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此処に眠る。
| side I | デート(飲み) |
| 恋は存在して |
1. あとから思えば、二人が離れられなくなった夜があった。春と夏のあいだの、月の丸い夜であった。それから、五回も七回も、季節は廻った。 彼等は色々な思い出話をした。それらは、厖大な小品群から選ったようなささやかなものであった。此方が覚えていそうな場面の切り抜きを口にすると、彼方も具体的な訂正を入れられる位に当時を良く記憶しているので、話題に上った過去の情景は全部のピイスが揃ってあるジグソウパズルが組み上がるみたいに、何度でも、会話が軌跡を描く毎、変わらず各々の一枚に完成していった。 振り返る様々のうちには、あの時、つまりイルカとカカシが別個に付けてきた点が重なり、其から線を伸ばしていった共有の始点を持った時に纏わる話も無論あった。カカシが語りたがらず、イルカの記憶がごっそりと抜け落ちている遠い始まりの夜から三年が経とうとしていた、其の晩のことは、どちらの記憶にも刻まれていた。 「あの時、俺はもうカカシさんに好かれていると思っていましたよ。」 抑えた照明の具合が気に入りの飯屋の席で、イルカが言った。 「自意識過剰なんじゃなーいの。」 この店の、全席が半個室になっている点をカカシは気に入っていた。 「うへへ、左様ですか。因みに俺は、其の頃は未だカカシさんに惚れていませんでした。」 「アァそう。」 しばしば連立って訪れる店の片隅で、向かい合うカカシは何の感情も出さずに言い返した。 「俺も、あの時点ではアンタを本気で想っちゃいなかったよ。適当に遊んで、飽きたら捨てようと思っていた。」 それが本心であろうと負けん気の強さから出た台詞であろうと、昔日を眺める目をして述懐を聞いていたイルカは、勝手にほんの少し丈救われた気になった己を自嘲して口の端を上げた。あの晩の自分の、心の模様がどんなであったかをずっと忘れていないからである。 彼は確かに斯う思っていた。 (この人が傷付いたって知らない。) 2. 何があっても恨みっこは無しにいこう。 吾の上皮と遊んで満足するなら御自由に。 3. 此の心は、疾っくの昔に滅茶苦茶だ。 4. 四月だと云うのに此の日は肌寒く、電気がないと暗く感じる。空は一日雨催い。無機的に並ぶ窓の外は灰色をしていた。 「うお!」 忍者学校の廊下を歩いていたイルカは急に、何者かに左肘をぐんと引っ張られた。敵か味方か悪の組織か、はたまた宇宙からの使者が遂に来たか、すわ何奴と意識を集中させてみれば見知った里の誉が廊下の切れ目に身を潜めて居た。其処に階段がくっ付いてある分、廊下は奥へと四角に凹んだ造りになっている。 「カ、」 「どーも。」 「カカシ先生、でしたか。」 今日も今日とて眠そうな眼をしているなと潜んでいた来校客を見るイルカは、此処で生徒達に忍のイロハを教えている。講義終了の鐘が鳴り放課後を迎えた彼は、室内の戸締りをする日直当番を待って鍵を受け取ってから、その生徒とも教室の戸口で左様ならを済ませたところであった。生徒の全員と左様ならの挨拶を交わした彼は、カカシに今日はと会釈した。 潜伏していた物影から標的を捕獲しておいて、現れた方は口を噤んだ、音はそこで途切れて仕舞う、黙って見つめ合っていても一向埒が明かないので捕まった方から口火を切った。 「学校に、何か御用ですか。」 「いいえ。」 短く打ち消してから、平然とした態度でカカシは修正箇所を明確にした。 「貴方に。」 「私?」 「イルカ先生に会いに来ました。」 「……全体、何が起きたんです。」 「いや、」 声はふわりと和らぎ、 「世界は今日も通常の範囲内で動いていますよ。」 と請け合ったカカシが続ける。 「此処に、貴方は居るのかと思い付いたので寄ってみたのです。」 「へー……、……ウン?」 「近場に所用が有りまして。」 はあ、とぎこちなくイルカが頷く。自身の置かれた現状を理解するのに頭の回転が追い付かない。 「その行き掛けに此処の前を通ったものだから。」 「ええ、居りますよ。御覧の通りです。」 「居たね。」 「御蔭様で。」 「でも、斯うして現実に会えると、もう暫く、話をしていたくなる。」 実際には抽斗の奥から引っ張り出してきた紙切れを一枚々々繋げてゆく様な物の言い方を、聞いてイルカは女を口説くみたいな言い回しをする人だなという感想を持った。此の至近距離で小っ恥ずかしい表現を飾らず口にされると、勘違いは明白である条件しか揃わぬ者でさえ、変などきりに襲われる。 (こりゃ遊び相手も選り取り見取りだろうな。) 巷で耳にする評判や、己で見出した彼の種種の魅力に納得した上で、――吾には通用しない――、筋金入りの捻くれ者はそう心中で独白した。 (俺は、誰の食い物にもならない。) 「折角の機会ですが、私の方でも職員室に戻って片付ける用を抱えているんですよね。」 「諒解しました。」 「そう、」 思わず顔が綻んだ、 「諒解されました。」 イルカは一瞬、歩み寄ろうかと迷った。しかし、表情を戻した彼は、それじゃあカカシ先生また今度、失礼しますと軽く頭を下げる方を選んだ。思い切りよく職員室へ引き揚げようとするその動きを、機敏に半歩引いた足の運びとのっそり傾けた上半身で以てカカシが制す。 「会話の途中で何方へ。」 まごつく相手を物ともせずに、淡淡とした口調で彼は論じる。 「職員室に戻って片付ける用の有ることは分かりました、私の関知するところではないですし、とやかく口を出す積りだって毛頭ありません。」 それで、と肩先を壁に付け両の手はポケットに仕舞い込んだ姿勢のカカシは然もかったるそうに質問に移った。 「何時迄掛かるんですか、其は。」 「直ぐには……。」 どのくらい吹っ掛ければ相手の意気を挫くことが出来るのか、イルカは考えた。 「二時間、位ですかね。」 二時間か、微妙だなとカカシに呟かせた此の男の実情を明かせば、職員室で片付けたい事は片付けなければならない事ではなく、今夜は何の予定も入っていない。だから今直ぐに鞄を引っ掴んで一緒に帰ることも、何時間か後に何処かで待ち合わせてから遅く迄彼と夜を過ごすことも本当は御安い御用なのである。ところが、此方の都合に合うよう相手が試みる調整に譲歩することはあっても、自分からは気を利かせないというのが駆け引きに於ける彼の主義である。要するに多くの場合、イルカは鈍感な振りを通して済ます。元より独りで居るのが苦でない彼は、この習慣を余裕の裡に楽しみはしても齎される結果に左右されることはないのである。 「では、二時間後のイルカ先生なら空いていますか。」 「はい。」 見るからに傷んでいると知れる逆立った銀髪をわしわし掻き、ふむ、とカカシが俯いた。 目の前の上忍は人気が高い。但し、本人は間違いなくイクセントリックである。其が好い様に謎めいて映るのは最初の内だけで、一通りの時間を共有し終わると今度は同じ面が倦厭される素因になったりする。そうした裏表の構造が見えるイルカにはカカシの不思議を暴こうとする気なぞ端っから起こらぬし、又特別な力で引き込まれることも無かった。聖人を前にしたって他人に振り回されるのは御免だと直言し兼ねない男からすれば、奇人も変人も凡人と同列である。詰まるところ、イルカ自身が一筋縄では行かぬ人物に他ならなかった。 「イルカ先生に相談があるんですが。」 「何でしょう。」 「どう誘えば貴方、乗ってきますか。」 百戦錬磨の遊び人なのだか純真の極致に在るのだか解らない人の、感情を読み取りたくてイルカは唯一出ている片目を慥かめた。そしたらこの男にしては珍しく、自分の方が先に目を逸らしてしまいそうになった。 (そんな熱の無い瞳で見詰めてこないで呉れ。) 舞台は熱烈に言い寄る場面として形作られてあるのに、肝心の本人からは如何云う訳だか遣る気が丸きり感じられないのである。此の真っ二つの、塗り込められた群青と引き裂かれた猩々緋のような、諦観と修羅の狭間で立ち尽くしてゐるようなカカシの鮮烈な色相がイルカの核たる部分で残像になる。 「如何でも結構ですよ。」 肩を竦めた彼は、しかし相手の軍門に下るしかない己の形勢を認めたくなかったが為に往生際の悪い確認をした。 「俺は良いとして、カカシ先生。其方こそ、此処には何かの用向きの途中で立ち寄ったという様な事をおっしゃっていませんでしたっけ、お会いした時に。」 「ま、如何にか成ります。」 「左様ですか。」 飽く迄も引き下がらないというカカシの気配に、イルカは投げ遣りに応えた。 当人が問題無いと言うのであれば吾の方でも支障は無い。肚では困っていたとしても子ども相手の事でなし、余計な気遣いは無用。他人の事情には干渉したくない。イルカの頭はそんな風に回るのである。 「じゃ十八時半に。」 「ん。集合場所は。」 「通用門で。」 通用、という鸚鵡返しに、ぴんとくるのは現役の教職者だけであると気付いた彼は瞬時に見方を換えた。 「あの、旧の正門なんですが、」 「ああ。」 「今はあすこが通用門なんです。」 「成程。」 こくりと頷いたカカシは早速、任務の解散時に発する「散」を髣髴させる発声で「では」と残すと小さな旋風に変わって消えた。 5. 「急いで終わらせて来たんだけど、待たせたかな。」 「いいえ。実は俺も今来たところで、十分の遅刻者でしたよ。」 カカシは面白そうに片目を細める。目蓋に隠される色素の薄い玉を、物好きだよなあと思ってイルカは見ていた。 「雨に降られたんですか。」 「まーね。」 「……。」 「……。」 