text02_3
此処に眠る。
| 視点:K | 出会い |
| <5.〜8. |
| 純潔デストロイヤー |
9. 「アー、疲れた。」 大きな米俵でも置くように、ドサリと彼を玄関に落とした。割と雑に扱っても平気で寝ているのを見て、靴を脱いで、靴を脱がすと面倒臭いので彼の両手首を掴んで諸手を上げさせた恰好にして引き摺り、床を進む。寝台の脇に辿り着く迄に二度程、食台だか寝室の戸口だかに彼の身体がぶつかる音がした。 「んう」「だ!」と二回鳴いて身動いだ彼は、俺が痣の一つや二つは御愛嬌と許り一先ず彼の腕をうっちゃって己の肩をグルグル回し一息つく間に、有ろう事か誰も可いと許していない人の寝台に勝手にノソノソと這い上がった。 「ええ、一寸、誰が寝台で寝て可いと言ったんだ。」 「んー……。……、……けちんぼ。」 「ハア?!」 うつ伏せに伸びていた彼と、暗い部屋の中で目が合っていた。瞳も髪も漆黒だから夜の中にいる彼を見ると、その白目の光が他より際立つことを知る。あるいは黒目が虚ろだからかもしれない。そんな瞳に映る俺は、単なる黒い人影といったところか。 「誰が此処まで連れて帰って来たと思ってるの。」 「親切な人。」 目を瞑り、ウトウトとした声で彼はゆっくりとそう答えた。 「結構な道のり歩いたよ? 御前さん背負ってさ。」 (誰が背負ったの、俺でしょうが。) 「重いし。」 (その親切な人はどっかの誰かじゃない。運んだのは、目の前の俺でしょうが。) 「靴も脱がせたし。途中で一回、吐くのに付き合ったんだからね。」 何故かとても満足そうに口角をにゅっと上げて、んー、んー、と相槌を打つ様子が小憎らしい。 「水も買いに行って、大変だったのよ?」 彼がゴロンと寝がえりを打った。 「……それで、貴方も……忍なんだからとか、教師なんだからとか……言いますか。」 薄らと目を開けて、何処か遠くを見る様に天井を見ている。此の時、今まで持ち越されていた断片的な手元の情報は俺の中で組み合わされて一本に繋がった。 飲み会で見付けた蟠りの原因は、是だったのだ。屹度あの時、件の物言いを耳にしたのだろう。言われたのか聞いたのかは分からない。けれど、耳触りな言葉にぶつかった、その反動で今日この人は馬鹿みたいに飲んだのだ。 「言って欲しいんですか。」 反吐が出る程嫌うフレーズを、聞きたいと云うなら幾らでも言ってやる。言わずにいて欲しいなら、俺は言わない。でも、未だ発していない相手の科白を、決め付けているのはアンタも同じではないのか。 (何回言われてきたんだろう。) 彼の心に張られた予防線の太さに、ほんの少し切なさを覚えた。 力無く自嘲気味にフフと笑い、 「今なら言っても可いですよ。もう反応する元気、無いですから。」 と鈍いテンポで、唄を口ずさむみたいに彼が答える。俺は黙って寝台の縁に腰を下ろした。間を置かず再び開かれた彼の口からは此れまでの話の流れを寸断する全然関係ない所望が洩れて聞こえてきた。 「水、飲みたい……。」 酔っ払いの話には、脈絡もへったくれもない事を俺は学んだ。切ないと歩み寄った分の心について返還を要求したい。 「水ー……。」 小休止だと無視を決め込んだものの、寝台を占領して憚らない奴は「ウー……水……みずー……」と厚かましい駄駄を捏ね出した。チラと目を遣ると、物欲しそうな目を此方に向けている。その視線に熱が帯びていると錯覚しそうになるのは、彼の体中が酔いに陥落している所為か。 「ウウウ……。」 「ハイハイ、分かったよ、全く。」 警戒心がまるでない。 (…………、……警戒心?) 「水……、」 「五月蠅いな、今取って来て遣るよ。」 「便所……。」 「はあ?!」 「ウンー……。」 「どっちだよ。ねえ!」 「……水も飲むけど、小便してえ……。」 俺は大仰な溜め息を吐いた。 (警戒心じゃない。欠片も無いのは、遠慮だ。) 