めた。遣る瀬無い。立ち直れないかもしれない。もう今宵を限りに男は棄てて忍をのみ本分として生きようかしらん。
イルカ先生が俺の傷口になってしまった。それでも、弱みや秘密を握られた気はしなかった。この人はきっと他言しないだろうと思う。腹の底では木偶の坊だと嘲笑していたとしても。回した腕で背をさすり、俺を抱いて呉れた対応がそう思わせる。また、この人が吹聴するならそれはもう、俺がそれ迄の屑野郎だったということだ。それだけの事を仕出かしたという、俺自身の問題だ。
(もう好い、屑でいい、もう如何にでもなりやがれ。)

「カカシさん。」
未だ起きていたのかと思った。久しぶりにゴロンと自発的な寝返りを打った先生が仰向けになる。二人して仰向けになると狭くなるので俺は変わらず先生の左腕にくっ付く様に躰を横たえている。彼の方からまともな発声で名前を呼んで喋り掛けてくるのはこれが初めての気がした。声の質は、そこはかとなく凪だ。
「なあに。」
俺の方は、自分でもどうかと思う拗ねた口振りになった。自分自身に愛想が尽きる。子ども染みたと評したイルカ先生よりも己の方が余っ程幼稚だ。けれど、気を抜くと泣きそうになるのだ。
「カカシさんは優しいね。」
「ハア? どこが、……全然。」
俺は、優しくなんぞ出来なかった。優しくも何も、出来なかったのだ。思いも寄らぬ言葉に対し反射的にナーバスになるものの、打ちひしがれた俺の返事は尻窄みに終わる。失敗したもの。
(あ。俺への宛て付けか?)
それとも、先生にとってみれば男と擦り合って達する落ちにならずに済んで寧ろこれで良かったという意味合いか。思考が全く働かず、何が如何なのかもう良く解らない。
(優しいって何だっけ。)
「酔っ払いを、拾って、世話して、甘やかすところ。」
先生は事も無げにゆっくりそう話すと、欠伸を一つした。
「誰彼なしにじゃないって言ってんだろうが。」
俺は癇癪を起こした様な口を利く自分を最低に思いながら先生に抱き付いた。
「じゃあ、なんで俺は優しくされるんです。」
「好きだから。」
即座にこの徒な言葉を返した。満身創痍の状態で複雑な事は考えたくない。元より不真面目の俺には誰にどれだけ詰め寄られようともこの一言以外を用いる気など更更ない。
「どこが。」
「知らないよ。アンタの事なんか何にも知らない。」
八つ当たりなのは重々承知の上で、床で寝るべきなのは俺の方だと思った。それでも、先生からは離れられなかった。耳を塞いで背中を向けてしまいたいのに自分からは動けなかった。
「フハ、優しいけど嘘吐きだなあ。」
もう寝て呉れ。
(それで、朝起きたらいっそ全部忘れていりゃいいんだ。)
それにしても、この人は一体何を嘘と言うのだろう。似非告白を指しているなら、その通りだ。何にも知らないという箇所についてなら、あながち嘘ではないだろう。

「カカシさん。」
「なんだよ。」
「俺に、顔を曝してよかったんですか。」
「駄目だったですね。」
頼むから、もうそっと殻に引き籠らせておくれ。
「じゃあ、いつもは。」
「しないよ。」
「接吻、しないんですか。」
「顔を曝さない。目隠しプレイでもいいって人とします。」
適当な態度でそう応酬したが、俺の背中をさすって呉れた人に対しては失礼かと思い直した。先生の肩先に額を押し当てて、慰められていた感覚の余韻に一人で浸る。
「……嘘です、誰ともしたことありません。初めてです。」
先生はクハと噴き出して可笑しがった。
(もしかして、俺のことをあやしてんの?)
不思議と、そんな気がした。
(……初めてだったら、失敗しても仕様が無いよね。)
「全部初めてです。」
(だから、失敗したのも初めてなんです。)
先生は眼を瞑っていて、静かだ。
「ねえ、イルカ先生。」
「んー。」
呼び掛けてみて、辛うじて起きていることが分かったものの特に話題は浮かばなかった。
「……、俺ね、起きたら昼から任務なんだよ。」
「んー。」
「時間が来たら、起こして可いですか。」
「んー。」
「……、……お休み。」
いつの間にか夜は明けていた。夏は日の出が早い。最後にちょびっと饒舌になったイルカ先生は眠りの谷に滑り落ちた。

