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置いては往かない。

浜←泉 再会

貴方が好きだと叫びたかった



1.

四月十一日の朝は昇降口に瑞々しい群ができていた。その誰もが、ガラス壁に貼り出された横長の大きな紙に注目している。
人がするのと同じように、延々と氏名が続くその紙を孝介も左の上から順に辿っていって、自分の名前が何組の枠内にあるのかを探していた。貼り紙の前が賑わうはずで、それは、これから各人が一学年目の高校生生活を送る教室を知らせるクラス表だった。
左端の一組、出席番号一番のア行から順に、男子、女子、男子、女子、と人の名前が続いていく。それが五組を過ぎたあたりから、いつかは必ず見出せると分かっているのに心が逸りだすものだから、彼はそれを自分でも可笑しく思いながら蟹のような動きで横へと伸びる紙の一番右端まで渡ってきた。
そうして、やっと最後の組の出だしで自分の名字を見つけることができると一安心して、貼り紙とピカピカの人だかりからは体を離し、ガラス壁を隔てた奥に静かに並ぶ、木製の古びた下駄箱の列をある感慨を持って見遣った。
(ここが今日から三年間使うことになる昇降口か。やっぱり真ん中が二年生、なんだろうな、きっと。)
名字である「泉」は九組の名簿の始まりから二番目の所に載っていたからそこで見るのをやめてしまった彼は、そのもう少し下に記された、よく知った名をつい見落としてしまった。二年生の下駄箱を眺めつつ脳裏に淡く思い浮かべていたその人の名が、今まで見ていた紙の、それも自分の名前のすぐ近くに記載されていることなど思いもよらなかった。


泉孝介は案内役の教師の声に従い、校舎の最上階へと初めて上がった。一年生の教室ばかりがずらりと続いている。
黒板に近い入り口から教室に這入ると、教卓の隅に早くも作成されていた新品の座席表を見つけたので、それで自分の枡を確認してから着席した。この時も、どうせ廊下側の前から二番目だろうと昇降口に貼られた名簿から目星を付けていた通りの席順だったから、他の名前など視界に入れる時間もなかった。
就学して以来、出席番号が五番目より後ろだったことがない彼には、名簿や座席表の大半を見ないで済ます妙な習慣が付いてしまっている。その無駄のなさが徒となった瞬間だった。


それから、指示されるままに廊下で列を作るとぞろぞろ連れて行かれた体育館で、入学式が執り行われた。
その最中に、個名点呼があった。孝介は呼ばれて「ハイ」と返事をしたあと、それまでの組がそうであったように、自クラス全員分の点呼を終えるあいだ起立して待っていた。途中で心臓が跳ね上がりそうな名が耳に入ってきた気がしたのも束の間、
(まさかそんなはずはない。聞き間違いか、同姓同名か――。)
と驚いているうちに点呼は終了してしまった。
「九組一同、着席」の号令を受けて腰を下ろしたが、その後の式がどんなだったか、彼は全然覚えていない。

久しぶりに、しかもマイクを通した大きな音で、懐かしい名を耳にした。しかしあまりに突然の出来事であったために彼は、夢か真かも疑わしい程度にしかその一瞬を捉えられなかった。
この時、その名の点呼に対する返事がなかったことも、原因ではあるが。





2.

四月十一日から遡ること一週間と数日。良郎は、学年最後の学期末にある終了式に一人で出席していた。
在校生が一堂に整列した広い体育館ではなく、場所は、足裏のフワフワとする絨毯敷きの校長室だった。日にちも体育館で行われた式からは数日の遅れを取っている。ただし、その大規模な式に準じてこの日の司会進行も教頭が執っていた。
立派な職務机を挟んで校長と向き合う良郎の左側、体育館でならマイクが据えられる位置に教頭が立つ。その横に学年主任、それから旧の担任も続いている。良郎には形式張る必要がどこにあるのか知れなかったが、教頭が例えば「一同礼」と号令を掛けるたびにそれぞれが、それに合わせていちいち律儀に頭を下げた。
(なんだ、この不思議な空間は。)
真面目な顔でそんなことをしている大人たちを小馬鹿にしたいような気持ちがなきにしもあらずだったが、忙しい合間を縫って自分のためにわざわざこんな場を設けてくれる学校にはそれなりにちゃんと感謝の気持ちも抱いていた。だから叩き起こされた電話にも素直に応じて、この日、これに出席するためだけに、良郎はバイト疲れでそのまま寝ていたかった身体を引き摺るように登校したのだった。

