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此処に眠る。

- 共存

<1.〜3.
黒い湖とはぐれ羊



4.

イルカの黒い双眸は夜の湖に似ている。カカシは、そんな様に思っていた。犬の円らな瞳とは違う。潤いを湛えた娘のとも違う。長い睫毛で目元が翳ることもない。その魅力は、もっと他のところに有った。
ぶれない黒曜石の珠に見詰め返されていると、あるときにスウと宇宙の奥へ吸い込まれてゆくのではないかと意識が滑落する、その眼は、粛然たる一刹那を秘匿しているのである。

此処は、大きな窓から差し込む光と暖房の熱が混じって停滞する、午後の明るい大衆食堂である。四角い箱の片隅に居る筈のカカシの脳裡に、森とした夜半の湖がちらついた。
彼は、闇と化した水面を独り静かに見詰めるのが好きであった。夜の帳が下りると、告解気分を引っ提げて無人の川沿いを上り、真っ黒な部分から得体の知れない何かがぬっと伸びて体躯を奥底へ引っ張り込んでしまう、そんな気配を感じるまで、人里離れた水辺に佇み、何もせずに只管その黒さを傍観していた。うんと昔から、そうして夜の湖の不気味で不思議な力の前に立つのが好きなのである。イルカはその眼で、カカシを見ていた。

「足は上げずに座るよう心掛けますから、また乗せていたら気付き次第教えて貰えますか。意識して矯正しないと無理です、これは。」
「そのようですね。」
「それで可いですか。」
「はい。」
「……生意気。」
「聞こえてますよ。」
「聞こえるように言ってるんだあよ。」
「仕方無いでしょう。」
「何が。」
「育て直しですよ。」
「は?」
擱かれた箸を再び手にしたイルカは、芝居掛かった目の逸らし方をしてみせた。

「あ、俺を?」
「御名答。」
カカシに視線を返して破顔すると、彼は狐色に揚げられた豚カツをぱくついた。
「エリート忍者の俺を? 天才ですよ?」
「人がそう呼ぶだけでしょう。」
その言い草が余りにもしれっとしていたので、カカシは思わず「ハ」と笑い声を出した。意地悪い眼光を放ち、
「イルカ先生こそ、一遍調教でも受けて、口の利き方の一つくらい叩き込まれた方がいいんじゃなーいの。」
そう挑発した不羈の才ある上忍は忍犬使いで、実に八匹の犬と契約を結んでいた。「躾には一寸した自信があります。」
「間に合ってます。」
「貴方一人を飼い馴らすくらい御手の物ですよ。」
「俺の方も、一応教育者をやっていますからね。」
「……。」
「……。」
大抵の欲は無かったことに出来るのに、剛毅な彼と遊びたい欲は一向に掻き消されない。戯れに威圧してみても案の定怯まないイルカのことが、カカシは好きである。

あれは遠い日の深更に踏み誤ったのであったか、湖に落っこちた羊は、真っ暗な水底をふわ、ふわと進む。思う速度では進んでゆけない、全身に掛かる抵抗が心地良い。



「二、三時間なら持つんですよ。」
為された指摘を切っ掛けに過去を顧みていたカカシは、心を整える深呼吸をしたあと、徐に打ち明け話を始めた。「しかしやっぱり、慎重に進めなきゃ無理だ。」
深刻な反省会でも開いてるみたく、逆立った銀髪を掻いている。
「うん?」
こんもり盛られたキャベツを摘もうかというところであった箸を引いて、イルカは面を上げた。「なんの話です。」
「俺もね、一通りのことは一応指導されたんです、食事の作法みたいなやつ。」
「はあ。」
ピンとこない顔を、カカシは唯一の表情ともいい得る右目に映した。それを眩しそうに細めるのは、笑っているときの細め方である。
「十代の頃に一度。」
精々齢五つ、六つの回想であろうと予想していたイルカは、遅過ぎる時期と具体的な回数の記憶に相槌を打ちそびれて、其の儘口を噤んだ。どうやら幼子の時分に何時の間にか覚えたという話ではないらしい。
「外交局の連中に呼び付けられて、食事を摂らされたことがあるんです。向こうも数名、俺達の側も数名、マァ、一種の試験だったんでしょうね。其の時に。」
「……。」
「そこでそつなく立ち回れた奴は、公の晩餐会やら接待に引っ張り出されるんですよ。幸運ながら俺は最終的に選考から洩れました。同席させるには行儀が悪すぎるってね。代わりに、余りに酷い結果だった奴等は……なんて言ったらいいんだろうね、アカデミーでいう補習かな、そういうのに参加させられたの。里の恩情だったのかな、あれは。」
結局、黙って立っていれば見栄えは良いが動くと途端に駄目になるという理由で、彼の名前は候補者名簿から消されたのであると言う。

