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置いては往かない。
浜榛浜 | 『Guilty or not guilty.』と連鎖 | 素麺食おうよ |
白日Rock 'n'Roll |
1. 日曜日。朝の九時。耳元で携帯が鳴る。その音をまだ意識の遠くで聞き分ける。公私の二大分別でいえば、私。問題ないので放置。英断を下すまでに要した時間はわずか数秒。 (お休みなさい。) 脳内で自分にそう囁ききれないうちに、玄関の引き戸に嵌め込まれたガラスが突如としてガシャガシャ音を立てた。耳元の電話も鳴り続けている。 (うるさい。) どちらも。半身を起こしてちょいと振り返り、浜田は、ガラス戸に浮かぶ人影を寝惚け眼で確認しながらまずは止まない携帯の通話ボタンを押した。 「ハヨーッス。いる?」 鼓膜に天衣無縫な俺様ヤローの声が響く。声というより、半ば大きな音でしかない。彼の脳味噌はまだ九割以上が眠っている。 「……。……どこに?」 「家。つか、今まで寝てたんかよ。起きろ。」 「えー……うん……。」 「いんだろ? 寝てたってことは。早く開けろ。」 「……何を?」 すると再度、玄関のガラスが耳障りに数回鳴った。 「これだよ! ここ!」 「あー、あの見えてる影って、ハルナちゃん?」 「見えてんなら開けろよ! ぶっ壊すぞこのボロ扉。」 「えー……なんの用? 俺まだ寝たい。」 「却下。」 彼はなおも「えー」と漏らしたが、渋るその声よりもはるかに毅然とした、力のある声で榛名は「きゃっか」と繰り返した。寝乱れた髪を掻きむしってよけいボサボサにしながら大股で玄関に近付いた浜田は、「アー」と不満を爆発させた一声を受話器に叩きつけるだけ叩きつけると一方的に電話を切り、同時に玄関の鍵をキュルキュルと回して外した。 二枚戸の重なり合う中央部に、穴から回し出された棒状の鍵がぶら下がる。閉める時はそれをまた穴に差し込んで、逆に回転させるのだ。来客はボロと評したがその通りで、そもそもこの長屋造りの建物自体が大分と古い。彼が乱暴に引けば、それだけで本当にガタンと外れてしまいそうだった。 家の主がその引き戸を十センチほど開けて内側から顔の半面だけを覗かせると、不機嫌全開なデカい図体の黒猫と眼が合った。 「なぁんでハルナちゃんがそんな顔してんだか。」 「ノロノロしてっからだろ。そしてこの、隙間はなんだよ。」 言うが早いか勢い良く戸の縁に手を掛けた奴は、それを最後まで開ききろうとする。 「まだ入れたげるって、決めてない。」 「ハァ?!」 加えられている力と均等な力を逆方向に掛けて浜田は玄関を死守していた。 「客に向かってそういう対応して良いわけ?」 「客じゃねえ、トモダチ。つか、呼んでもねえ客が玄関突破して良いわけ?」 「トモダチだからいいんだよ。どうせ暇だろ、良いモンやっからその手ぇ離せ。」 「暇だけど……え、良いモンって何? 一応、聞くだけ聞いてやる。」 「素麺。」 「ハイ、サヨウナラー!」 食べ盛りの男子にとって素麺など空気に等しい。空気で腹が膨れるか。しかし、思わず聞き返したくなる言葉が逃げる言葉を追い掛ける。 「待て待て! 五十束ある!」 「ご、」 守備の手元が一瞬緩む。 それまで相殺されていた力を制御しきれずに、攻め手はパーンと派手な音を立てて戸を叩き払ってしまった。辛うじてその衝撃に耐えた玄関は、偉い。ベソをかくようにビビビ、と嵌め込まれたガラスが小さく震えた。 「るっせぇよ馬鹿! 隣のばーちゃん、ビビっちゃうだろ!」 「ゴ、ゴメン。……て、俺が悪いのか?!」 「お前も悪いだろ!?」 