式のあいだ、校長と教頭からはその眼差しに溢れ出るほどの教育愛があるのを感じ取った。その代わりと言ってはなんだが、生活指導を兼任する学年主任からは刺さるような厳しい視線で見据えられているのが分かった。それから、斜め後ろに立つ旧担任の様子まで窺い知ることは出来なかったが、これはきっと人のいい表情をしているだろうと良郎は推測した。
段取り通りの式が終わり、ドアのところで一礼する。退室したとたんに彼は肩の力を抜き、大仰な溜め息を吐いて帰路に就いた。
「一斉の式に出してもらえないとは聞いていたけど、ほかにも仲間の二、三人はいそうなものじゃない。まさか生徒が俺一人とは。」


一人暮らしのおんぼろな長屋に帰ると、カーテンを引きっぱなしで出た薄暗い二階に、空洞の掛け布団が蝉の抜け殻みたいに丸くせり上がっていた。今では万年床になっている。すっかり熱の散ってしまったそこにもそもそと潜り込んで、
(さて、復学してはみたものの――。)
良郎はこれから送る先の三年間を、世の中のティータイムに眠りに落ちてゆきながらぼんやりと思ってみた。慢性化して鈍くなったまま消えるでもなくひっそりとあり続ける、心細さに似た寂寥感をもそのみずからの体温で温めてやるように、布団にくるまれ丸く、丸くなりながら。





3.

先ほど人のいい表情をすると評した昨年度の担任から良郎は、終了式とは別に入学式の日取りについての連絡も受けていた。その際の電話口で、
「それでまた、胸に造花を付けるんですか。絶対に行かないと駄目なんですか?」
と、彼は聞いた。すると、返ってきた答えはこうだった。
「仕様がないだろう。お前が学校に来なかったんだから。」
要するに己の出席日数不足が招いた結果だと前担任には諭されたのだが、その口ぶりに「何が何でも」という説得の強さを感じなかったので、
「はあ、まあ、行けたら出ます」と曖昧に返事しておいた。それに対してさらなる念押しがなかったことなどに鑑みた結果、良郎はもう二度目の入学式には出席しないことを決めてしまった。

それから結局、春休みも明けて入学式を皮切りに新学期が始まったが、教科書の受け渡しや学校案内、自己紹介で終わっていくロングホームルームが去年と全く同じ日程で繰り返されるあいだの数日、良郎はまだ一度も登校しないでいる。
だから当然、自分が在籍するこの高校にだけは来ないと思っていた中学時代のある後輩がその予想を裏切って西浦に入学してきていることも知らないでいた。





4.

本格的に授業が始まってから眠気の残る頭をフラフラさせて、良郎はようよう学校に顔を出した。昨年度に正真正銘の新入生として九組に割り当てられていた彼は、同じ組に残留する形で今年度も九組だと、前もって学校側から言い渡されていた。
一度目の春には誰かがしていたように昇降口に貼られた横長のクラス表を蟹歩きで見たものだったが、今となってはもう、それは過ぎてしまった遠い出来事の一つにすぎない。役目を終えた紙が剥がされ普段通りのガラス張りになっていた下駄箱を抜け、教室まで上がるのは久しぶりだなあ、くらいの感想しか持たないで階段を進み、手前の出入り口からフラリと九組へ身体を入れた時だった。
「……!」
良郎の息が、思わず詰った。
中学時代という名の過去に勝手に置き去ってきた亡霊に出逢ったと錯覚した心臓が、ギュっと締まって凍えるように冷たくなった。そのまましばらく血の気の引いた顔でそこから動けずにいた。眼は、ドアに一番近い席から二つ目を見ている。