イルカは、皆が当たり前にしていることを、当たり前に出来ているかの様に装っていたという事の真相に直面した。まさか相手の振る舞いの一つ一つが意図的であり、こっそり発揮されていた努力と集中力によって織り成されていたとは露知らず、当然とはいえ有りの儘に食べ進めていると思う以外に何も気付かなかったことに心苦しくなった。彼は、もう何度もカカシと一緒に飯を食っている。だからといって気になる点は、この話を聞かされるまで特に無かった。
そもそもからして、判断材料に乏しいのである。外食のときは、覆面という事情の故かして何時の間にか、ふと皿に目を遣ると料理が減っている。その現象も長くは続かないところから少食かと察する程度のことは掴めても、その程度のことしか、幾ら同じ食卓を囲んでも判明しなかった。家では少々偏食の嫌いがあるように思われた位である。
「……器用な箸使いでしたよ。」
「そうかい。上手く誤魔化せていたみたいで、それは良かった。しかしマァ、だから、人とは食事をしないんだ。」
(だから、あの足癖の悪さも、誰かの目に引っ掛かる機会を持たずにきたのか。)
接続詞を引き継いだイルカは、破れ障子から吹き込む寒寒とした隙間風の如きもの寂しさを覚えた。
(そういや、此の人の部屋には椅子がねえな。)

「毎回緊張するんだよねえ。」
「え。それは……、毎回とは、相手が俺でも、という意味ですか。」
「とんでもない。イルカ先生だから、という意味です。」
「それは傷付くな。」
「え?」
「俺は貴方に嫌われているんですか。」
「逆だと思いますよ。多分、嫌われたくないんでしょう、俺の方が。」
「……、……。」
「拗ねたの?」
不意に現れるカカシのこうした純粋な空気に触れると、イルカの恋心は参って仕舞う。

「ひょっとして、それじゃ今日も緊張していたなんて言うんですか。」
「ウン。言ったでしょ、毎回だって。」
「未だに俺の前で格好付ける必要があるんですか。」
「それは他に対してだよ。面倒臭い、無意味な洒落者気取りなんて御免だから、人とは食事をしないんです。貴方への理由は……。」
「……。」
「それもさっき言いました。先生の隙を見て食べ溢しを回収したり撥ねた汁気を拭ったり、俺は大忙しなんだあよ。箸の持ち方だって、本当は変なんだ。けれどそれだけじゃないね、今日は。足の件でも失敗した。」
「少しずつ向上すれば良い。」
六歳で中忍試験に合格した男は「出来て当たり前、出来なきゃ失格」という構造の直中で、小さい頃から厳しい要求に応え続けてきた。其の彼の胸をイルカの価値観が、寛仁な手付きでそっと披く。カカシは俯いて、ぼそぼそと喋った。耳を澄ますと、その声にうっとりとした気分が反映されていると勘付ける。
「イルカ先生は、とてもきれいに食べるよね。俺はいつも心の中で拍手喝采です。」
あんぐりと口を開けたイルカは、赤面していた。
「服には汁が撥ねるし、食器同士は当たって耳障りな音を出すし、皿の周りにも足元の床にも、ボロボロと食べ滓が散らかり落ちる俺とは大違い。」
「同じ様なもんですよ、俺もカカシさんと大差ない。でも、気になるなら、気を付けていれば改善されますよ。」
「どうかな、……そうかな。」
彼は、イルカの言葉に乗せられるのが些とも嫌でない。


「ま、俺が選考から外されたのは、何も食べ方に限ったことではなかったしね。」
「そうなんですか。」
「黙っているあいだは良いが口を開けば台無し、との評価も頂きました。要するに、一番好いのは写真に映っている俺なんだそうですよ、ハハ。勝手なことを言うなと腹も立てたけど、そのお蔭で要人との会食にも呼ばれないんだからねえ。」
カカシは苦笑したが、イルカは笑顔を作らなかった。
「カカシさん。」
「ん。」
「実際はまだまだ食べられるのに、俺が目の前にいる所為で気が引けるから、それでいつもそんな物しか頼まないんじゃないでしょうね。」
「そうではないよ。」
カカシは、イルカによって変わってゆく自分は好転しかしないという確信めいた気持を抱いていた。
「単にその時食べたい物を頼んでるの。」
(これまでが、まるで安価な作り話の様な人生だったもの。)
過ぎて往った日々以上に悪くは、もう成り様もないであろうと彼には思われるのである。
それに、イルカは、カカシと此の世の色相とを繋げてくれる。自分に合わせた伝え方で世界を教えて呉れる存在は貴重であった。難解なxやyを採用せずに、丸や三角を用いるイルカによって示される世界の約束事は解かり易い。
しかも、他の人間が聞けば幻滅しそうな低次元の質問をしても根気良く付き合って呉れるのである。其の彼が善くなると判断した事なら、其は屹度努力を払う価値のある事に相違ないと思う位にカカシはイルカに信を置いていた。