間髪入れずに言い返した住人はそこで、来訪者が小脇に上品な白木の箱を抱えているのに気が付いた。 「まさか、その中、全部素麺?」 「おう、この化粧箱ごと全部やるよ。まだウチにいっぱいあんだ、在庫。」 「え。」 なぜ、と思い終わらないうち、ああ季節柄お中元かも、と閃いた。家庭という場所が家族ごとそっくり遠くに移ってしまった折に、同年代に魁けて育った自立心が親元を離れる決意をさせ、それで独居を始めていた浜田は、子ども時分に届くとワクワクしていた果物のジュースやゼリーの詰まった熨斗付きの箱を思い出した。けれど、今やそれを積んでいた座敷もビールにがっかりしていた子どもも、そんな風習をやる大人も一切のものが、区切りのついた過去にあった。「……いいの? 黙って持って来ちゃあ、駄目なんだよ?」 それは、小さい子どもにでも確認するかのような口振りだった。 「殴るぞ。とりあえず今から湯掻けよ。俺も食いてえんだ。」 「いいけど……いいけど今、なんにもないよ。ネギすらない。」 「別にいい。」 「嫌だよ! 俺が嫌だ。」 「我が儘言ってんじゃねえよ! てか、いいかげん家に入れろ! 俺もう、ぶち切れそう!」 「えー……。分かった、じゃあ、ちょっと待ってて。」 浜田は一旦、畳の上に足を戻した。先程まで着の身着のまま眠りこけていた場所だ。バイトから帰ったはいいが、二階まで辿り着くだけの力が尽きて自分の家にもかかわらず、昨晩そこで行き倒れてしまったためだった。寝間と決めた上の一間には巣のような万年床が敷かれていたが、階段を登る面倒臭さを打ち負かすほどの魅力は、それには到底ない。 さて、すぐに戻ってきた彼は訪問者に紙切れを渡した。そうしてそれと引き換えるように自然な態度で、素麺五十束入りの宝箱を受け取った。 「そこにある品をすべて手に入れたとき、もういちどここをおとずれるがよい!」 勇者に試練を与えるRPGの仙人よろしく高らかにそう告げると、メモから目を上げようとした勇者ハルナの胸をトンと衝いて素早く玄関を閉てた。格子戸越しに、 「素麺ありがとねーぃ」と礼を述べることも忘れなかった。 「あ?! ふざっけんなよ、おい!」 勇者改め黒猫が毛を逆立てていることが、手に取るように分かる。 「素麺返せ! 開けろ馬鹿!」 気にしない。 (俺はまだ寝れる。) 浜田は、梯子みたいに急な造りの階段をよじ登るように上がって、少しでも静かな場所へと避難した。 やれやれとばかり巣穴に潜り込むと、だからハルナちゃんはスキ、と思った。 強襲を掛けてきたかと思えば、その態度は強引で、一見すると横柄。だけどその実、許可が下りない限り人の領域には絶対に入ってこない。現に浜田がメモを書いているあいだ、あんなに騒ぎ立てていたにも関わらず、がら空きの玄関口にじっとしていた。敷居の線より内へは一歩も踏み入れないでいたのだ。 重い瞼を閉じると、暗がりに蘭と光る黒目が浮かぶ。 (すげえ睨んでたなあ。) そのゾクッとする強さを思い返しながら、浜田はどんどん眠りの谷へ滑り落ちていった。 一時間ほどして再び携帯が鳴った。 「……おー、……どしたー……?」 「どうしたじゃねえよ。観念して冷やし素麺を作りやがれ。」 「ふは……。」 思わず笑いの吐息が洩れたのは、あっぱれな執念に対してだか、貫徹する胆力に対してだか、ギラつく声と涼やかな素麺とのギャップに対してだか、自分が今から大人しく降参することに対してだか判然しない。はっきりしていることは、体よく追い返したと思っていた彼が見事に任務を遂行し、携帯で繋がっているまさにこの時、一時間前と同じようにすぐ下の表に立っているのであろうという現状だ。 