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此処に眠る。
| - | 共存 |
| 黒い湖とはぐれ羊 |
1. 柔らかい日差しに包まれた窓辺の席も、大方空いていた。人通りが絶えない太い十字路の一角にあるとはいえ、稼ぎ時を過ぎて二時を回った午後の大衆食堂は閑散としている。往来に面した空席と迷うこともせずに、見回した二人連れの客は敢えて最奥の隅を選んだ。 猫背をはじめ印象的な要素を他に幾つも持ち合わせている男は、がらんとした辺りを大股で突っ切ると、店内中央から背を向ける位置を取った。 続いて、小一時間前に起きた余韻を引き摺りこの片隅に辿り着いたもう一人が、壁側を占める。北風の吹く表では連合いと同じく体を縮こまらせていたこちらの背筋は、高い鈴の音をカランと鳴らして暖かい屋内に入った際に、真っ直ぐに戻った。そして自分を抱くように組んでいた腕を解き、脇の下に夫々挟んでいた手を口元で合わせると彼は、揃えた指先へハアと息を掛けていた。 朝のうちは空色が白濁しており、強い風がカタカタと窓硝子を揺すっていたらしい。 この季節に似付かわしい白い息を吐くのは片方だけで、背中を丸める銀髪の外見は春夏秋冬を通して変化が見られないものの彼等は、二人して寒い、寒いと代わる代わるに言いながら、よく連立って歩く道を今日も来た。今が冬であることを確認し合って通り抜けた並木道で、イルカはそのことをカカシから聞かされたのであった。 葉の散りきった枝枝は、若しも晴天がだらりと溶けて落ちてきたらその澄んだ青を刺して、残さずチクチクした網で引っ掛けてしまうのではないかという形状に張られていた。根っ子は冬眠することもなく水を吸い上げ、すっくと立つ幹は雪に晒され霜に耐えて、春の来訪をその場で静かに待ち続けている。 隣からの批判を免れ得ないことは目に見えていたから、イルカは不評の欠伸を噛み殺して植木の横を一本ずつ過ぎながら、どの樹木も吾より余っ程立派だ等と思っていた。 太陽がとっくに南中したあとに漸く「うん」と唸って蒲団から這い出た男がしたことといえば、鏡の前に立ち、洗った顔に剃刀を宛てて、伸びた黒髪を手櫛で梳き一つに高く束ねたくらいである。豊かで強い髪質が毛束を上向きに突っ張らせる。 暇潰しに開いていた本をほっぽり出して立ち上がり、洗面所と台所の境の木枠に凭れ掛かったカカシは半ば感心した様子で後ろから話し掛けた。 「放っておいたらずっと寝ているよねえ。」 「腹が減って目が覚めたんです。」 不機嫌な低い声を出して寝惚け眼を擦る顔には、不本意の三文字が書かれていた。それを読んで呆れるカカシにイルカは、耳を疑いたくなる提案をのろのろとした。 「飯。食いに行きませんか……ああ。」 それも、語尾は大きな欠伸に繋がっていった。尚も眠気は残留しているらしい。喉の奥が見える程に大口を開けて豪快に表情を崩す姿は、家の主に、犬や猫にある動物臭さを感じさせた。 「よくマァ起き抜けにそんな台詞が出てくるもんだな。」 「食欲は勝者ですよ。睡眠欲に打ち勝った。称える意味で、何か食べて上げようじゃありませんか。」 「あの、もしもし、此方の言葉は理解出来ていますか。俺の方はさっぱり駄目です、毎度のこと乍ら。」 「欲に塗れているんですよ、俺は。欲望塗れで悪いですか。」 「欲望塗れで悪いより何より、その態度の悪さを先ず如何にかしたら。」 「……。」 狭い幅でさっさと擦れ違い、奥の間でごそごそと行李の中を引っ掻き回す、出掛ける用意にしか気を割いていない素振りの背中に投げ掛ける。 「無視か。」 頗る寝起きが悪いという欠点を持つ男は、突っ慳貪に応じた。 「口を開いて言葉を発している分の努力が認められないのであれば後は閉ざすのみですよ。」 「なんでそうなるのよ。」 「寝起きだから。」 彼にとっては、睡眠とは(起きていなくてもいいのだ)と気を緩めるだけでいつでも、またいつ迄でもそうしていられる状態のことであった。