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置いては往かない。

浜←泉 再会

<1.〜6.
貴方が好きだと叫びたかった



7.

「久しぶりだな。」
「久しぶりス。」
「元気、だったか。」
「……。」
「マア、元気そうでよかったよ。」
「……。」
「……泉さんも元気に」と良郎が孝介の兄にまで世間話を展ばそうとしたところで、
「関係ないだろ!」
それまでも決して穏やかではなかった後輩が語気を荒げて気色ばんだために、先行していた脳天気な言葉はそこで遮断されてしまった。

「元気かどうかなんて、今は関係ないでしょう。まして兄弟のことなんぞ知ったことじゃない。それよりほかに……もっとほかに、話すことがあるでしょう。」
「ほかに。」
屋上を囲う高い柵越しに、校外の町並みを見るともなしに見ながら良郎は、ぶつけられた文句をただボソリと繰り返した。
その煮えきらない態度に孝介の感情は一気に沸点へと達してしまう。注意を引きつけたくて手近な金網を叩く。カシャン、と不穏な音が出た。彼は先輩を正面に捉えて立っている。それなのに、二人の胸は向き合わない。

「ダブったらしいっスね。」
鋭い声で、孝介が本題を突き付けた。
彼らのあいだを春の風が抜けていく。
「一年の廊下を、それもこっちに向かって歩いて来るものだから驚きましたよ。」
「俺も驚いたよ。まさかいるとは思わないもの。」
「どこに入学しようが俺の自由ですよ。それよりアンタだ。どうしてダブってるんですか。」
「……どうしてって……。」
そこでちょっと言葉を途切れさせた人の、「馬鹿だから、かなあ」とさも他人事のような言い草が、過敏になっている孝介の神経を昂ぶらせた。
「ふざけるな!」
握った拳をやり場なく震わせて、目を合わせようとしない相手を一方的に睨め付ける。
「俺は真面目に話しているんですよ!」
これを機にして、彼はさらに遠慮なく、溜まりに溜まっていたモヤモヤを吐露した。
「普通にやってりゃアンタの頭で落ちるわけがないんだ! そもそも西浦はアンタの成績に見合ってないんだから。中学時分、俺とアンタじゃ明確な開きがあったのを、俺はちゃんと分かってるんですよ。」
それを受けて、良郎は苦笑した。
「そうは言っても、落ちたものは仕方ないじゃない。」
「大体、一年前にどうしてここに決めたりしたんです。わざわざ学力に釣り合わないここに来たのは、……!」
「……。」
責められている男が、あえて先を促すような真似はしない。そうして、急に口を噤んだ相手の噛み締めた下唇を淋しそうに眺めている。

口にしたくない核心を言い淀んで、勢いを失した後輩は地面に目を落とした。それでも、ここまできたからにはもう引き下がれないと気を奮い立たせ、噛んだせいで赤みを増した唇をまた開いた。
「畢竟、珍しく野球部のない学校だったから、でしょう。」
鼻から静かに吸い込んだ息をハアーと深い溜め息に変えた人は、おもむろに彼に向き直った。
「あのね。俺だって、自分が受験しようって学校に野球部が近々開設される予定だってこと、それくらいはいくらなんでも知っていたよ。」
「けれど。」
その出だしを聞いて、なんとか当たり障りのない問答に収めようとしていた先輩はさすがに弱り顔になった。


ここまでのらりくらりとした態度を通されれば、聞き手も察してそれ以上は立ち入ないというのが一般だ。だのにこの後輩ときたら、いつまで経っても、どこまででも、自分が納得するまで食い下がってきて終ろうとしない。こちらの切り上げたいという雰囲気などまるでお構いなしでいる。
こんな人間は、良郎の周りにはこの後輩一人ぎりだった。そして、その性質が今でも少しも変わっていないことを彼は悟った。
「『もしかしたら、自分の在籍する三年間では野球部が発足しないまま卒業を迎えるかもしれない』という可能性でもって、ここを選んだんじゃないですか。」
本音と建前の通用しない孝介のまっすぐさが、眩しくて懐かしかった。良郎は心持ち目を細めると、
「だとしたら、だとしても、か。それがどうしたっていうの」と聞き返した。
「どうもしません。」
激しい主張が続くのかと思いきや反対とも取れることをいきなり言い放たれて、持て余しだしたところへ、
「アンタのことが知りたいだけだ!」
と、痛切な語勢で付け足された、その声は微かに涙ぐんでいるようでもあった。





8.

