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此処に眠る。

視点:K デート(映画)

<4.〜5.
芽吹いて根付いた君への思慕は



6.

季節は梅雨に入った。か細い雨の線が無愛想の凡てを優しくシタシタと叩く。濁流は茶色にうねり、ドッドッと全身を鳴らしながら無口に犇めき合って下流へ走ってゆく。街角で、紫陽花が煙る。
あの人は雨降りも好きだと言っていた。世界が幽くしめやかな日には、俺の事は些とも好きだと言い出さないイルカ先生は今日この一日を機嫌好く送っているのだろうかと、不図思ったりする。

どじを踏んで作った怪我もそれから一月経ったこの頃では快癒して、全身はすっかり元通りになった。放って置いて危険な箇所もなかったし元々が病院嫌いなものだから、医者の世話になる積りなぞは毛ほども無かった。ところが、正式な手当を医療機関で受けるよう迫られて俺は、成り行き上しかたなくその件を承諾した。その時に、今度は映画を観る約束を取り付けた。
否、この口で築いた流れを成り行きと云って了うのは聊か無責任かもしれない。俺は、此の身を受診させたいのなら行ってやる代わりにそれ相応の見返りを寄越せという弥縫策を講じていた。

此方の狙いは病院へ行かずに済ますことだ。本来の望みが通るなら、実現困難な中身の方は適当で良かった。それは、彼にあしらわれることを見越してなされた交渉だった。それだのに、あの人は聞き返してきた。
「何か欲しい物でも有るんですか」と。
俺には目前の人が葱を背負った鴨に見えた。無警戒に尋ねるその貌は可愛らしくさえあった。欲しい者は、在るには在る。そうはいうものの、まさか真っ正直にアンタが欲しいとも答えられず、かといって具体的な要望など当然なくて考えを巡らせていたら、有りもしない話で誤魔化すなと、俺の返事を真に受けていない彼に区切りを付けられて仕舞いそうになった。
慌ててパラパラと捲った脳内の資料が古かった所為で、候補には鰻屋の二階が飛び出してきたりした。そんな中を引っ掻き回して何とか恋愛話での頻出単語を引っ張り出す。それで、時間切れ間際に咄嗟に出てきたのが映画だった。初々しい二人は大抵、映画館か団子屋に行く。



ところで、俺は映画を観る場合の下調べを事前にしない。流石に愛読書の映画化が発表された時ばかりは日程を調べたが、基本は行き当たりばったりだ。映画館は気が向いた時にふらりと立ち寄る場所であり、観る作品は待ち時間の短い物を選ぶ。よって選択の余地はさほどなく、当たりの回もあれば大外れの回もある。
「だったら今度の映画もその見方で行ってみましょう。」
イルカ先生がそう提案したから予め決めるのは題名より日時のほうにした、俺達は夜の九時を過ぎた映画館の前に立っていた。
座席に着けば他にも客は居るには居るのだろうけれど、入場口の付近は無人で、モギリの気配も無いに等しい。売店は終業していた。館の脇にくっ付いてある小さな喫茶店もこの曜日にやっていなかった。看板や足元に必要な分のみにポツ、ポツと絞られた燈火が、定休日の卓の上で逆さまの椅子を、硝子壁ごと大きなモノクロの絵のように見せた。

その時間にしか予定が合わなかったのだから、集合が遅いのは仕方無い。お互いに暫く言葉が出てこなかったのは、最終上映の作品の顔ぶれに何の期待も持てなかったからだった。豆球に照らされているのは二つ。
「『いちゃパラ』か、『第九之門』ですね。」
「『いちゃパラ』には成人指定が記されていますよ。『第九』は恐怖物でしょうか。俺は怖いもの見たさでこういう系統のものにも食指が動くんですが、カカシ先生はいかがです。」
「どっちでも可いですよ。」
「ふは。恐怖物には興味が無い上に、愛読書の映画版が気になるんじゃないですか。」
「もう公開初日に一日中入り浸って心ゆくまで鑑賞しました。」
「じゃ『第九』ですね。」
「そうなりますね。」
「ふふ。」
彼の厚い唇は、くにゃっと曲がった。悪戯のする顔だ。この口元の彼には用心しないと不可ない。
「何が可笑しい。」
「いいえ、別に。これ、面白いかな。」
「どうだろうね。」
「因みに、何も観ずに帰ることもあるんですか。」
「なーいよ。こうして足を運んだからには必ず、その時に上映されている作品を何かしら一本観て帰ります。詰まらな過ぎて途中から寝ているなんて事もざらにあるけど。」
「ハハハ、カカシ先生も存外無駄な時間と金の使い方をしてるんですね。」
「そうなのか。ふむ、そうかもね。」



