企画text03_2
此処に眠る。
| - | 子供化 |
| <1. |
| 困らされる |
2. 二十年も時が巻き戻ってしまった恋人の左目は、固く閉じられている。それは本人がどれだけ力んでも、他人が指で抉じ開けようとしても決して開かなかった。 火影室からの帰りがけにその旨を補足されたイルカは、家へ着くと、封じられた左の瞼にそっと指を当てた。 「痛くはないんですか。」 「うん。開かないだけ。」 「そうですか。」 イルカはカカシを引き寄せた。小さい体は、すっぽり彼に包み込まれてしまった。 なぜ身を寄せ合うのだか、心意を汲めるほど肌の触れ合いを経験していない人は相手の行動を不可解がって、腕から逃れようとした。 「な、なに、離れて、え、なに……怖い……!」 「カ、カカシさん。すみません。落ち着いて。嫌だったならもうしません。何もしませんから。怖いって、俺が、ですか。」 「そりゃそうでしょ、意味不明な距離の詰め方してくるんだから。なんでくっ付いたの、今。」 「普通、するでしょう。こういう時。」 「こういう時って、どういう時。普通って、誰と誰よ。」 「うん……と……。」 一般的な親和表現としても通じず、かといってまさか恋人なんだと特別な関係性を明かす訳にもいかない。現在に取り残された男は、工夫を巡らせた。 「なんていうか、……大切に思ってるからですよ、貴方のことを。」 まだよく解からないというカカシの気持ちが、傾く小首に表われていた。 「怖がらせてしまって、すみません。」 「別に怖がってない。意味が分からないって言っただけ。」 「もう、しませんから。」 「だから別に怖がってないって言ってるでしょ。意図が掴めなかっただけなの。」 「そうですか。」 むきになる語気に失笑したイルカは、落ち込んでゆきそうな気分を無理矢理奮い起こした。 「さて。そろそろ夕飯にしましょうか。コロッケを買ってきたんですよ。」 そうして台所に立つと、カカシも当然の顔をして立ち上がった。 「俺の分担は。」 「え、ああ、手伝ってくれるんですか。そうだな、じゃあ。」 「配膳を任せようかな」と言ってそれぞれの分を食器棚から出す。半分はカカシの普段使っている物である。 「こっちがカカシさんのです。んで、俺のがこっち。」 並んだ茶碗や湯飲みを左右で見比べたカカシは、表情のないまま淡淡と訊いた。 「そうでなきゃいけない決まりでもあるの。」 「え。」 「なんでこっちがイルカで、こっちが俺になるの。この家にあるのに、全部イルカのじゃないの? たまたまそういう振り分けにしたっていうんじゃなくて……俺の、って?」 「……。」 「分かりにくい? だから、……えっと……。」 「カカシさんの、専用の食器なんですよ。これは。」 「……。」 「家族みたいなもんだから。」 「……ふうん。」 そんな遣り取りがあって箸や皿を用意し終わると、少年は居間に引っ込んだ。 味噌汁の味をみて火を止め、イルカが台所から様子を窺った。 「飯の盛り付け……あ、こら。」 幼くなった彼は背を向け窓辺に立って、とっぷり暮れた外を眺めていた。振り返った手に、齧られたコロッケがあった。口ももぐもぐ動いている。 「摘まみ食いしたな。」 「したよ。」 「勝手に食べ始めないでください。あと、立って食べないで。まず座る、ほら。」 「ん?」 「さあここへ来て。その手掴みも、駄目ですよ。」 「……?」 口煩い大人の頂きますという合掌に合わせてイタダキマスと繰り返した少年が、今度は箸を握って使おうとする。教育機関に身を置く性で見て見ぬふりができない大人は丁寧に持ち方から教えた。 食器が鳴る。会話はない。 七つの子は同じ卓袱台を囲う人間などいないかのごとく黙々と一人で食べ進めている。卓の影や皿の下にぽろぽろと飯がこぼれた。 視線を合わせない子はふと手を止めて、 「俺の家には自分の食器……って、いうのがないから……」と唐突に、流し台での話題を再開させた。「……なんだか、家っぽい感じがする。こっちのほうが。銀色じゃないし。」 その声は、とても控えめで、遠慮がちなものであった。 (ああ。そう言えば、カカシさんの茶碗を選んでた時に……。) ――うちは、食堂とまったく同じ方式だったよ。