ねえ、イルカ先生。……、俺ね、自分が一等、好いと思ったんだよ。アンタがあんな処で捨置かれているくらいなら。アンタを、誰かが拾うくらいなら。俺にしておくのが好いと思ったんだ。介抱したのが俺で好かったでしょうと、朝起きたアンタに冗談めかして笑ってみせたかったんだ。朝起きたアンタが、俺に介抱されて良かったと思えばいいと……思ったんだよ。

取り残された俺は落ち込み過ぎて眠れなかった。それでも数時間は仮眠を取って起床した。冷めた理性で昨晩を反芻し、そして俺は自分をこう結論付けた。
「どうかしていた。」





15.

俺はいつも目覚まし時計が鳴る直前にひとりでに起きる。それは、一定時刻に限らず何時に設定してもそうで、大概は寝る前に確認していたその起床時刻に自然と目が開くのだ。俺の場合は熟睡していないのかもしれないけれど、この人はどうやらそんな自分とは違う造りをしているらしい。寝顔を覗くと活動している時よりも幼く見えた。多分、笑っていても何をしていてもクッと寄っているあの眉間の皺が今は刻まれていないからだ。
(……て、俺は阿呆か、そんな事は二の次にしろ。)
それよりももっと肝要な事がある。
(どういう顔をして接すればいいんだ、皆目見当が付かないぞ。)
額を抑え延々悩んだ末に俺は、気丈に、何事も無かった風を貫き通す作戦を実行するという意思を固めた。
一切を詫びないし、何に関しても口止めしないし、俺は全てを素っ恍ける。その儘この部屋を出て、部屋を出たら左様ならだ。それから以降は、銀杏の木の上と根元の時と同じ隔たりの、俺とこの人だ。
宜しい、打合わせは以上で終了、後は決行あるのみ、散!


布団からむくりと上半身を起こし他人行儀に、
「朝ですよ。」
と声を掛ける。彼は無反応だ。
寝台から出て又、
「起きて下さい。」
と言ったが微動だにしない。
シャワーを浴び、身支度を済ませて寝室に帰って来ても、そういった人の気配を察知する様子が全く無い。
「ちょっとアンタ、本当に起きないね。」
バックリと割けた傷口の所為で、俺は甘く囁いて起こすことも、優しく起こすことも出来ない。この人の存在そのものが傷の在り処を実感させる。そうして心臓が痛めば痛む程、俺は殊更険のある言い方にする。
「何時迄もそうやって寝ていられると、そろそろ本気で困る時間なんだけど。」

漸く彼が反応を見せ始めた。愚図愚図とした鈍い雰囲気に苛苛した。
予め準備していた背嚢を足元に用意し、寝台の縁に腰掛ける。昨晩此処に来た許りでうつ伏せに倒れ込んだ彼は酔っていたけれど、今うつ伏せに寝ている彼からは流石に酒も抜けているだろう。暗かった部屋はすっかり明るい。此処に腰を下ろした俺はあの時も今も正気で居る。ところが、その間には自分でも不可解な狂態の絶頂と、闇に葬り去りたい悪夢の様な最悪が挟まっているのだ。
俺は暫く頭を抱えて尽きない自己の不全感に苛まれていたけれど、覆水盆に返らず、と何とか気持ちを現実に切り替える。時計を見ると、集合予定時刻だった。出来る限りは眠らせて遣りたかったし、出来る事なら目覚めの気分が少しでもましであるよう自分からすんなり起きるのを待って遣りたかった。今となっては最早、前者の譲歩すら時間が許さない。
「いい加減に起きろ、もう集合時間なんだよ!」
可能ならば揺するなりして是よりかは丁寧に扱いたいとは思えども、ズタズタの心が己を庇って俺に手を伸ばさせない。触ることが出来ない。声に頼って起こすより他に俺には術が無かった。ようやっと、彼の眼が開いた。
「目が覚めたんなら動こうよ。午だよ、午。ああ、また遅刻だあよ。」
遅刻なのは己が傷心していたからで、なるべく長い睡眠を与えて遣りたいが為に自分が真剣に起こしていなかったからだ。心のどこかで少し申し訳無く思っていた俺は、暢気だった。次の瞬間寝覚めの彼が放った言葉は、瀕死状態だった俺の度肝を抜く。