だから、眠気というものが段段大きくなってきて、という一般的な表現は全然感覚に副わない。どちらかと云えば軸足は睡眠時のほうにあり、それでいくと、覚醒時とは(寝ないように)と絶えず気を引き上げている時間であった。つまり、意識を持っている時はずっと、そういうものだからという種類の無理をしている。起きているというのは全く骨の折れることだと思うところを、 「……カカシさん。」 と切り換えて、後ろを適当に付け足した。「何をしていたんですか、ところで。」 「イルカ先生がいぎたなくゴロゴロと寝返りを打って午前中をドブに捨てていたあいだ? 読書。それも、もう大分前から飽きてる。」 「貴方も寝りゃ良いのに。」 「何それ、詰まらない。」 「アァそうですね。それじゃ、朝から何か食べましたか。」 「食べる訳ないでしょう。」 「ハァ、ないと言い切られるのも困りものですが、だったら貴方の胃袋も空っぽでしょう。」 「それより、暇。」 「アー……左様ですか。丁度良いや、出発です。」 彼等はそうして、カカシの宅を出たのであった。 一月程前に、部屋の片付けを手伝う目的で此処を訪れたイルカはそれ以来、カカシの私的空間に居付いていた。 献立表から面を上げると、頃合を見計らった店員が注文を取りに寄って来た。それからの遣り取りの全ては専らイルカが受け合った。 己の正面で良く知る声が発した内容を、左上方から赤の他人の声が復唱している間、覆面の男は凝っとしている。その人物の声を聞くこともない店の者からすれば、それは宛ら人形の静かさであった。 接客をこなした妙齢の娘は調理場へ注文を伝えに下がる。暖簾を潜った襷掛けから卓の上に、イルカは視点を戻す。するとカカシはもぞもぞと動作を再開させた。ところが、出来立てほやほやな料理を運んで来る係の、小柄さが分かる足音がパタパタと近付くと又、配膳がなされる間中、途端に彼の生気は静物の如く鳴りを潜めるのである。 其の一部始終を面白く眺めるイルカは、ひょっとすると彼を石膏にさせる起動装置が予め、来店の日時と座る席を見越して床の一部に仕込まれているのではないかという冗談を思い付いていた。しかしそれを本人には披露しないでおいて、一人で其の出鱈目を楽しんでいた。 一連の流れは、両人にとって通常の運びである。 2. 「あの子、可愛いですね。」 「誰?」 「今の。給仕の子ですよ、ほら、卓に料理を置いて行った。」 「一々顔なんか見ないよ。」 「ちぇ、また見逃してる。茶でも注ぎに来てくれたら、其の時こそ一目見てみて下さいよ。頂きます。」 「結構です、見逃したんではなく端から注目してないの、イタダキマス。」 つれなく断る彼の前に置かれたのは、ポタージュの浅い皿一つ切であった。匙を渡したイルカは縦長の同じ箱から箸を取り出して豚カツ定食を食べ始めた。黒塗りの四角い盆の上には大皿小鉢とお椀に、丼が並んでいる。 「先生は毎回俺に向かってそういう事を言ってくるけど、そんな報告は求めてないから。」 「やあ、しかし、ちょっと若かったですかね。」 「くどい。」 「すげえ俺好みだったのに。」 「人で無し。……起きて直ぐの腹に、よくそんなに入りますね。」 「直ぐったって、かれこれ一時間は経ってますよ。カカシさんこそ飯を抜いて、それでよく平気でいられますね。」 「生きてる限り腹は減るよ。」 「それにしては、貴方がそう言っているのを聞いたことがない。」 「マァ、気にしませんから。」 「うむ?」 「空腹の信号は偶に頭から下りてきますよ、でも……きたところで、だからなんだという感じでね。」 「飯だ、になるよう回路を組んで下さいよ、発信者もさぞかし甲斐の無さを嘆いていることと思います。俺なんか目が覚めた一秒後からこってりしたラーメンでも、なんでも来いってなもんなのに。」 「聞いただけで胸焼けが起こる。」 「霞でだって膨れそうですね、貴方の胃は。」 これまで他人の生活の有り(よう)様には口を出さないできたイルカは、誰の私生活に関しても異を唱えた例がない。