割れない食器類も宿営地のお下がりだったしね。だからこういう家庭っぽいの、初めてだ。 よく知る人と同じことを言う目の前の少年は、やはり紛れもなくその人なのだとイルカは思った。 そのあと、腹が膨れたところで、風呂に入るようにと着替えを持たされたカカシが烏の行水でさっさと上がってきた。 「ちょ、ちょっとカカシさん!」 やけに早いのが引っ掛かり、そちらをちらっと確認したイルカは手元の洗い桶に張っていた水を止めて、慌てて走り寄る。 「ボトボトじゃないですか。ちゃんと拭いてからにして下さいよ、歩き回るのは。」 「なんで。」 「床がびたびたになる。あ、いや、今の季節なら、風邪を引くからかも。それより異様に早いですね、ちゃんと洗ったんですか。」 「うん。」 「言ったな。どこを。」 「全体。」 「ったく、アンタ昔っから風呂がきら……ああ、み、耳の裏……!」 「……?」 バスタオルを被せてばさばさした銀髪の水気を払ってやっていた彼は、なんと少年の耳の裏に垢がカマキリの卵みたいになってこびり付いているのを発見した。二秒のあいだ目を瞑って、かっと見開いた教師は己に気合いを入れた。 「入り直しです。」 「え!」 「俺も一緒に入るから。」 「なんで?!」 「全然洗えてねえんだよ。」 「嫌だ! 嫌だ、断る、もう嫌だ、帰る! 自分ちに帰る!」 「オラこっちだ、逃げんな。」 ひょいと軽々担がれ、放り込まれた洗い場でカカシは隅から隅まで入念に泡で磨かれ、滝のような湯を頭からぶっ掛けられて、散々な目に遭った。 やりかけであった洗い物をそっちのけにして本当に一緒に温まることにしたイルカは、一息ついた湯船の水面で手拭を膨らませた。 「じゃじゃーん、クラゲ〜。」 「は。」 何か一つやるごとにいちいち駄目出しされていた方は湯に浸かる段ともなると、体をきゅっと畳んですっかり臍を曲げていた。 「海にいるやつですよ。白くて、浮かんでるんです。」 「クラゲは知ってるよ。何やってんの嬉しそうに、ってこと。子供みたい。」 「う、うっせえ。遊んでやってんだろ。」 「子供扱いするな。失礼だ。」 「……腑に落ちぬ。」 そんな世話人の大仰な溜め息が天井にワンと響いた。 「それにしても、その歳でもう海を見たことがあったなんてなあ。」 「イルカは見たことないの。」 「ありますとも。雷ノ国に遠征したことあるんですよ、俺。その道中で、こおんなでっけえクラゲが漂ってるのも見ました。しかも大群。」 「ふん。なら、光るクラゲは。」 「え、何それ。」 カカシ少年の面がここでようやくうっすら崩れた。 「教えなーい。」 「く。意地悪だなあ。そういうとこ、そのまんま。これでも食らえ、水遁!」 「むあ。」 ぴゅっと勢いよく、一本になった水が大きな手の中から飛び出した。 「ちょっと。もっかいやってみて。」 「うん、もう一回? いいですよ。こういう形に、こうやって手を組んで、この辺りで構えて、こう!」 「こう!」 さっそく習得した小技はそのうち大胆な仕返しになっていき、ばしゃばしゃと暴れながら湯気を立たせて二人で風呂を上がる頃には湯船一杯あった湯は、膝より下に減っていた。 並べた布団に入った時、イルカは隣の布団ににゅっと腕を差し込んだ。 「カカシさん、手。」 「テ?」 「手ぇ繋ぎましょう。」 「え、なんで。」 「いいから、いいから。」 「嫌だよ。じっと寝るだけなのに、なんでそんなことしなきゃならないの。俺、誰の手も繋ぎたくないし。」 「……嫌ならすぐ離しちまって構いませんから。」 「……。」 しぶしぶ手を貸すとそこを覆った体温が、血潮にのって運ばれるように華奢な体の端々に満ちた。謎の心地良さをじんわりと感じたか感じないうちに、カカシはあっさり眠りに落ちた。それも、深い、深い眠りに落ちたのであった。 「それじゃ、俺はアカデミーへ。行ってきますね。」 「分かった。」 「昼飯なんですけど、明日からどうするか、また何か考えますから。とりあえず今日は適当に、冷蔵庫を漁るなりこれで出前を取るなりして下さい。」 「うん。」 物分かりのいい笑顔でもなく、かといって我慢している声色でもない。