映画は案の定すっきりしない結末の退屈な内容だった。それでも、その二時間は有意義だった。無邪気な餓鬼みたいに製作者の思うつぼのところで大きく肩をビクリとさせる彼が可笑しくて、俺の意識の大半は其方に向けられていたからだ。黒い映画幕に白い俳優陣の名前が主演から順に流れ始める迄そうして、慣れることなく何度も体を強張らせられる彼が不思議だった。

それから、近くの酒場で感想を出し合った。大きな照明が控え目に働く店内の丸卓の一つずつで、硝子皿に載る蝋燭の暖色が揺れていた。何よりも、脚が長くて座面の位置の高い椅子が俺にとっては有り難かった。
「全然先が読めませんでしたね。」
「え、開始五分で落ちが読めたよ。」
「またまたァ、ええ、法螺じゃない? そりゃ凄いですね。俺には意味不明な展開でしたよ。」
「アァ、置き去りの謎が山ほど有ったね。」
「そうそう、そうでしょう。残りの十五分で無理矢理まとめに入った感じがしましたよね。まんまと驚かされた瞬間は、所々ありました。」
「貴方は引っ掛かりすぎです。」
「前兆を感じて来るぞ、来るぞと待ち構えているのに、それが到来する度に結極驚いてさ、跳ねちまうんですよねえ。」
「俺は何回か、映画の演出よりも直ぐ横で行き成りビクンとなるアンタの動きにビクッとさせられたよ。」
「邪魔でしたか。」
「邪魔って……、いいや。よくも慣れない心持ちを貫けるなと、感心したくらいだあよ。」
「ははは、いやあ、お恥ずかしい。それにしても、話自体は何とも言えない映画でしたね。」
「微妙。イルカ先生は面白かった。」
俺がそう言うと、正面に座る彼が不意打ちで変な顔をした。
「一体どんな気持ちを表わしたら、そうなるの。」
そんな表情を作られたら思わず笑って仕舞う。
「もう一遍やって。」
「ヤダ。」
「折角……。」
「何です。」
「可愛かったのに。」
「冗談でしょう。」





7.

いじけた様子で乾酪を口に運ぶ彼に、
「そうそう、今日は貴方に御土産が有るんです。」
直近の任務先で買って帰った物を渡した。
先ずは片手に収まる寸法のオルゲルだ。この人の好きな曲が入っている。
「へ?」
彼は、胸元や腰周りのポケットをポンポンと叩いた。「ええ、どうしよう、俺、何も持って来てませんよ。」
「そりゃそうでしょう、俺は里の外に一寸出ていたんだあよ。それ、あげる。」
「アー……と、」
「その歌、好きだって言ってたから。」
「……有難う、御座います。」
「円盤も見付けたんだけどね。聴くには蓄音機が要るじゃない。」
「俺の家には有りません。」
「ウン。これだったら何処ででも、手の中で鳴らせるしさ。少女趣味だって嫌がられる可能性も考えたけど、俺はきれいな音だと思う。」
「カカシ先生は何かと珍しい物に触れる機会が多いですねえ。俺は碌に耳にしたことがないですが、家に帰ったら鳴らしてみます。嬉しいですよ。」
「そう。ま、要らないなら捨てて下さい。他にも、」
「一寸待って下さい。カカシ先生、その勿体無い発想は、考え物ですね。」
「は? ……はあ。イルカ先生の、無駄の基準が良く分からないな。」
「カカシ先生だって。」
「ん。」
「良く、分からないですよ。」
そう思うかい、本当に。
自分では、俺ほど分かり易い人間もそうはいないと思っている。