それだのに目の前の人に対しては色々のことを――差し当たり食生活からでも――見直すべきであると、近頃苦言を呈したくなっていた。 蓋を外して味噌汁を手にした、其の時に湯気の向こうで、何の気無しに楽な姿勢をカカシが取った。それを見咎めたイルカは心持ち硬い声を出す。 「カカシさん、足。」 立てた片膝に肘を載せて、彼が頬杖を付いていた。其の踵は椅子の縁に引っ掛けられている。これには流石の不問主義者も黙ってはおれなかった。 「足?」 注意を受けた方は、預けていた頬を手の平から離して首を起こす。 イルカは、一先ず個人的な暮らし振り云々の領域に収まらないこの問題に決着を付けることにした。 「前にも言いましたが、その座り方は止めて下さい。」 「如何して。」 それは悪気のない口調であった。そして瞬きをした彼は、神経を集中させて異国語を聞き取る顔付きになった。 カカシは、椅子という家具を使うのが苦手である。もっと彼寄りに情状を汲み取って、苦痛であると言い換えても可い。 着席しても無意識に、地べたで憩うのと同様の姿勢を座面の上で作ってしまっている。両足とも上げてしゃがむような格好であったり、胡坐を掻いていたり、その詳細はときによって様々であった。何れにしろ、膝を中途半端に曲げて右の足裏と左の足裏がタン、タンと地面に付いた状態を維持することの難しい結果である。 それは詰まるところ、椅子に座るという行為が彼にとっては、休まらない体勢を保つ羽目になる具体的な機会の一つに当たるのであって、椅子その物を嫌っている訳ではない。どのような条件下であれ、膝を折り切らずにいる半端な足の置き方が不得手なのである。 何故その状態が我慢ならないのかは本人にも分からない。兎に角、次第に疲れてくるのである。長時間に渡りその格好を強要されるくらいなら同等の時間を正座しているか、いっそのこと突っ立っている方がカカシにはずっと易しい。 イルカは以前意見した時に漂った、どこか解かり合えていないのではないかという齟齬の雰囲気を思い出していた。その時の感覚は正しい。やはり、届けた積りの意図は相手に十分伝わっていなかったのである。そこのところを今度は見過ごさなかった。 「如何してって、其は貴方の椅子ではありません、そうでしょう。公共の物、皆で使う物です。」 ある程度歳を食った人間からすれば今更と思われることを改めて説明している彼は、つい児童を諭すみた様な話し方になった。イルカは、配属されたアカデミーで忍の卵を育成している。向き合う双方の歳はさほど違わない。カカシの方が一つか二つ上である。 「貴方の靴底は、奇麗と言えますか。」 「さあ、ここのところ悪い道を歩いていないから新しい泥は付いていないし、先ず先ず普通かと思いますが。」 「……じゃ、それで余所の家にもずかずかと上がり込むんですか。」 真っ先に思い浮かんだのは屋根裏からの侵入であったが、素人に扮して玄関の上がり框を堂々と踏んで上がる潜入作戦のときには履物を脱ぐとも考えたカカシは答えに迷った。彼が想定したのは友人知人の邸宅ではなく、任務で足を踏み入れる家屋であった。 「なんでそんなことを聞くんですか。貴方が汚いと言うならこれは汚いんでしょう、俺には分かりません。」 「そうして座ると其処が汚れてしまうでしょう。例えば、自分が使う際に汚れていたら嫌じゃありませんか。」 「汚れているなら払えば良い。」 「……。」 やれあの娘が可愛いだ、この品が期間限定だと、最前までは浮世の由無し事を満喫していたイルカが不機嫌になった。 説教者の顔色を見て、至極真剣に思うところを述べていたカカシは大至急頭の中で時間を遡上しながら己が出した不正解の、一体どの箇所がどう不味かったかの検討に入った。 3. 渓流沿いの岩。乾いた地面。原っぱ。切り株。野営の幕内。星空の下。彼が送ってきた生活の場の悉くに於いて、休み方なんぞはたったの一度も問題として扱われなかった。水溜りや泥濘を避けるのは当然くらいの次元にいる彼にとっては、足を掛けたに過ぎない座面の汚れは、汚れでも何でもなかったのである。 