人差し指を伸ばし手首をクイと曲げて「あっち」と洗面所を示すと、愚図る様に唸り、起き上がるどころか手足を引いて丸まろうとする。仕方がないから彼の脇腹をつついて促してやる。 「もしもし、行くなら起きなさい。」 「無理……。」 「無理? 何が。」 「一人……。」 「御前なあ!」 (これが一本立ちした男の取る態度か?!) すると、この男はニヘラと笑った。揺らめいた空気がまるで、俺と遊んでいる風だった。何故だろう、憎めない。 同時に、灯りを点けずにいた家の暗さ加減に思い至った。俺は慣れた自分の家だから差し支え無かったけれど、幾ら夜目が利くとはいえ見知らぬ場所を移動するのに此の明かりの無さは不便だったか。 「明かりを点けようか。」 「いいえー、要りませんよー。」 彼は愉快そうな口振りで、相変わらず唄う様に、ゆっくりと喋る。実生活の上でなら有るに越したことはない灯りでも、此の際の解答としては外れだったらしい。一体どんな貌して人をからかっているのか、その表情の微妙をもっと確かと押さえたくなる。 「とっとと用足しに行くよ、ホラ。」 声を掛けながら立ち上がり、窓を開けて風を入れた。 「おいで。」 本当のところは、月明かりを部屋へ入れた。 10. 流し台へ両手を付いて、長い溜め息を吐く。仕合わせが逃げるから止した方が良いなんて助言を人から受けるけどそんなものは持ち物に元々ないし、それで現に事足りた生活を送っているから俺は今日も明日も何度でも溜め息を吐く。それで、今晩、人生で初めて酔っ払いの介抱をしている此処に於いてもう金輪際しないと決意した。連れて帰っても何処かその辺に転がって朝まで静かにしているだろうと見当付けたが、とんだ思い違いをしていたものだ。 (朝は何時に起こせばいいんだろう。) 明日、と云っても日付は大分前に変わっているから今日の事になるけれど、昼には任務で家を空ける俺は酔客を寝かし付けるのに要する時間や起床時刻等の見積もりを立てていた。そこへ、用を済ませた彼が項垂れ覚束無い足取りでヨロヨロと寄って来た。 何かと思えば、初めて使う余所の水道の蛇口を叩いたり上げたりして開けると水を出し、横から顔を突っ込んでザーザー流れ落ちる水を器用に直接ゴクゴク飲むだけ飲むと上げたり叩いたりして蛇口を閉めて、また手の甲でゴシゴシとがさつに口元を拭いた。首を立てた彼の、天辺で一つに結わえられた黒髪が緩んで最前まできっちりしていた筈の髪型は今見直すと半壊していた。俺は傷んで纏まらず、尚且つ逆立って生える自分の癖っ毛を棚に上げてその崩れっぷりに失笑した。 「頭、ボサボサ。」 指摘すると、アアーという喃語みたいな発声と共にガシガシ掻くから直るどころか却ってグチャグチャになる。最後の砦だった髪型はほぼ全壊し、彼にあったキリリの部分は遂に微塵も無くなってしまった。その己の動作を制御し切れなかったとみえ、ふら付いてト、トと後退すると冷蔵庫に身体の前面をビタリと貼り付け止まった、彼が突飛な事を口にした。 「風呂、入って可いですか。」 「風呂?」 我が耳を疑い思わず聞き返す家主には応えず、独り言を洩らしている。 「うう……、気持ち悪い。」 「そんな状態で、何言ってんの。」 「どんな状態でも、風呂には入るんです、俺は……。」 冷蔵庫にベタリと貼り付いた儘で、そう主張する。些かも可愛げがない。 「ふうん、そう。」 間合いを詰めて背後を取り、立てた人差し指を黒髪のあらぬ方向にピョコンと撥ねた一束の根元に差して、彼の髪型を不細工にしている因子を引き抜きながら許可を呉れてやった。 「じゃ、好きにしたら。俺は知らないよ。中で、出て来られなくなってても。」 そうしたら解かれた髪を掻き上げて、さもなければ痛む頭を押さえつつ、ウウーと呻き、人の忠告も何処吹く風で今度は本当に風呂場に消えて行ってしまった。呆気にとられていた俺はザーと出されるシャワーの音を聞いて、さっきした決意の念を更に強めた。 (介抱なんてするもんじゃないね。) 「それにしても、ちっとも従順な感じがしない。」 俺は取り上げた護謨紐を人差し指の第一関節に引っ掛け、クルクル回して弄びながら寝室へ這入る。邪魔な図体の一匹が退いたお蔭で毎晩通りの四角に広がる、敷布の白へ漸く自分の全身が上がれた。その際、護謨紐を無意識にズボンのポケットへ入れてしまった。もう片方の手で、枕元の額当ては写真立てや目覚まし時計が並ぶ頭上の、窓辺の棚へ置き直す。時刻は丑三つ時を越えていた。 (俺が梃子摺るのは、あの人が、あの人だからかそれとも酔っ払いだからか。) 棚と背中の間に枕を挟み上半身は起こした姿勢で足を伸ばし腕組みをする。 (掌握できない。……別に、しなくて可いけど。) 可いけど、果たしてどんな人物ならあれの手綱を握ることが可能であるか。水音のする方を、ぼんやり眺めた。散々の態で夜道に倒れ込んだ影が朧に浮かぶと、薄汚れた捨て犬がゆきずりの人間に手を伸ばされる情景が連想された。 捨置かれるより、拾われる方がましでしょう。拾い主が誰でも好いなら、俺が一等好いでしょう。 水の勢いが強められ一層激しくなったシャワーの音で俺ははたと正気を取り戻すと頭を振って、不穏な仮定を霧散させた。 11. ピタリとシャワーの音が止み、彼が風呂から無事に生還した音がした。 もう真っ直ぐに歩けない彼は、ぐったりと前のめりになって風呂場から壁伝いに此方へ帰還する。肩まである髪が柳のように両頬に掛かりその顔を隠している。寝台の近辺にボトボトと衣類を落として布団の中央を独り占めしている俺に手をヒラヒラやって、空けろと催促すると図々しく、彼は我が物顔に自分もまた上がってきて最初と同じ様にドサリとうつ伏せに倒れ込んだ。酒臭い。 「ウウ、天地が回る。……勝手にタオル、使いましたよ。」 「ああ、どうぞ。」 他人を泊らせる事が無いから、何の気も回らなかった。もうこいつには回してやる気など無くてもいいか、と思い始めているけれど。 「狭い。」 「暑い。」 彼の傍若無人振りは止まる所を知らない。俺の台詞に被せる様にそう声を上げるとモゾモゾと仰向けになり、上手く力の入らない指で何度か自分の上衣を摘み身動ぎしてそれを何とか脇の下迄たくし上げた、そこで諦めてしまったのか、首元に捲くられた分の布地が溜まっている。最早着ている意味があるのか疑問だ。 「どうしてもっかい着たのさ。」 「んー……、…………野郎の裸なんで……。」 (分かってるじゃないか。でも、残念だね。) 「それだけ肌蹴てりゃ、着てる意味なんてなーいよ。」 降ってきた見解を見上げるように、彼が顔の角度を変えた。久しぶりに目が合う。その瞬間に、ドキリとする。跳ねた心臓に彼の眼の漆黒が転写される、強烈に焼き付く。焦げた点は微小だけれど確かにチリと音を立てた。その開いた穴からは、出来心が這い出してくる。 「本当は? 脱ぎたいの? 暑いなら脱いでもいーよ。」 俺がそう嘯くと、 「……脱ぐ。」 と答えた。答えておいて、本当は如何でも好かった風にモソリとあちらに寝返り、彼はそっぽを向いてしまった。しかし御生憎様、俺もそれなりに此の言動の不一致には慣れてきているのだ。 「脱がせて遣ろうか。」 既に露わになっている背中に重ねて問うと、 「んー……。」 と声を出す。他意はない、と意識的にぞんざいな手付きで以て彼から上衣を剥いで、床に打ち捨てた。もうこの介抱を最後にして就寝だという気でいたのに、脱がせる間中俺から眼を離さない、彼の双眸を全神経で感じて、(もうこの介抱を最後にして就寝だという気でいる)と誤魔化していたい胸の焼け焦げた一点は、彼が見詰めてくる間中、チリ、チリと拡がり続けた。 この手で剥ぎ取り床に落とした、彼を拘束していた上衣から、解放された彼自身に視点を切り替えると、其処にあるのは今日初めてみる種類の眼差しだった。