「映画館の座席でなら、凝っとしているんじゃないですか。同じ所に留まっているのは、嫌いなんでしょう。」
「アァ、俺を引き込むだけの魅力が其奴に備わっていればね。大抵は飽きてますよ。」
「寝にでも行ってるんですか。マァ良いや。他に、何でした。」
「ん、他にも有るの。」
続いて、透明の樹脂に蠍が閉じ込められている飾りの付いた鍵輪を卓の中央に置いた。「もう一種類有ります。」
こちらは人面模様を背面にもつ昆虫が、透けた塊の中に入っている。
「おお、凄い! どっちも本物なんですか。ていうか、いったい何個買って来てるんです、買い過ぎですよ。わあ、それにしても格好良いや。あ、成程、模様が人間の顔みたいですね。カメムシの種類かな。蠍の実物も、この昆虫も生まれて初めて目にします。」
この人なら喜んでくれるという見当は付いていた。その予想の外れなかったことが、俺の気分を良くさせた。
「この、蠍と一緒に入っている玉は何でしょうか。釣りで使うシモリ玉みたいな。」
「ああ、何だっけ、名前は忘れちゃった。実だってさ、植物に生る。」
「実かあ。へえ。」
其は民芸品の材料として有名らしく、肌身に付ける腕輪や身近な小物など、現地の生活の様々なところに使われていた。一粒の大きさは南天の実と変わらない。その地方では御守りの意味があるそうだ。
「赤も黒も、自然の色らしいよ。」
「え! 着色じゃないんですか。」
「うん。」
「こんなに鮮やかな色で、二色にはっきり分かれるなんてなあ。興奮しますね!」
「そうですか。」
「うわあ、この中から出して、手に取って見てえ。蠍も触ってみたいですがね。こっちの昆虫も、この模様の下の翅が如何なっているのか気になるなあ。広げたところが見たい。見えているのに触れない、この透明な固形がもどかしい!」
樹脂の表面に彼の爪が当たってコツコツと音がした。「明日の教室で、自慢してやろうかな。」
「大人気ない。」
「へっへっへー。」
こうして過ぎてゆくイルカ先生との時間は、経つのが早い。

「それから、此奴も。」
蝋燭の影がユラユラしている卓の上にオルゲルと鍵輪が二つ置かれている。そこへ鉛筆を一本、足した。天辺に象の飾りが付いている黒鉛筆だ。
「あと幾つ出てくるんです。」
「これが最後です。」
俺はこの象の鉛筆を、今回の土産のなかで一番気に入って買った。
灰色に塗った木を加工した、素朴な手作り品だ。目と耳と尻尾は真ん丸な胴体に筆で描かれている。球体のそれに安っぽい鉄の部品が四カ所刺さり、足に見立てた直方体がそれぞれ引っ掛けられている。同じ取り付け方で五カ所目にぶら下がるのは長い鼻だ。そんな案配だから、鉛筆を動かすと四本の足と一本の鼻がカチャカチャ揺れた。
「ホラ、可愛いでしょう。」
「可愛い、ですか。」


イルカ先生は目の高さに持った鉛筆を振って、象の足と鼻を揺らしながら喋る。そこに視点を合わせた黒い双眸は稍中央に寄った。
「俺のことも偶に可愛いって言いますよね。最近じゃ雨蛙を捕まえた時にも言ってましたよ、半眼の目付きの奴をね。他には、白い茸でしたっけ、道端に生えていた。あとは、そうそう、いつかの雑貨屋にあった不気味な置物。」
「全部可愛いじゃないですか。」
「それで、前から危惧はしていたんです。」
「何をさ。」
「カカシ先生の感性。」
「ハ?」
「失礼を承知で言わせて貰いますと、カカシ先生の『可愛い』という網に掬い取られたもの達は、総じて世間一般の『残念』な部類に入っているんですよ。」
「残念?」
「そう、カカシ先生の『可愛い』は、詰まり、『不細工』なんですよ。」
「不細工だと思うものを可愛いとは言わなーいよ。」
「ええ。ええ、だから、世間の目に『滑稽』と映っているものを、カカシ先生は『可愛い』と捉えて、そう言っているという訳です。」
「じゃあ、この象も不細工で滑稽で、残念だって言うんですか。」
「はい。」
「この野郎、はっきり即答しやがった!」
「やはは、悲しい哉、大体の人の答えはそうなるでしょうよ。」
イルカ先生曰く、貴方の言う可愛いとは世間にある剽軽で変なものを指している、と。そして、
「そうだなあ、でも、雨蛙はギリギリの線上にいるかな」と爪を差し向けるようにして開いた手の甲をヒラヒラ、親指と小指へ交互に傾けつつ肩を竦め、
「まあ、何方にしろあの個体は可愛くはなかったですよ」と言いもした。