孝介は、何に対してだか分からなかったが、ただ無性に悔しかった。
目の前の人の両耳にボコボコと付いているピアスが気に食わなかった。その彼が留年していたことも愉快でなかったし、白い廊下をこちらに向かって歩いて来ていた時の、昔とは違うように感じられた顔付きも、纏っていた空気も、一年の年の差も、そのどれもがことごとく気に入らなかった。
あの時、廊下に現れたこの人が、どうしようもなく孤独に見えた。歩みの数歩先を捉えているのか、その伏せられた目がどうしようもなく悲しげだった。それは初めて見る、孝介の知らない〈先輩〉の一面だった。
それなのに、自分と対面を果たした直後に皆とわいわい喋る姿は、中学時代を彷彿とさせるそれだった。孝介の知る〈先輩〉の周りには、こんなように自然と人が集まっているものだった。そうして先輩は、確かにその真ん中でいつでも楽しそうに笑っていた。それを孝介は二年間、ずっと見ていたのだ。
ここに出来た落差を、可愛いこの後輩は肘の故障のせいばかりだと思っている。

「俺たち一年生だけで、人数が揃ったんです。」
「そう。」
昼休みの屋上に影と光を創り出しては惜しみなくそのバランスを崩して遊ぶように、春の雲はゆっくりと太陽の前を流れてゆく。
「今年から、野球部があるんです。」
「ウン。」
腕組みをして、良郎は肩から柵に寄り掛かっている。打てど響かぬ相槌は相変わらずだ。
「……先輩は、入らないんですか。」
「俺はもう、やれないよ。」
「やらないんじゃ、ないですか。」
冴えた指摘に胸がキリリと絞られたように痛んだが、
「そうだな、ウン。やらないし、やれないよ」とあくまで平静に返した。自分よりも、黙ってしまった後輩のほうが見ていて辛そうに彼には思われた。

「なあ、泉。」
良郎はユラリと柵から離れ、覗き込むようにして、下を向く人に話しかける。
「これからはもう、『先輩』って呼ばなくってもいいよ。」
縁を切る、というとてつもない意味がちらついて、弾かれたように顔を上げた孝介の双眸は不安げに揺れた。
「敬語も、なくっていいよ。」
「……?」
「つまり、俺とお前は同じ学年なわけだから、その体で接してくれということだ。」
「……だけど、……。」
「『しなくていい』というか『そうして欲しい』という、お願いだよ。」
戸惑っている元後輩に、元先輩はかつてと同じ気軽さで応じてやる。そうして、
「端から年上だと知れたら、どうしても距離を縮めにくくなってしまうだろう? 俺だってこの学年に混じって友達百人作りたいのさ。分かるだろう?」と戯けた調子で説明した。
渋面をどこか拗ねたような面持ちに変えたが、それでもまだ納得しかねるといった風情で孝介は問うた。
「先輩。俺がいたら、学校に来にくかったり、するんですか。」
「しないよ。」
答えた良郎の声音は、とても優しいものだった。


「俺、ここで野球やりますよ。」
「ああ。」
颯と一陣の風がまた、二人の頬を撫でて去った。
孝介はしばらく言葉を待って、また自分から会話を繋いだ。
「三年間。」
「ウン。」
「……。」
「……。」
「先輩はしない。」
「……。」
「俺は、する。」
「……。」
良郎は、相手が話の内容を整理して、ちゃんと飲み込もうとしている、そういう作業で口を動かしているのかと思っていた。
「……。」
「……。」
「俺は――。」
「ああ。」
「頑張れって、言ってくれないんですか。」
「っ……、」
面喰らった彼は咄嗟に声が出なかった。
孝介は、その黒い瞳でまっすぐに目の前の人を見据えている。空虚な受け身の頷きはもうたくさんだった。


