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此処に眠る。
| side K | 再会 |
| 蛍火スパーク |
1. カカシがイルカと出逢ったのは、忍者学校の片隅にある大樹の上からだった。と云っても、初めは彼の声音に、或は心に留まる様な喩えで以て児童を諭すその言に、耳を傾けていたに過ぎず、不図どんな眉目だろうかと興味がわいて太い枝からひょいと根元を覗いてみても、その時には黒い頭頂部しか確認出来なかった。後日、任務受付所で報告書を捌く人の声を聞いてあの時の教師だと気付き、以来顔を覚えたのだ。 それから、イルカが幹事を務める飲み会に、こうした集まりには滅多に参加しないカカシも珍しく姿を現したことがある。――和気藹々とした酒の席で言葉と杯を交わし合ったのを機に、カカシの方でのみ相手を知っているという其迄の一方的な関係から二人は互いによく知り合う仲へと発展した――と、順当に物事が運んでいればそうなっていただろう。ところが、とんだ問題が起こった。イルカが此の晩、酷い泥酔状態に陥ったのだ。御蔭で声を掛けたカカシの初めての科白は「吐いたんですか」になった。 その夜、何だかんだでお開きまで居たカカシは居酒屋からの帰り道、路傍でとうとう二進も三進も行かなくなったイルカを自宅へと担いで帰る。そこ迄は未だ良かった――酔っ払いを介抱するなり床に転がすなりして朝を迎えてさえいれば。しかし、彼を拾い家に持ち帰ったこの気紛れが災いして、カカシは心に深手を負う破目になるのだった。 どことなく危なっかしい相手の雰囲気に引っ掛かり、妖しい流れに身を任せていたら二人は肌と肌を合わせていた。正確に云えば、カカシがイルカに欲情していた。それでも、その事自体は最悪でもなく、少なくともカカシの人生の汚点になどなり得る展開ではなかった――其が事なきを得て成立していたのなら。 要するに、此の晩、男のものは役に立たなかったのだ。無茶苦茶な飲み方をして意識も朦朧としている酔っ払いは其で良いとして、素面で衝撃の事態に陥った側は完膚無きまでに打ちのめされた。混乱に塗れた自棄の末に放心するしかなかった男にとっては、正しく悪夢の一夜になったと云えよう。カカシの始終自分に付き纏う、己には何かが足りていないと思う寂しさは冷やされた空気の礫みたいにムワムワと心一杯占拠した、結果、彼は少年期の頃からもう随分長いこと持ち越している密かな劣等感に蝕まれ続けた。どちらかと云うと、使えなかったという事そのものよりもそこから派生するこの欠如感の方がカカシには辛かった。 カカシは己の親切心と出来心を恨んだが、午後からは任務だという予定の時間的強制力も手伝って取れた仮眠によってどうかこうか沈鬱さに区切りを付けると一切合財を忘却の彼方へとかなぐり捨てて心を強く持って生きてゆくことを決意、何となく気に留まっていた教師に対する興味はその日限りで止めにして今後は成る可く近付かないようにすることにした。そうして気持ちの方向性を定めると意識を切り替えて、何時迄待っても自力で起きる様子のない男を故意に強めた語気で起こした。 次の日といっても、時計の針は真上に差し掛かっていた。そこで、あくまでも泥酔の果て行き倒れた幹事と偶々同じ場に居合わせた上忍という筋書きで話を進める積りでいたカカシに対し、目を覚ましたイルカは、 「……どうも、……初めまして。」 と予想外の一言を放ち、既に傷付いた心を抱えてふらふらしていた男を更にくらくらさせたのだった。 どうやらイルカの方では眠りに就く前に起こった事の全てを自主的に奇麗さっぱり忘れているようで、一晩の内に急激に近付いた二人の距離は、陽が高く昇るにつれ裂けていったかのようにきっちり元まで戻って仕舞っていた。それはつまり、暗がりでは自由奔放で生意気だった、エロチックでどきりと鋭く、夢現の科白と仕草で人を惑わす、優しかったり我慢強かったりした彼はカカシと過ごした一切を、何もかも覚えていないということだ。勿論カカシは胸に滲んだ寂寥感は黙殺し、諸手を挙げてその巻き戻しを受け入れた。昨晩を二人して振り返り事実の確認作業をするなどという自分史上一、二を争う自己嫌悪甚だしいしくじりを蒸し返す様な真似を態態、自ら進んで行う程馬鹿ではないからだ。 カカシは玄関先でろくすっぽ目も合わせずに無愛想に左様ならと丈告げた。イルカとは、そんな解散の仕方で別れたのだった。 2. それから二年と九ヵ月、第七班を担当する上忍師となる迄カカシはイルカを避け続けた。