一方、その席に座って、肘を付いて顎を載せ、何気なく朝の廊下を見ていた孝介は不意に信じがたい人の姿を捉えると、近づいてくる彼より先に驚きの色を顔一杯に浮かべていた。その人物と視線がかち合う瞬間まで、その眼はずっと大きく見開かれたまま瞬きの一つもしていないかと思われた。ただ、孝介のほうの心臓は、あちらの足が一歩踏み出されるごとにドクンと一つ、熱く鳴った。


「……、」
(どうしてお前がここにいるんだ。)
先輩は言葉を失い、愕然と立ち尽くした。
「……。」
後輩が、黙ってそれを見詰めていた。
(なんでアンタがここに来るんだ?)


良郎の頭の中は、まったくの混乱状態に陥っている。登校第一日目からとんだ青天の霹靂だ。
それに対する孝介が、予期せぬ事態に直面したとはいえさほど硬直していないのはやはり、学校生活初日からこの時点までですでに何日か経っていることによるだろう。





5.

入学式のあった日こそ孝介も気付かないまましまったが、次の日もその次の日も、連続して空席である〈浜田〉の席に関心が向かないはずがなかった。そこで彼は、担任の口から何かしら情報が出てくるのではないかと毎朝その言動をじっと注視してみた。
ところが、教師はいつも教壇から教室全体をざっと見渡す流れで空席を目で拾い確認するだけで、あとは開けた出席簿に早業のごとく何か印を付けるくらいの動きしか見せない。すぐにまた手元でパタンと音をさせてそれを閉じた時には出欠確認は済んでしまっていて、その間、毎日同じ顔でいる。
そんなことが三日も続いて孝介の我慢はとうとう利かなくなった。ショートホームルームが終わると、事実を確かめずにはおられないとばかりに教室を飛び出して、忙し気に職員室に戻ろうとする担任を階段の手前で捕まえた。
「先生、聞きたいことがあるんですが。」
「はい、どうぞ。」
「うちの組の浜田って、どこの中学出身ですか。」
「――ああ、泉は同じ中学だっけね。」
ドクン、と孝介の中にあるそれまでごく薄かった仮説の一つが回答を耳にしたとたんに大きく嵩を増して、胸を衝き上げた。
(やっぱり、先輩じゃないのか? あの人と同姓同名の奴なんて、同じ学年にはいなかった!)

「だけど、……。……ダブった、んですか?」
「まあ、会えば分かることだしね、留年だよ。」
確かに直接顔を合わせれば即座に解決することかもしれない。けれど、肝心の本人が未だ一度も登校して来ないのだから、事の全貌を知る由もなかった孝介からは疑問が湧いて出てくるばかりだ。
「それで、今はどうして来てないわけですか。」
「本人からの連絡では、体調不良、だそうだ。」
ありきたりな理由に心配よりも疑念のほうを強く抱いたが、「そうですか」と答えると予鈴が校内に鳴り響いたのでそこで聞き取りは止めにして、ペコリとお辞儀をしてから彼は教室へと戻っていった。

この遣り取りをした昨日というのがちょうど、二人が再会をした前日ということになる。
こんなふうにして、先に情報を得ていたほうには来たる衝撃に備えた土塁が半信半疑のうちにも築かれていた。


そしてこの日を、孝介はややともすれば散らかって収拾がつかなくなりそうな、些細だけれど自分にとってはそれぞれが大切な思い出の一欠片ずつを心の奥底に捻じ込みながら過ごした。気を抜けば、彼の人との思い出の波に攫われてしまう。その海面は目が眩む強烈な光を反射していて、痛いほどの輝きは長時間の直視に耐えないくらいに白かった。その半面、どうやらその下には光の届かぬ暗くて冷たい深海が、足を掬って絡み付く藻草をユラユラと揺らしながら広がっているらしい。
自分の尋ね人が今頃どこを漂流しているのかと思うと、孝介の心はざわついた。
(留年って、どういうことだ――。)





6.