直ぐに酩酊の膜の奥に引っ込んでしまったけれど確かに一瞬、冴えた光が宿っていたのだ。 「何しても怒らないんですね。」 「……、」 刹那の眼光に気を取られていた俺は、痛い所を的確に突かれて言葉に詰まる。 何をしても怒らない。そうだ。今日の、この人に対する俺はまさにその通りだった。その通りだから、反論の余地もない。でも、本来俺は何をされても立腹しない人間ではない。それだのに、今日に限ってこんな酔狂に付き合い続けているのは何故なのか。 何のことはない、只の気紛れだ。そうだ。それが俺にとっては、一番無難な理由だろう。 「そんなことも、ないけどね。」 自問自答から導かれた歯切れの悪い応答を、泥酔状態の何処にこんな知性を隠し持っていたのかと思う実に落ち着いた雰囲気で彼は受け止めた。 それから、マスクで塞がる俺の口元に視線を固定した先生は更に驚くべき台詞を投げ掛けてきたのだった。声のニュアンスは、一つ前の澄んだ感じから彼の情の深さを反映した感じに変わった。 「お腹は、一杯になりましたか。」 12. はっとして固まる俺の反応に対して、彼は困ったように幽かに笑った。 (いつからだ。) 遡る記憶は、一っ飛びで居酒屋の階段の場面に着地する。 ――じゃあ、お腹は一杯ですか。 あれは、幹事の気配りから出た参加者への言葉ではなかった! マスクに視点を定めているのには、その言外の意味が籠められている。 (先生が、俺に対して言っていたんだ!) あの時点で、この人は俺を個として認めていたことになる。吐く程酔っていた癖に。 では、全体いつからだ。 (いつから判っていた?) あの時にはもう、この人の目に映る俺は蛙などではなかったのだ! (いつから俺と判って接していたんだ。) 今だって、天地が回る世界の中にいる癖に。俺は黒い影ではない! 「俺のこと、知ってるの。」 顔を近付けて上から窺うと、眠りに落ちる速度でゆっくり目蓋を下ろし、柔らかく笑んで話をはぐらかそうとする。 「親切な人。」 戯けた口調は元の、締りのない鈍臭いものに戻ってしまっていた。俺が翻弄されるなど、有り得ない。もどかしい。いい加減で茶化すのは止めにして、俺の名前を呼びなよ、知っているのだろう。今一緒に居る男が誰だかを、判っているのだろう。でもそんな焦燥感はおくびにも出さないで、催促がましくならぬように、あくまでも冷静に交渉する。 「俺の名前、呼んで御覧。」 「……。」 さあ。 「……。」 早く。 「……。」 呼んで頂戴よ。唄うようにおっとりと喋る、弛緩した今のアンタに呼ばれたいんだよ、ねえ。 ねえ、死ぬ迄打ち明けるつもりは無いけれど、俺は銀杏の木の上でアンタの一級の喩えを聴いていたよ。あの日の情景を彷彿させる声音なんぞになるものだから、さあ、そのギャップを測る尺度を秘密裡に持っている俺に聞かせておくれ。素敵に私的な声で、今、二人限のこの夜のうちに。 「……。」 イルカ先生。 スウと、目蓋が開く。 「……カカシさん。」 「ほら、矢っ張り知ってたね。」 今晩この時、出逢って初めて名前を呼ばれた。 「そんな眼で見てくるんじゃないの。」 そう注意した、己の声が甘ったるくなっていることを自覚する。自分の耳には大層気持ち悪く響くけれど、この人はこれしきのことで醒める浅い酔い方をしていない。それに、対象物を射抜く様に映す、この人の眼の使い方が悪いのだ。 「そんな眼って、どんな眼です。」 「熟っと見てくる。」 「はは、よく言われるけど、別に大して見てませんよ、実際は。」 相変わらず力無い笑い声を出し、何の緊張感もない様子でゆっくり喋る。俺はその仕打ちを心外に思う。 「一瞬目が合っただけの人にねえ、俺が見詰めたような印象を与えてしまう時が……あるみたいなんですよねえ……よく。」 「よく。」 成程、皆が皆嵌る勘違いなのかい、それとも今の俺を遠回しに揶揄しているのかい。アンタにとっちゃ、目前の俺はよくある事例の一つに過ぎないと言いたい訳かい。 