彼との間柄は初めて一方的に知った木の上と根元との距離にすっかり戻ったのだ。けれども、例えばイルカが教師と兼務している任務受付所の窓口業務の時間帯に運悪く此方の報告書の提出がかち合ったりすると、目の前に立ち、彼に向けて言葉を発せざるを得ない。如何しても避けられないそういった場面ではその他大勢の中の誰かとして彼を捉え、その都度自然な無関心さで接した。 然うして日々を過ごすうちに、カカシは或るモヤモヤとした気持ちを常に持っている己に気が付いた。但し、常にと云っても四六時中それが表出しているのではない。継続して、潜伏し続けているという意味なのだが、次第に、其がひょいと出てくる決まった条件があることにも彼は行き着いた。則ち、稀に顔を合わせた際のイルカの対応振りが、カカシの心に有るその靄の入った壺を必ず刺激するのだ。 何の接点も持ったことが無いという体でイルカの前に立つ自分に同じく、窓口の彼も毎回極まってカカシを不特定多数の中の一人としてしか見ていない風に扱う。カカシは自ら無かった事にしたにも拘らず、何度目になっても自分と全く同じ距離の取り方を繰り返してくるイルカの態度に対しては無意識的に、身勝手な消化不良を起こしていたのだった。 あの日は未明の静寂に包まれ演じた失態から目を背ける素早さで彼の前から立ち去りはしたものの、カカシは次に何処かで対面する機会があれば、「その節はどうも」位の一言は向こうから掛けてくるのではないかと思っていた。だから喋り掛けられた場合における出方の様々については模索しても、相手の側から無かったことにされる場合など考えもしなかった。 考慮に入れられなかったその後者がしかし、現実の座を占めたのだ。カカシには二度と触れて欲しくない事柄の含まれる話題であることは確かでも、イルカがそんな風にあの晩についてたったの一度も言及してこないという事は気になった。 てっきり道端で寝ていると思っていた我が身が起きたら屋根の下にあった、という点では礼を言われてもおかしくはないだろう。覚醒してから把握した状況以外に記憶が無いと言うのであれば尚更だ。それだのに、何度会ってもイルカは任務報告書の提出に来た忍に必要最低限の事務的な応対をして終わるという姿勢を崩さない。 (もう忘れたとでもいうのだろうか。) 自分も普段はイルカの事など念頭にない生活を送っている日の方が多かったから、其は十分に有り得る答えと思われた。それに、何も礼を聞きたい訳ではない。毎回、今回もイルカが自分に話し掛けてこなかったという事実が流れ去ることなく心に堆積してゆくのだ。 (それとも、全てを覚えているから俺とは関わり合いたくないのか。) イルカの姿が視界に入ると芋蔓式に彼と明かした夜が思い出されて、現状の隔絶感に謎の焦燥を覚えた。カカシがその事を、濃密な一部を省いて後輩に相談したら其は恋だと診断されたのは半年前のことだ。 不意に目が合う時もあったがその時の視線の流れは不自然でなく、又頻度は多いとも少ないとも思わない。それも所詮、長い秒数を熟と見られたとして此方の印象に残るのは此方が勝手にそう思い込んでいる丈で、彼方には目が合ったという意識すらない――他の誰でもないイルカ自身がカカシにそう話して聞かせて呉れた、その事もイルカは忘れているのだろうか。ここまで知らん振りを貫かれているということは、きっと忘れているに相違ない。 そんなイルカと如何しても会話をしなければならなくなったのは、カカシがイルカの元教え子であるナルト達を率いる上忍師となったからだった。 3. 「あー! イルカ先生だ。先生ー、俺が来たってばよー。」 「おう、サクラもサスケも久しぶりだなあ。先生、会えて嬉しいぞ。」 「……ああ。」 「今日は。」 「イルカ先生ってば、俺が会いに来たんだぞ!?」 「うるせえな。大体オメェ、会いに来たんじゃなくて報告書の提出に来たんだろうが。」 「そうだった!」 第七班でD級任務をこなした午後、報告書の提出がてら場所の案内と手順を見せる考えで新米下忍三人を引き連れカカシが受付所へ赴くと、折悪しくイルカが処理をしている回に当たってしまった。カカシは、流石に今回許りは紋切り型の遣り取りで終わらないという予感と共に、自分をちらりと見て椅子を鳴らし立ち上がった彼がどんな挨拶をするのか待った。 「あの、初めまして。」 (一体、俺は此奴から何度此の台詞を吐かれるのだ。) 頭に血が上るよりも、むしろ急激にサアと目の裏側が冷たくなっていくのをカカシは感じた。 