「……どうも、……初めまして。」

体内に衝撃が走った。
(ひょっとして。まさか。)
「まさか、何も覚えてないんですか。」
と、喉まで出掛かった。が、一晩の経緯を詳らかにしようとすれば当然俺の失敗も蒸し返されて、自滅するのは火を見るより明らかだ。だから、その確認はどうしても口に出せなかった。それに、他の可能性だってあるのだ。俺は、そちらの方を口にした。
「寝惚けてないで、起きて出て行けって言ってんの!」
「……あー……、任務……ですか、これから。」
俺は、どうやら相手の身形や背嚢から推測しているらしい彼を寝惚けているのではなく何にも覚えていないのだと断定し、一抹の悲哀と多大な救いをここに得た。
「さっきから何回もそう言ってるでしょう!」
実際は、昨日の晩にそう言った。けれど、何も無かった事にしよう。赤の他人に徹しよう。寝惚けていない彼が本当は何もかも覚えているとして、俺と同質の気まずさなり何なりを感じているとして、それで素知らぬ風を装っているのであれば俺はそれに便乗しよう。帳尻を合わせよう。二人でいる時間の延長を許さない正当な理由が当方に有って良かった。彼が自身の置かれた現状を把握し始めたので、妥当なつれなさを演じて此処に居られる残り時間を告げた。
「あと十分経ったらアンタの状態がどうであっても、家の外に放り出して俺は行く。」
もう本当にそうするしかない時刻なのだけれど、叶う事ならもっとましな言い方で会話したかった。
「了解、一分で整います。」
夜の帳の中であんなにゆっくり唄を口ずさむ様な話し方でいたこの人も、明るい部屋の中ではその面影がどこにも無い。
(それでいい。)
一から十までを忘却の彼方へ投げ棄てるのだ。木っ端微塵の己が未練がましくてどうする。意思を殺すのは得意だろう。

「済みません、お待たせしました。完了です。」
あれほど酩酊して、俺に乗っかられ、空が白々と明けてから眠りに就いたにしては上出来だと思う。なかなか目覚めない寝起きの悪さが減点対象か。
(あ。)
もう一箇所あった。髪型が普段と違う。普段と云うか、昼間の、彼と違う。幾ら全体的にだらしない仕上がりでも何だかその一点は見過ごせない。俺の見る彼は必ず一つに引っ詰めていた。
「頭は。」
「え。」
「髪。括るくらいの時間はあるよ。」
「ああ、別に構いません、お気遣い有難うございます。」
畜生、伝わらない。
(代わり映えしない格好になってから外へ出ろと言ってるんだ。)
「……括るやつはどこへ遣ったのよ。」
「ああ! 済みません、そうですよね。探します、ええと……。」
そうですよね、がどこに対する同意なのかを考えていた時、自分のポケットに手を突っ込む彼の姿を見て俺は待てよと思い付いた。自分もポケットに両手を突っ込むと右から護謨紐の輪っかが出てきた。
「あった。」
「有難うございます。」
輪っかを摘む俺の右手をまじまじと見てくるものだから、何処にと聞かれたらややこしいなと思った。しかし、それを受け取った彼は何でも無い風に髪を括り上げた。

俺も意図的に距離を置いた接し方だけれど、彼の態度も大概よそよそしい。昨日はあれだけ奔放だったのに、今は「重ね重ね済みません」なんて凡庸な科白しか吐かない。その彼とも、もうお別れだ。家の前で俺は最後の挨拶をした。
「左様なら。」
本当は真正面から向き合い、目を見て、ちゃんと告げたかった。
「イルカ先生、左様なら。」
と素面の彼を名前で呼んでみたかった。
「今後はあんな風な大人気ない飲み方しちゃあ駄目だよ。」
と説教する資格は俺にはなかった。
居た堪れなくて、真実玉砕の俺は先生の「左様なら」が聞こえてくるより先にその場から退避した。


二年後、避け続けた彼に再会せざるを得なくなってから、漸く俺は不承不承、この大惨事の顛末を自身の初恋ではないかと疑ってみる気になるのだった。










終.
(2011.08)