「……泉、ごめん。」
それは、根負けして腹の底の一物を引き摺り出されてしまったような応答だった。こんなにも息をするのが苦しくなかったら、その台詞でさえなかったら、良郎はきっと大抵の要望に副って振る舞えていた。
「俺には言えないよ。」
「どうして。」
「言う資格が、ないからだよ。」
「……なんスか、資格って。」
「人に『頑張れ』なんてたいそうなこと、言えた義理じゃないんだよ。」
参ったように彼が笑った。
孝介は目を走る血管が、カッと熱くなったのを感じた。
「俺はアンタに『頑張れよ』って言って欲しいんだ! 資格もへったくれもあるものか!」
そのまま感情を抑えきれずに、自分よりいくらも上背のある男の胸倉をグイと掴んで力任せに距離を詰める。よっぽどでないと年上に対してこんな行動は起こせない。頭に血が上っている彼は、伸るか反るかという境目にいた。「俺が言って欲しいんだ、そこになんの問題がある!」

この年下の至って純粋で猛烈な剣幕に襲われて、良郎の最奥にある柔らかい無防備な心の一帯は、身体が揺さぶられるよりもっとガタガタと震えて、荒らされて、煽られて、燃え上がってしまいそうになった。強く吹き付ける新しい風に、心の原野が乗っ取られそうな感覚だ。
彼は、尾根を越えて、河を越えて、崩壊した城を越えて、棄てられた村を越えて、海を越えて、夜を越えて、何処までも、何処までも、吹いてくれる風を想った。

――燃え上がる俺の心は、一体何色をしているだろう。

「俺なんかに応援されてさ、泉はそれで、奮い立つの。」
「目の端で愚図愚図とアンタに燻ぶられていられても、目障りで邪魔なだけだって言ってるんですよ!」

――この風は、いつも俺に新鮮な空気を渡し続けてくれるのだろうか。

――俺は、絶えない炎になれるだろうか。

――そんなら次に迎える終焉は、この身を熾した同じ風によって吹き消されて終うのがいい。





10.

伸びた前髪に表情を隠す人の沈黙を、孝介はてっきり自分に業腹だからだと早合点した。怒鳴り返されるでもなく、振り払われるでもなく、そうしている間に我に返った彼は、それで、
「あのう……」と暴言について、歯切れの悪い釈明を始めた。「今のはその、本意じゃないです……から……。」
「……。」
「すみません、口が滑ったというか、ああ違う! 詞の、綾? あの、先輩、」
良郎は、惑う彼の背に腕を回すと思いきりの力で抱きしめた。そうして、その肩に額を押し付けると堪え切れずにクックと笑った。血気盛んに啖呵を切ったと思えば、はたと止んでしどろもどろに早変わりする。そんなところを、可愛いと思わずにはいられない。
「とりあえず、その『先輩』の廃止と、敬語の撤廃。ね。」
肩口で笑われるたびに、掠めるように首筋を触れてゆくその髪の不用意さに孝介は閉口した。ムスッとした様子なのは多分にそのせいだったが、とにもかくにも密着を逃れつつ、
「だったらなんて呼べばいいんです」と具体的な今後について訊ねた。するとすぐさま、
「だから。」
と、たしなめるような目付きをされた。人差し指を鼻先に持ってこられて、慌てて、
「あ。良いん……だ。」
と言い直す。
元先輩は満足そうに頷いた。その眼の奥のずっと奥には、なおも陰鬱な薄い膜が人知れずへばり付いたままだったが――。



そんなことがあったしばらく後。部活に出ようと放課後の校内を移動していると、「いずみー!」と孝介を呼び止める大声がした。(この声は)と思ってその方向へ振り向くと、案の定、良郎が手を振っている。変な格好をして。
まるで応援団のような衣装に身を包んで「やっほーい」と騒いでいる人物に不審の視線で応えると、孝介は踵を返してまた歩きだした。
良郎はその背中に一言、
「頑張れよ!」
と声を送った。










終.
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