「此奴等を教えていた、うみのと申します。」 「…………、」 「カカシ先生、是から此奴等の事、宜しくお願いします。」 言い終わってぺこりと一礼したイルカは、返答に備えた顔付きで再び上忍師と目を合わせた。 むかむかした気分を抑え、カカシも相手に合わせた挨拶にしてみる。それはいかにも春らしく、口にすると辺りは微笑ましい光景めいた。イルカ越しに見た窓枠の中では、四角な空色に薄紅の花弁がひらひらと春風に乗っている。其をカカシは、極まって起こる己の苛立ちの感情をどこか突き放す様に、虚構作品には持ってこいの情景だと思っていた。 「初めまして。」 (じゃ、ないけどね。) イルカが莞爾とした。 その無頓着な笑顔に対する不満と不信が、抑制を上回る。 自分の感情がゆっくりと昂ぶって許容の上限線を超えてゆくのを、スウと鼻から空気を吸い込み乍らカカシは放置した。 ここで遂に、彼は其迄堪えていたものを一気に噴出させて仕舞ったのだった、静かに。 (何通りやる気だよ。) 新たな「初めまして」を聞かされた彼はぶち切れた。それは噴き出る火柱の様な熱く激しいものではなく、心は鋼ばりに硬直し、目蓋の奥底は触れば凍傷を起こすと思われる程冷ややかになっていた。 「……君達、今直ぐ其を提出して速やかに退室、解散しなさい。」 「キミタチィ?」 子ども等もイルカも疑問符を頭上に浮かべてきな臭い風貌の上忍師に目を向けたが、部下に報告書提出の体験をさせると彼は早々に解散の命令を下した。 「御覧の通り受付所というのはこんな所で、何時来ても年がら年中、二十四時間変わらず斯うして在りますからね。ハイ、今日は此処迄、解散。」 「何よ、カカシ先生。」 「怪しいな。」 「先生達は、大人の話があるから。」 カカシは元担任の顔から視線を外さず、強張った声でそう告げた。イルカは腑に落ちない乍らもそれで自分に用のあるらしいことを知った様子だった。 「次の集合は追って連絡するよ。」 「ええ〜。」 ナルトはもう少し其処に居たそうにしたが、 「ハイ御疲れ。」 カカシがじろりと一瞥して裏腹な剽軽さで聞く耳を持たない姿勢を示すと、拗ねた様に唇を尖らせはしたが駄駄を捏ねずに従った。 「仕様が無えなあ、分かったってばよ。」 イルカはあっさりと引き下がった元問題児の変化に注目していた。 「ほんじゃ、又な、イルカ先生!」 「先生、左様なら。」 口々に鳴く小さい背中を押して出入り口へと掃けさせた上忍師は纏う空気を一変させ、 「又な。御前等、しっかりやれよ。」 と、愛すべき元教え子達に大きな手の平を小さく振る教師と改めて長机を挟んで向き合った。 立ち往生の四年間に終止符を打つ時が来たのだ。 (この苛立ちに付ける名札など、恋でも何でも如何でも宜しい。) 今日という今日は、素晴らしい手腕で素知らぬ振りをし続けている此の男に一言言って遣らねば気が収まらない。 「初めまして、」 「は、」 「――じゃ、ないんですがね。」 「……はい?」 タン、と机に手を付いてぐいと身を乗り出し鼻先をずいと間近に寄せて上忍師は、唯一晒されている三白眼で困惑する受付の彼を鋭く射た。 (初めましてなんかじゃあない。) (アンタと俺は、二人ッ限で夜を越しているだろうが!) 「何にも覚えてないんですか。」 「ハア?」 この、イルカの聞き返し方が明らかに喧嘩を売っていたものだから、否、売り言葉に買い言葉というのであれば買われたと表現するのが相応しいのか、兎に角その態度にかちんときたカカシは部下を帰らせたことで包み隠さず不穏な空気を発し始めた。それでもこんな場所で公然と一悶着を起こす訳にはいかないので、不機嫌さを顕わにして物を言う。 「話があります。何時終わるんですか、此処は。」 すると、睨め付けられたイルカもイルカで、臆するどころか眉間の皺を深くして不快感を如実に表してきた。文句の字面こそ丁寧だがその実高圧的な絡み方をしてくるカカシよりも横目で壁を見ることを選択した彼の、言葉の端々で敬意が意図的に損なわれている。 「はあマア、短い話でしたら今直ぐ席を外しても構いませんが、長く掛かるようなら……そうですね、四十分程お待ち下さいますか。」 「なら四十分後に来ますから、其迄にきっちりと仕事を終わらせておいて貰えますか。」 「善処します。」 ギッと黒い眼を正面に戻して応じたイルカは四十分後、帰り支度を済ませて受付所の出入り口に立っており、時間きっかりにカカシは再びその階に現れた。 -続- |
| 4.〜6.> |