text18_10
此処に眠る。
| - | 掃除 |
| <18. |
| 蜜しるべ |
19. 此の人の中に、俺が欲する世界の凡てが詰まっていると思うのに、其を抱き締めたいと願うのは不徳であろうか。 世界を抱きたい。他の理由は、必要な人間が用意すれば良い。 生きられる限り生きようとする意思の何が悪いのか。 此の人が邂逅の先を啓開した。換言すれば、然うして己の存続に割く意識に不可欠の要素がうみのイルカである。ならば当人の合意以外に、如何なる裏打ちもこの行為に不要である。 人類に敷衍して問うたとて満場一致の正道なぞ見出せるものか。二千年を費やして猶一つに纏まっていやしない。 心中饒舌なカカシは、恋や愛という枠では、逼迫さと因果性が足りていないと感じながら暗がりに浮くイルカの背中を見ていた。 消さずにおいた居間の燈火が、影を濃くして筋骨の隆起を効果的に表わしている。 (あの晩には、無かった傷だ。) 彼は其の手で上着を脱がせた、三年前の肌を憶えていた。精神的な打撃を蒙り、当事者を敬遠している間に相手が負っていたヒジカルな深手は、痛むから面白半分に触れるなと釘を刺されている。そこには醜い創痕が派手に残っていた。すぱっとした斬り口でもなければ、手際の良い縫合でもなくて、踏み荒らされた新雪の凹凸に似た陰影がついている。なのに、くちゃくちゃに皺寄る部分の皮膚そのものはツルツルした質感で引攣っているからグロテスであった。手術は難航したに相違ない。妨げになった要因の二つ目を挙げていたカカシの、考える視線に気付いたイルカが喋った。 「だから消そうって言ったでしょう。興醒めしましたか。」 「未だ俺にそういう事する気起きるんですか」とごてられた夏の午後が扁桃体の至近で閃光を放ち失神しそうになる。 (不協和音を発するのは此の喉笛か?) カカシは、思わず男の首筋を太い血管ごと噛み千切りたい衝動に駆られた。 「そっちこそ……この眼が怖いなら、眼帯を付けるよ。」 「ンなもん要らねえ。」 「女の子に泣かれた事でも有るんですか。」 自身の昔日を参考して聞き返した男の腕に彫られた紋に、下からの視線がちらっと流れた。例によって此方の神経を逆撫でする売言葉でも口走るかと、反射的にカカシは構えた。すると、その用心に反して、入眠の安らかさで両の目蓋を閉じた人は対話を打切り、肩を動かして終った。 「イルカ先生、こっち向いて。」 物憂げに瞬きしたイルカは、こんなときに先生とは何人にも呼ばせてこなかった。そんな些細な一つ一つを、一歩一歩譲歩していった結果が、今の此の瞬間であった。 彼は、カカシにならイルカ先生のまま抱かれても良いと思えた。 (俺は、掴みたくて仕方がないんだ、此の人の手を。) 此方の心臓の拍に合わせる余裕や、遁れる顎を確保する力加減や、這う指のこなれた往復に手練手管を透かし見たイルカは、震える童貞の面をしたペテン師の、悲恋の結実を嘆いた。 「ここも触って可い?」 熱を装填し乍らも理性的に、カカシが天井の薄暗い白を遮った。 視界を占領された方は、紳士の皮を被った狼め、と思った。なめらかに、軽やかに、的確に獲物を追い詰める。初心を騙る賢い男。それが彼の手付きであると思った。奥手ぶった恋の仕方には似付かわしくない肌の合わせ方をする。頭上から輝く粉がきらきらと降り注いできてそれが体の回りをクルクル、クルクルと回り続けるような速さで奏でられる二挺のビオロンのための協奏曲、第一楽章。切れ目ない一幕を想起する内的廻廊でそうした音楽が響く経験をイルカはのちにした。 下方に潜ったカカシが寝台の脇を探る。かたかたと小さく音がした。足の甲への口付けは陽動であった。これが彼の釣り方ならばまんまとたばかられたと臍を噛む、油断しきりであったイルカは是迄と今夜とは違うことを悟ると、力が入らぬよう自分の呼吸の音を成る可く遠く、天井より高く、月に届けるような意識でゆっくり長く、長く送った。 幸か不幸か為されることに古今東西、世間様と大差は無く、頂にある快楽を目指す律動と、荒い息と密な間合いに互いが刺激され合う其は、たかだか一刻の痴情の発露であるに過ぎない。 カカシは、暗がりのなかで追憶の黒髪に指を通した。イルカがこの男を黒髪偏愛家にしたのである。あの夜にも触った、其の手の平の感触で昂奮の針が振り切れそうになった彼は、命が絶叫しているのを体感した。