素麺、素麺とうるさい彼は、一体何に拘って意地になっているのか。それは果たして食い意地か。ひょっとして、この俺にだろうか。それとも、自らの心算に固執しているだけなのだろうか。母に根なし草と評されたことのあるくらいフラフラしていて、何にも、誰にも、根を張ろうとしない男には分からなかったが、それがなんであれ、舞い戻ってきた人の大木のような根性を称えてやりたかった。普通なら腹を立てて立ち去る。人によると絶縁も有り得るだろう。浜田はここでやっと頭を覚醒させて、布団から這い出した。 ちょっとした崖みたいな狭い踏み板を下り、粗末な格子戸をキュルキュルガララと開ける。そして、どうぞと体をずらして素直に帰還者を招き入れた。 呼応するように榛名も、今度は遠慮なくズカズカと上がり込んできた。 「あっちー、この部屋! 外より灼熱地獄じゃねえか!」 叫んで窓を開け放し、風を待っている。「よくこんなトコで寝れんな? また寝てただろ、お前。」 「上でね。若干涼しいよ、上の部屋は。午前中なら……あ、クーラー、入れて欲し?」 放り出された足元のビニール袋から冷蔵庫に入れておくべき物を選び出していた手を止めてお遣い帰りの子に目を遣ると、彼は早々にTシャツを脱ぎ捨てて半裸になっていた。 「いいよ別に。それより腹減った。」 「うーん」と唸った家の主はしゃがみ込んだ膝に頬杖を付き、思案顔で、立派に育った好青年をまじまじと見た。 一階には、家で唯一のクーラーが設置されていた。実家が引き払われる際に、自分の部屋にあった物をここへ運び入れたのだ。ほかに、炬燵机や衣料の収納箱といった家具も同様だった。 また、新たに要り用となった家財道具はほとんどを中古品で揃えた。機能すればそれでいいという本心と、一から十まで新品を用意するなんてそんなお金ウチにはありません! という実情とが半々にあったためだ。 だから設置はしたものの、クーラーのボタンを押したことは、実はまだ一度もなかった。電気代が嵩むくらいなら、暑さも寒さも自然の気候だと受け入れてやり過ごすほうが、いろんな面から総合的に、しかも一言で言って、楽。そう、楽だった。 それでも、榛名がねだれば彼が家にいるあいだくらいいつでも冷房してやろうと、この部屋の住人は端っから当然のごとく決めていた。自分に付き合わして他人に我慢をさせる気は更々ない。本来窮屈な思いは自分がするのも、相手がするのも御免だった。 なのに、目の前の人は「要らない」と即答した、Tシャツを脱ぐほどの暑さに身を置いていながら。実際今日は、浜田も閉口するほどの真夏日だ。蝉しぐれもじょじょに弱まってきている。うんと高い気温に晒された蝉は鳴かない。 だからハルナちゃんはスキ、とこの日二度目の感想を持って彼は目先の人を眺めた。 地肌と小麦色になった日焼けのくっきりした境目が魅力的だ。 そんな視線に気付いたのか、外に向けていた顔を部屋へ引っ込めると榛名はいつもの強い眼力を放って見返し、毒づいた。 「んだよ。暑さで脳ミソ腐って発情でもしたか?」 「腐らなくても、万年してるよ。」 「確かに。」 冗談を真に受けて納得された浜田は失礼だと膨れてみせた。 そこへ榛名も同じように膝を折った。向かい合わせにしゃがむと目の高さが等しくなる。そうして、 「はやく。つくれ。いいかげんにしろよ、おまえ」と間近にある瞳孔を見詰め、無表情によって怒りを表現しつつ命令した。 その威圧感をスルリと抜けた浜田が、唇を寄せた。 -続- |
3.〜4.> |
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