それに、カカシは幼い頃より市井の人ではなかった。自分の家で落ち着いて暮らしたこともない。序でに拡げていえば、彼の生家には椅子という家具が一脚も置かれていなかった。 つまり半端に曲げた膝を保つ姿勢が元々の習慣として身に付いていなかったのに加えて、彼は土足で自由に座るのが非常識であるという世間の常識をしっかりと把握しない裡に大人になって了っていたのである。 「自分が良くったって他の人もそうだとは限らない。普通は次に使う人のことを考えるんです。それを、好きに使っていい道理はない。」 この論法はカカシには不向きである。架空の人物の心情を推し量る視点より前の段階にある、彼の裁量の素地は決定的に他者のそれと違っていた。だから、上の手数を踏んだところで彼は周りと一致する答えを導けない。このズレを発見し、そして受け入れた時に編み出された解決策は、一から十まで片っ端から禁止事項を丸暗記してゆくというものであった。 彼の場合、常識とされる事柄の根拠を教わってもその理由に対して共感が働くことは滅多になく、故に大抵はそれを解説文と見做して禁止事項に添え、項目と説明文で一揃いにして括り、把握するというやり方で数多の共通認識に理解を示していたのである。 それにしても、決まり事を表面的にのみ覚えてゆくこの方法は、類似の件に応用を利かせ辛い。よって彼には、未収得の俗世の掟がごまんとあった。膝頭をぐいと外へ倒して縁に乗せられている己の踵を下目遣いでまじまじと見ながら確認する。 「不可ない事だったんですね。」 「特に、此処は何をする場所かを考えてみて下さい。」 「……食事?」 小首を傾げる仕種と共に彼は床へ足を下ろした。その不意に出る癖を目にするに付けイルカは、無感動なカカシの深層から見詰め返してくる少年と出会う様な心持になった。 「普通は、」 「しない。」 「そうなんです。」 「……質問が一つ。」 「ええ。」 「履物を脱げば、構わないんですか。」 「駄目です。」 イルカは厳しく答えてから、正反対の言葉を続けた。 「カカシさん、別に良いですよ、その態度を改めないままでいても。」 (どっちなのさ。) カカシも若干の苛立ちをみせ始めた。それでも、ここ迄の流れを整理してゆくなかで、焦点は靴底ではなく脚の形自体にあると思い至った。 「好きにしたらいい。その代わり、俺はそんな人とは一緒に飯を食いたくないのでもう帰ります。」 食べる動きを完全に止めている態度が、本気であることを表わしていた。 「……。」 ずり、ずり、と尻を滑らし浅く沈んだカカシは臍を曲げて返事をしない。 イルカの目に映ったそれは正しく反抗期の生徒の出方であった。 羽根休めにも似た里での暮らしで、己の感覚は全く参考にならないという摩擦を事ある毎に味わってきた男は、初めて信頼出来る指標を手に入れた。それが、イルカであった。 これが不思議な人物で、彼自身は破茶滅茶な感性でいるのに、人には割かし良識的な観点を提供するのである。彼と居ると、あらゆる平衡が何時でも間近に感じられた。カカシは、イルカに則って生活していれば、人として保証されているような気がするのである。 「あーあ、今後一切、カカシさんとは外で食事が出来ませんね。残念です。」 畢竟ずるに見放すと脅しをかけてきている、相手の魂胆が悔しかった。その口振りは自分の台詞の有効性を知っている風な、否、その遣り口は、自身の存在がカカシの選択を左右することを知っているという証拠に他ならないからである。そして確かに、彼はイルカに愛想を尽かされたくないと思っている。 「別にいーよ」と投げて終わりたかったけれど全然良くない本音に絡まれた彼は、渋々口を開く。 「もう下ろしたよ。」 「今回はね。」 不貞腐れるカカシの本心は、「残念」を裏返したところにある意味を手放せない。 「……、……直します。」 舌先三寸の出任せか、それとも心からの声なのかを判断する様に、イルカは相手を視凝めていた。 -続- |
| 4.〜5.> |