ポタージュの入っていた白色の浅い皿を暫く眺めていたイルカは、
「夕飯は家で、たんと何かを作りましょう。」
と大雑把に今晩の過ごし方を告げて、残りの白飯を掻っ食らった。
「カカシさんも助手として半分は手伝ってくれなきゃ困りますよ。」
先制された小言に対しては取り敢えずの賛同も却下もしないで、カカシは全く脈絡の無いような事を訊いた。
「イルカ先生はさあ、なんで教師になったの。」
すると、ふ、と笑い、
「学校も教師も大嫌いだからですよ。」
そう即答した男は、
「藪から棒に妙な事を聞きますね」とあべこべに驚いていた。それから、
(それに、)
肩を竦めて口をヘの字に曲げて、
(誰でも好いから、自分が人に囲まれて居てえんだ。相手を思って其処に居る訳じゃねえ。誰かの側に居ねえと、俺自身が不安だから。)
喉元でつっかえて出てこなかったこの理由を、そっと胸に押し返した。
(……、……邪だ。)
「因みに、子どもが好きな訳でもありません。」
イルカは本気でそう思っているのかもしれないが、傍から見ていると分かる。大嫌いなのは体制で、生徒とは答えなかった。彼は間違いなく子ども好きである。やれやれと軽く首を振って聞き流していたカカシの雰囲気は、どこか満足気であった。





5.

「時にカカシさん。」
「なあに。」
「晩飯は何にします?」
「食べた傍からもう次の食事の話か。なんでもいーよ。」
「それじゃ、また同じスープが食卓に出されても、文句も言わずに食べるんですね?」
「俺は数種類の単調な繰り返しで平気だから、先生が決めて下さい。」
「数種類の、単調な繰り返しって?」
「言葉通りに、また同じスープが一品だけという夕食でも文句無く食べているということです。」
「信じられない、と声を上げたいところですが、恐らくはそうなんでしょうね。なんだか頷けちまう。」
「マア、毎日のように乾パンが続いてもそうそう飽きませんからねえ。」
イルカの見て取った以上に、カカシは相当の偏食家であった。
「世の中には美味い物が山程あるってえのに。」
「乾パンだって、何枚食べても同じ味で安心だあよ。」
「だからその同じ味に、飽きると言うんです。」
「ああ、そう……、そうね。」
「大体、何を食っても其は其の味がするでしょうが。ええと、だから……、」
「うん、だから、知っている味の繰り返しでやっていけるというか……。」
「ふうむ。」
「兎に角、俺は殊更色んな味を知りたいとは思わないのよ。」
「そんな事を言わずにさ、フッフッフ。」
「気持ち悪いな。なんなの、その笑いは。」
「これからは色々食べましょうね。」
「興味無い。」
「俺にあったら道連れですよ。」


一つになりたいと願う恋人たちは多い。
カカシは思う。互いの間に隙間無く、ぴったりと張り付いて相手が見えなくなる必要が果たしてあるのか。溶け合って、一体何が生まれるというのか。
結極は単体に戻るだけなら、融合しても利などない。撥ね返ってくる球の楽しさを知った時、霞む向こうへテン、テン、テン、と転がり音も形も小さくなってやがては彼方に消え失せる、撥ね返らない球を投げてばかりいたことの虚しさも知らされる。二人が一つになって生まれるものが有るとするなら、それは既に有った虚無である。再びそれを引き受けたいとは思わない。
彼は、イルカが世界との介在者であってくれることを望む。イルカが、自分に引き摺られて同化して仕舞わないことを、何物にも染まらない一番間近の他者で在り続けてくれることを望む。

二人でいる一日が無数になるとき、背馳の紋様は限りなく小さくなる。
イルカは、それを証明する為に掛かる年数が吾の寿命であったなら、そして、その相手がカカシであったなら、それは素晴らしく甘美な話になるという仮定に思いを馳せていた。

どぷんと転がり落ちてそれから、ぶくぶくと溺れて沈んだ逸れ羊は、夜の真っ黒な湖が救う。
いつ覗いてみてもその水底では一匹の羊がふわり、ふわりと蹄を前へ出している。
湖は羊にはなれない。
羊は、湖にはならない。










終.
(2012.11)