さて、人魚や幽霊を待ち構えるみたいに待ち人の存在を完全には肯定しきれずにいた孝介が、何も知らないで登校してきた当人のその第一声に緊張していると、
「……、よう。」
と、どうにか咽喉の奥から引っ張り出してきたらしい挨拶を短くされた。久しぶりで聞いた声は、最後に聞いたそのままだった。
(本物だ。)
耳の奥の残響一つに、身も心も引き千切られそうになるところを掻き集めた自律心でぐっと抑え付けながら、孝介が軽く会釈を返した。

さっぱり事態を飲み込めていないその人は自身の置かれた状況に小首を一つ傾げると、久闊を経て実現した再会に対してそれだけの反応で切り上げてしまい、教卓に歩み寄って、入学式の日に孝介がしたと同じようにそこに貼られた座席表から自分の四角を見つけ出し、対応している席へと向かった。同じ場所に引き返しては、来なかった。
その場に取り残された方は顔も動かさなかったが、目だけは密かにその姿を追えるだけ追っていた。

――「あ、浜田君? おはよう。」
視界から見切れてしまうと、今度は代わりに話しかけられているガヤガヤした音が耳に届いてきた。
――「やっと来たんだ、おはよう。ねえ、どうして今日まで来なかったの?」
――「おはよう。俺、後ろの席なんだ。よろしく。」
次々に元気のいい挨拶と底意のない質問を浴びせ掛けられている。

――「いやー、おはよう! 浜田です、よろしくなー!」
――「やっと来れたよ。入学式当日の朝から、謎の高熱に襲われてさあ。焦った、焦った。」
――「皆、仲良くしてクダサーイ! 浜田デース!」
孝介と交わした挨拶からは想像も付かない明るさと気軽さでもって良郎はその一々に答えて回っている。出くわした後輩には見せなかった快活な笑顔を、ニコニコと惜しみなく浮かべていた。
その破顔に引き寄せられるかのごとく彼のぐるりには人が集まっている。それを肩越しに感じながら孝介はいつまでも、
(本物だ、本物だ。)
と一人思っていた。


朝のショートホームルームのあと、一限目を終えて二限目を過ぎても二人のあいだに接触はなかった。といっても、そんな表面的な動向とは裏腹に、傍目には知れない内心はどちらもお互いのことで一杯になっていた。

――どうして泉がここにいる? 幻覚じゃない。現実に、あそこに座っている。西浦の椅子に座っている。――あいつがここに入ってくる理由はなんだ? 単なる学力面の話か。それで、俺のことは避けて通れなかったのか? もしかして、俺がいることを知らなかったとか……、しかし、朝のあの出方はそんなふうでもなかったような……。――ああ、それにしたって本当に、全体何をしに来たっていうんだろう? ひょっとするともう二度と会うことなんてないくらいに考えていたのに。――

――留年したというのは、どうやら本当のことらしい。俺の知らない一年のあいだに何があったというんだろう。それはそれで気になるけれど。――それにしたって困ったぞ。もう二度と言葉を交わすこともないくらいの覚悟でいたのに。――俺の計画では、廊下を移動するあの人をたまに遠くから見つけたり、元気でやっているのかどうかくらいの噂を聞けたりすればそれで、というはずだったんだ。よりによって、なんでまた同じ組になんてなっちまうんだろう。――


鐘が昼休みの開始を告げて鳴り渡った時にやっと、良郎は後輩に声を掛けて教室を出た。
後に従う孝介は、この時初めて校舎が屋上に出られる構造を持っていることを知った。










-続-
7.〜10.>
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