容赦なく、無様で、尊い遣り取りであると思った。彼は、眼を見開いてイルカのことを独占する傍ら、高い天で星が流れるちかちかした幻覚に溺れた。 イルカは心を許したから体を開くのではなく、心を開けないから体を許す。己の体は全を孕む一ではなく、散り損なった一欠片であるとしか捉えられない彼は、産まれて初めて肉体の内側を抉らせた。心の最奥に爪牙を突き立て、もぎ取り去られる位なら、体の最奥を穿たれる方が混沌は刹那であったし、よしんば生命与奪の権を託したとして、後悔しないとは思えたからである。 滅私奉公する忠誠心は、里に対しては有ったとしても、利害を顧みずに仕えられると思わされる個人は初めてであった。彼は、未知なる無尽蔵と最強の力で惹きつけられていた。其の力に抗えないのである。 よって躰は、奪われ失うというより其の力に差し出した、謂うなれば生け贄であった。と云って、未だ総てを取られた訳でもない。 カカシのことは好きである。が、彼が誰かと寝てもイルカは嫉妬しない。好きな人が出来たから別れようと切り出されれば何時でも潔く、無情に手を振れた。彼の執着が怖くて体を放り出したのは、本当はそんな自らを捨てて仕舞いたかったからなのかもしれぬ。想いが報われるか否かは論の外であった。 慕わしくはあれど情が移ってはいない。人生の過去、現在、未来において最高の人を手放したという喪失感は相応の虚脱を伴うであろう。それでも、それを踏ふまえた上で何時でも別れることは可能であった。 あらゆる既存を打ち壊すのに足が竦むイルカは、惚れた人を故意に傷付ける反面、弄ぶ様な関係しか結べなかった。愛欲の次元に貶められている裡に逃げたいと、擦り切れた本心が変化の恐怖に怯えて必死に抵抗するのである。此の相剋は、気が触れそうなまでに激しさを増して爾後の彼を苛む。 今晩は、疲れ果てるには早かった。 20. 目が覚めて、隣に寝ている誰かのいる事を幸せと感じて抱き寄せる。チュンチュンと鳴く雀が、朝を朝らしくしている。啄ばむ様な口付けを交わし、照れくさそうに微笑み合う――恋人との初めての朝はそういうものだと娯楽小説に植え付けられていた男が目覚めて最初に見たのは、ぽっかり空いた白い敷布であった。 朝餉の葱を刻む包丁の音がタンタンタンと台所から、聞こえてくる演出もない。珈琲の匂いもしない。 (と云うかそんなら葱と豆は事前に備えておかなければ不可ない。) 寝呆けていた彼は、昨晩の一部始終は惨めな夢であったかと弱気になった。 やがて寝床の下半分で地中の虫みたいに丸まっている恋人を見付けて、そうは問屋が卸さないという展開は必然であると得心し、有り勝ちなアレルヤは棄てた。 物干し場では鳩がクックウと鳴いている。感じたことの無い気持ちが胸に満ちていた。それは、何もかもが型に嵌っていない現実の朝に彼が得た、幸福感というものであった。ところが彼は、自分の鼓動のトクトクと速まるからくりが自分で分からず不安になった。そうした次第で彼の胸のゾワゾワの正体は、淡くあどけない幸福感から、短絡な不安にすげ替えられて終了した。 「……かあしさあ……。」 起きたんですか、もう朝ですかと二の句を継ぎたいのは山山であるものの、肝心の気力が如何しても湧かない、イルカは朝に弱かった。それも、十時間、十二時間の睡眠は当たり前に貪るわ、目覚めてから本式に起床する迄がまた長いわ、仏頂面で以て爽やかな朝というものを敵対視しているわ、庇い立て出来る点が皆無なのであった。昼寝だって御手の物、一時間でも二時間でも蒲団を離れず、十時間眠った直後に二度寝をした休日もあった。「早朝に起き出し、忍の脚力とは云え長距離を移動するなど愚挙もいいところ、馬鹿も休み休み言え」と言下に切り捨てる程に、頗る寝起きが悪いのである。 その彼の純乎たる私的な掠れ声が鍵になり、未調整であったカカシの抑制の錠を外した。 子音を口内で生む力すら出ないイルカは朝になると体をまさぐられていたのであるが、半醒状態で触られていても知覚はぐずぐずで、追い払う力も入らず、一秒でも長く寝ていたかった彼には寝返りを打つ気さえ起こらなかった。 「何であんなところで丸まってたのよ。」 「邪魔かと思って。」 「又それ?」 「え。」 「邪魔だと思ったら一緒に居ないでしょう。言われる度に悲しくなるから已めて呉れない。アンタ気付いてないのかもしれないけれど、偶に言ってるよ、其の台詞。」 