「そんなら、アンタはどうなるのさ。アンタの言葉は全部自分にも撥ね返ってきてるんだよ、分かってんの。」
「さて、そこなんです。」
彼が寄席の噺家の如くハタと膝を打つ。「カカシ先生の感覚で以て可愛いと、あの、認定されたとでも言いましょうか、そう判断されたということは、要するにそれは珍妙だという現実をぶつけられたということなんですよ。だから、男だから嬉しくないとかいうよりも、そういう意味に於いて貴方に可愛いと言われると非常に気力が殺がれるんです。」
「お前、その内ぶっ飛ばされるぞ、俺に。」
「ひへ。そんな奴のどこが可愛いってんだか。」
吹き出した後で尖らせる口先を眺めていた俺は、唇、と浮かんだ回答を冷えた水と一緒に飲み下した。何だか気持ちの悪い答えだという気がしたのだ。
「どうせ俺は変人だあよ。けど、アンタにだけは言われたくなあいね。」
「おっと、そうきたか。」
親指と人差し指の腹で鉛筆をクルクルと回して象の足と鼻をカタカタ鳴らしながら不服がる、彼が呟く。「おかしいなあ。」
「ほら、ずっとそれで遊んでるじゃない。段段可愛く見えてきたんじゃないですか。素直になりなさい。」
「洗脳しないで下さいよ。でも、何だか愛着が湧いてきそう。」
「当然です。其奴にはそれだけの魅力がありますから。」
「言い包めるのが上手いですね。」
「言い包めるも何も、そうなんですよ。」
困ったような笑みを浮かべた彼は、またお礼を言いながらあちこちのポケットに卓上の品々を小分けにして収めていた。彼は、色々な笑い方をする。そのどれもが俺の胸骨の辺りを灼けた感じにする。痛い。





8.

俺はまだ、一線を越えた動きは何もしていない。唯、会っている丈。一緒に居る丈だ。何も起こってはいない筈だ。まだ同じ時間を過ごした丈だと言い張れる。二人の間にやましい点など有りはしない。
知り合いにだって土産を渡すくらいはする。友人が好きな歌の一曲くらい覚えている。気が合えば映画くらい、一緒に観ても良いだろう。そうして笑ったり語り合ったり、和合して時間を過ごしている丈。其れ丈だ。
俺は今夜も潔く左様ならと声に出して、彼の背中が視界から消えてなくなるのをずっと見ていた。
君のその背に訴ふ。俺は優しいよ。たっぷり甘やかしてあげているだろう。



イルカ先生は、俺の事が好きなのに、そんなことはない振りをする。気付いていない振りをする。知らない振りをする。気安く誰にでも拾われるくせに、この手の中へは中々落ちて来ない。俺を振り回そうとする、悪巧みに次ぐ悪巧み、手に負えないと音を上げ退散するとでも高を括っているのか、そうであるなら見縊らないでもらいたい、その心を回収する見込みは――大有りだ。

君のその背に訴ふ。
「淋しがり屋。」
畢竟、彼は天邪鬼なのだ。



面倒臭い性分は相手にしないという俺の内的な法則を崩壊させてゆく、彼の力は快い。これは空前絶後の執心だ。惑溺したのか、制御が不能の夢にその人の出てきたことさえある。
現実には知る筈のない角度から見た夢の中のイルカ先生は、揺れながら俺に快楽を与えていた。肌に貼りつく黒い髪が俺の心臓を早くした。滲む汗と鼓膜に響く息遣いに全神経を持っていかれると同時に、俺は敷布の上で一人切になっていた。眼が覚めたことを把握し、夢だったことを理解する。
そもそも俺は滅多に夢を見ない。偶に見る夢は決まって胸糞が悪い。悪夢以外を見たのは相当久しぶりのことだった。

他人の目には俺のそうした部分が実年齢よりも枯れていると映るらしい。同じ内容を、老成しているや落ち着きがあるといった言葉で表現されたこともある。それを達観しているとして憧れを含んだ言い方で良しとされることもあったし、いかれているとして悪し様に言われることもあった。周りがしている話との溝を思うに、食欲も睡眠欲も性欲も、確かに人より薄いのだろう。
それでも、俺にも欲はある。無論、自分では溢れているとも下回っているとも思わない。なのに、それについて感想を持つようにと場面が強要する都度、俺自身にはその不足分がいかにも欠陥であるようにしか受け取れず、相対的な落差はそのまま劣等感の鎖に繋がれていった。

とは云え、俺だって只の生身の人間だ。煩悩を持って生まれてきた。但し、極端に限られた極狭い範囲の僅かなものに対して集中的に、深く深く向けられるから、それが他人の目には届き難いのだという自覚はある。事実、大方の物には何の関心も執着心も湧きやしない。
加えて、俺の気に入り方は徹底的だ。他人にとってはガラクタ同然の状態でも、俺は最後まで手放さない。形が損なわれても質が劣化しても、一度好きになったものは死ぬまで好きだ。飽きないことを、好きと言う。

君よ。かなしきその背に訴ふ。
駄目になっても離さないよ。
だからどうか振り向いておくれ。

イルカ先生は、今晩も振り返らない。
淋しがり屋。天邪鬼。薄情者。黒い羽根を生やした策士。可愛い人。
夢で会いましょう。










終.
(2012.08)