「目力があるから。」 「フハ、それもよく言われるなあ。何なんですかねえ、大抵ボーっとしてるけどなあ。」 彼はゴロンと此方に寝がえりを打ち、うつ伏せになる。話題の目元には濡れた黒髪が掛かる。陰になる。彼はまた、目を閉じる。 「じゃ、何なら言われたことないの。」 俺は、心に思ったことをそのまま口にした。すると彼は口角をにゅっと上げてあの唇の形を作ってから、飄飄と言葉を返してきた。 「んー……。はは、けど、車輪眼の人に目の事を誉められたのは、初めてですねえ。」 俺の事をその他大勢で希釈したり限定的な口振りで扱ったり、無防備な半裸で間近に伸びている先生はこの距離を自在に操る。そうして、恐らくは人が掴まえたと思ったそばからスルリと逃げてゆくだろう。並大抵の人間は攻めあぐねるに相違ない。相手が理性を失わない限りは無敵だから無防備なのだ。 (殺り合いでもないこんな際に、女相手に力負けはないにしたって、それでも、そのうちに、いつか敗れる日がくるよ。) 「誰も誉めてないよ。」 成る丈優しく呟いた。俺は、我欲で強硬手段に出る優位者ではないから。 「直した方がいい、その癖は。」 そうでないと、色んな人間が勘違いをしてしまうから。 「ンー、自分じゃあ如何しようもないですよ。」 小五月蠅いとでも言いたげに俺が腰元に挟んでいた枕のところへ顔を埋めてきた彼は、 「それとも、一生下を向いて歩けって言うんですか。」 と、くぐもった音声で生意気に口答えした。「水」と駄駄を捏ねた時と同じ、子ども染みた所作につい絆されてしまいそうになる。 性の別も歳の階段も、純不純も賢愚の境目だって彼にとっては容易に飛び越えられる柵なのかもしれない。畢竟ずるに人間に奥行きがあり過ぎるのだ。俺じゃなければ、迂闊に踏み込んだ者は心を奪われ真っ逆様に落っこちたが最後、脱出不可能な恋に落ちる。だけれど、俺なら大丈夫だ。初恋や恋情といった類の芽を出す種は、捩れて大きくなった俺の地中には一粒として埋まっていないようだから。埋まっているのは気紛れと遊び心と軽い調教心、今晩だけ手に入れたいと思うありきたりなあの衝動からくる独占欲だ。 「アンタには無理だね。」 彼に向き直る体勢になり枕を抜き取ると、隠れていた右頬が見えた。俺はそっと、指先でその眼を覆う案配に張り付いていた黒髪を払って流した。その仕草から自然を装って髪に手を通したかったのに、手甲を装着した儘いたことに気付いて止むを得ずそれを外す手間を挟んだ。 幾ら何でもこれは気持ち悪いかという躊躇を胸に沈殿させた状態で再び、髪の中に梳くような手付きの指を入れてみた。予想に反して大人しく、彼はその芯の強い硬い黒髪を俺の手で触られていた。 「ふふ、撫でられるのは初めてですねえ。」 心地良さそうに、唄う様に彼が呟く。その口調が、どこまでが本当でどこからが戯れ言なのだかを余計曖昧にさせる。 「そんな声でそんな事、言っちゃ駄目。男は、こんなの初めて、に弱いんですよ。」 「ふは、カカシさん、面白いですねえ。」 (あ。) 俺の名を、また呼んだ。 「撫でて遣ろうか。」 彼は撫でられていると言うが、俺の撫で方は其じゃない。数いる自分の忍犬を誉める気分で、五つの指の腹を使って地肌を直接さする。そいつらの毛並みを触る力加減に変えて、黒髪に突っ込んだ素手をワシャワシャと動かした。 この行為も悠悠とあしらわれて済まされるのだろう。果敢無さをそうして心に滲ませた矢先のことだった。何が気に食わなかったのか、彼が、あしらって済ますどころか首を竦めて俺の手から逃げる素振りをみせたのだ。 (ちっとも、懐かない。) 「も、もういい……。」 「ん。」 怪訝に思いこの手で散らした髪を掻き分け彼の顔を見付けだすと、……何と謂うか……、イルカ先生は、表現を探す間に刻まれてゆく時が勿体無いと思う、そんな表情になっていた。 -続- |
| 13.〜15.> |