それからのろのろ起き出すと、正午を過ぎていた。今日こそは発つ筈であったイルカの胸では、真っ向から訴えられた「かなしい」の四文字がぐるぐると回っていた。ぐるぐる、ぐるぐるいつまでも回る。 今から片付け作業をするには体力も時間も足りないという見解の一致をみて、休日のぐだぐだとした能率で彼が帰る仕度を調えると、鏡の前に立って十秒で準備を完了させた、体裁振らないカカシも手甲や鉢巻を装備していた。顔を洗ったのかどうかさえ疑わしい眠そうなまなこと、御馴染みのぼさぼさ頭である。 「どうせ食料を買いに行くから、道が分かれる所まで見送るよ。」 それで家を二人出た。 話していた四つ角に差掛かると、並んで歩いていたイルカは足を停めた。首輪も名札も身に付けていない彼は其処で左様ならは口にせず、 「もう一晩、泊めて下さい。」 確かにそう言ったのであった。 一所へ根を下ろす積極性を厭う人の慮外な申し出に、カカシは思わずにやけかけた。けれども、ささやかな自惚れを押さえて、彼の洞察力はすぐに持ち直す。この縄張りの内でちょこまかしていたいのか、一人に逆戻りしたくないのかで、棚から落ちてきた牡丹餅の味は大きく変わる。 「だったら夕食はどうしようかねえ」とすかさず場面を繋いだカカシは、我が儘の黒幕を後者であると踏む。 夜も朝も抱いたしつこさは相手にとっても誤算であったという視野で対策を練ってばかりいたが、あながち独り善がりでも無かったようで、退っ引きならない関係に追い込む事には成功したらしい。何せ人生の対局なのであるから焦りは禁物である。ここは一つ、彼を首っ丈にさせるまで、囲いは緩い儘でおく。 (俺は優しいでしょう。) 巧妙に素知らぬ顔で、離さないでおく。 (最後まで手放さないから。俺は、飽きないことを好きと言うんだ。) カカシは、三十まで生きれば上々だと割り切っている。そして、其の目標線へと近付き始めた歳になって、人生の波間を漂泊していたイルカと結縁したことに一生分の運を使い果たしたと思った。更にそこから、この先に起こるあらゆる辛苦は、彼と出逢った一点に幸運の有りったけが集中的に注がれた僥倖の引換えとして受け入れようという図式を書き起こした。 (俺と居なきゃ、貴方ふらふらするでしょう。) 襤褸襤褸になった自己を秘匿して、斃れるときに笑うでしょう。 手遅れになる前に、その襤褸糞な純潔を壊させて頂戴な。誰かにいつか先を越されてしまわぬように、殺められるなら此の手が一等いいと白状してお呉れ。 どちらにも着地出来ないで魂ごと宙ぶらりんになった親をもった、可哀想な、幼い友が死ぬ横で生きてきた、不幸な、数多の上級任務を遂行してきた、凄腕の、……何とでも好きに言い表せば可い、俺は俺だ――其の俺が、遺跡みたいな貴方の門番になって、風化で崩落しないように確りと見張るよ。だからこれから再生しなよ。下層の秘密通路は無事だろう。地下に在る解読不能な線刻は、世界の縮図として扱うから。俺と世界の橋渡しをしていてよ。解読に生涯を捧ぐから。 イルカの心を回収して得る利益は、不利益に勝る。彼の甘やかしはその差引勘定の挙句にあった。 イルカは、左様ならを言い出さなかった。だからカカシは今日、彼の後ろ姿が消えるのを見届けない。 (俺から左様ならと言う日は永久に訪れない。だからと云ってそれは、明日も明後日も此の人が左様ならを言い出さないという確証に直結しない。) 引き留め方を知らなかったカカシは勉強せねばなるまいと思った。 (俺は、学ぶ動物だ。) でなければ、不安定な存在はいつか屹度好天の光に蒸発する。 (違いますか、木ノ葉の白い牙。) だから彼は、生身の人間と連載中の作品は嫌いである。しかし、仕合わせなカカシは、 「料理の腕前を披露してよ」と恋人に笑顔を作った。恋でも愛でもない感情はマスクの下に置き去りにした。そうして彼は、今日も無音の言霊を発信し続ける。 此の言葉から早く逃げ遅れ、此の言葉を総身に浴びよ。 そして体内を巡る血潮の細胞にまで沁み渡れ。 形に成らない、俺の呼ぶ声――君の居場所は此処だ。 繰り返す。 君の居場所は、此処だ。 「カカシさん、何食べたい?」 人生は有限であると、それ丈を思う事にイルカは専念していた。 結極、先に人を恋しがったのは、矛盾に取憑かれている男の方であった。 終. |
| (2014.03) |