「何処か、道中で買われたんですね。」 隣の視線が己の手元に固定されていることに気付いて漸く、ああ是、とカカシは傘の話題に言葉少なに乗ってきた。 「濡れると不可ないから。」 「確かに、風邪を引いて仕舞うし、びしょびしょの身形じゃどの店にも入り辛いですよね。」 残務を片付ける傍らイルカは、無数の雨粒がサア、サア、サアと菜の花を、運動場を、里の建物を静かに打つのを職員室で聴いていた。至る所を万遍無く濡らした春の雨は四半刻前に遠のいたものの、今見上げる空には月も星も出ていない。彼は、雨が好きであった。 「皆にはおかしいと言われるんですがね、」 カカシはおかしいと言わない気がして、 「俺はそれでも雨降りが好きなんです。」 と、イルカは取って置きの逸話を一つ出してきた。 「家に帰る丈なら着替えりゃア良いし、ずぶ濡れでなけりゃ放っておけば其の内乾くでしょう。眩しくないし。」 人からはよく、輝く太陽の下が似合う等と形容される彼は、晴れの日が苦手であった。日光の明るさが刺さるみたいに痛くてとても目を開けて居られない時があると話すと、極まってそんなに真っ黒な瞳をしているのにと返された。太陽を直接見てるんじゃねえのかと小馬鹿にされることもあった。目が黒かったら眩しがっては駄目なのかと、毎回同じ主旨の返答に食傷してからというもの彼は、此の話を人にしなくなったのである。 本当は、屋内でも皓皓と明るい蛍光灯は好きではない。自宅では体から離れた所で小さく点した電球の、橙色に広がる余分の明るさで過ごす事が多かった。読み書きをする時は、昔から手元を照らす卓上照明を愛用している。忍者学校の教師仲間も三代目も、昔の彼女も一楽の親父も誰も知らない事である。唯一、両親のみが知っていた。 「それから、雨音も好きなんです。凡てを一つの中に包み込んでゆく様な感じがするから。」 久しぶりに雨と光を話題にしている自分の、胸の果てではカーン、カーンと警告の半鐘が響いていた。それでも、刺激の無い馬鹿げた話を容認するカカシの領域内に、イルカはうら淋しさを伴った心地好さを見出してしまった。すると、またこんな処に居たのねと柔らかく笑う母の声が天から降ってきた。少し切なくなって、深く吸い込んだ息を唇の隙間から静かに吐き出し心を整え、更に、 「それに、雨上がりの空気も好きです。澄んでいて気持ちが良い。」 と付け足してイルカは笑った。「吸い甲斐もあるってもんです。」 「無くても頑張ろうね、そこは。」 「カカシ先生は如何です、矢っ張り嫌いですか。」 「雨? 好きか嫌いかなんて考えたことも……ないけれど、任務の時は降らないで欲しいと思う事が多いね。」 「ぬはは、任務の時はそうかもしれない。言われてみりゃ雨天で良かったって経験なんぞ是っぽっちも無ぇや。」 「アァ、そーね。」 取り敢えず肯定し、一呼吸置いた。その間に手っ取り早く纏めた雨についての所感をカカシは発表し直した。 「今日の小雨も自分一人なら気にしない程度でしたが、貴方が濡れると不可ないと思って。」 「俺?」 「イルカ先生が傘を持っているのか否かが分からなかったんだあよ。」 「アー……そりゃ、どうも。」 ふへへ、と怪しい笑い方をしたイルカは貰った原文から、恐らく自分が大国の何様と入れ代わっても手荷物の雑貨に置き換わっても、寸分違わぬ調子で此の人はそっくり同じ言い方をするであろうというニュアンスを汲み取り、カカシ以外のものが濡れるのは不可ないと思った、と翻訳しておいた。 「イルカ先生。俺、雨の日が好きかも知れなーいよ。」 「うん? そうなんですか。」 「今日は雨だから。」 「はは、何だそりゃ。」 「ふふふ、こっちの話です。」 「ははは。」 「ふふふふ。」 何が食べたいですかと話し合い乍ら人通りの多い方へ、多い方へと四丁そこそこ歩いた辺りでぼそっと、 「歩くのが速いね。」 とカカシが言った。口元をマスクで隠す彼の私的な話し声は、くぐもっていて聞こえにくい。其迄の雑談でそちらに神経を集中させていたイルカは、歩幅になぞ気を付けていなかった。 「少し早足だったですか。」 「この分だと直ぐに飯屋街に着いて終いそう。」 「そうですね。」 即座に歩調を緩めたイルカは相槌を打つに留め、カカシの言葉から垣間見えた行間は読まずに置いた。 (お互い餓鬼じゃあるめえし。) 仮に今晩以降も付き合いが続くとして、どんな発展を遂げ、どんな形の終焉が訪れるのか、そんな事は分からない。分からないが、その時その場面で、カカシが泣いてもいいとさえ、此の時の彼は思っていた。 (この人が傷付いたって知らない。) (俺の心なら、疾っくの昔に滅茶苦茶だ。) 目には目を歯には歯をという精神でしっぺ返しを食らったところで、イルカは元から十分ずたずたになっている心の持ち主なのであった。 -続- |
| 6.〜7.> |