カカシの態度は業務連絡を受けるのと変わらなかった。 「じゃ、行ってきます。」 大札を一枚卓袱台に置いてイルカは出勤した。 ガチャッと外側から鍵を掛ける音がする。 沓脱ぎで見送った留守番の子は、カン、カン、カンと外階段を下りてゆく足音も聞いていた。 溜池の方角には霧が立ち込めている。空は晴れない。 電信柱を一本過ぎたあたりであった。イルカは立ち止まる。それから、忘れ物をした人のような素早さで踵を返した。 今しがた下りたばかりの階段をカンカンカンカンと踏み鳴らして一気に駆け上がり、もつれそうな手付きで鍵穴に鍵を挿す。歩き始めたはいいが、気に掛かってどうしようもなくなったのである。 玄関戸をバッと開ける。と、その気掛かりの元が、まだそこに突っ立っていた。 「びっくりした。」 イルカではなくカカシのほうが、そう言った。 「怖いよ。なんなの、イルカって。」 舞い戻ってきた行動に虚を衝かれた彼は、相手の尋常ならざる緊迫感を訝りもした。「行ったんじゃ、なかったの。」 「……。」 走った心臓は不穏な動悸にやられて、どきどきしているのに嫌な冷や汗をかいていた。イルカは、置いて行った子が玄関から動かずにいたことに対しても、そして、その茫然とした立ち姿がまるで魂が抜け出たようであったことに対しても言葉を失くしていた。 「なんで勢いよく戻って来たの。変な人。」 「やっぱり、一緒に行きましょう。」 やや間を置いて、誘われる行き先に見当の付かなかったカカシが聞き返す。 「どこへ。」 「アカデミーです。俺が、心配なので。」 朝礼が始まる前にイルカが連れて行ったのは保健室であった。 「お早うございます、ユタヤ先生。」 「お早うございまあす。ん、朝っぱらからどうなさいました、イルカセンセ。」 虫歯予防喚起の貼り紙を作成していた手をとめたのは、二十歳そこそこの青年である。目の下に黒子がちょんと付いている。 「勤勉ですねえ。俺も見習わねえと。と、実は、先生に折り入って頼みたいことがあって来ました。こいつを、今日一日こちらで預かってはもらえませんか。あの、ちょっと訳有りで。」 「へえ、確かに開店準備中に患……ああ、いや、生徒さんが来るのは珍しい。」 「それが、その、生徒でもないんですが、多分健康なんで、お手間は掛けませんから。どうかお願いします。」 「多分健康。」 オレンジとレモンの色が層をなした瞳で、愉快そうに少年の眼帯を捉える。眼帯の他は、鼻先をも覆う布地のせいで顔色の良し悪しさえ見て取れなかった。 「構いませんよ。どおぞ、どおぞ。んでキミ、お名前はあ?」 「な、名前……」と焦るイルカを尻目に、跳ねる銀髪の子は、 「うみのです。」 とはっきり名乗った。 「おや、親戚かなんかっスか。」 「そうです。」 息を吐くように作り話をする彼にたじたじとなったイルカは、時計を気にして誤魔化した。 「あーっと、じゃあ、そろそろ朝礼なので。ユタヤ先生も移動されますか。」 「そっスね。ご一緒しまあす、つってもお隣ですけどね。あはあ。キミ、ちょっとここに居てくれるかな。」 「カ……あ、あー、昼休みには必ず様子を見にき……来るから。」 カカシの点頭を見届けた教師と白衣を羽織った臨時教諭は、肩を並べて壁一枚隔てた教員室へと移った。 それから、学級担任の教師は二階に向かい、一人ユタヤが帰ってきた。 彼は預かった子に、「ここでゴロゴロしておいで」と奥のベッドを一つ与えてカーテンを閉めた。が、暫く経つと背後から、ギ、ギ、と変な音が聞こえてきた。不審に思って「開けるよ」と声を掛け、中を覗いてみると、暇を持て余した少年が慣れた動きで腹筋をこなしていた。変な音は、回数に合わせてベッドが軋む音であった。 「おーい。元気が有り余ってんなら、こっちへ出てきてても俺は気にしないよ。」 「筋トレしててもいいってこと?」 「あッはあ、それはやめて。」 「ねえ、昼休みっていつ。」 「ううんとねえ。あと三時間はこないかな。」 はあ、と子供らしからぬ白けた溜め息を吐かれてユタヤは、照らされると濃い紺色に光る短髪を掻いた。今日は白い電灯を点けた室内のほうが校庭より明るい天気である。 昼休みになって、約束通りイルカが様子を見に来た時には、カカシはすやすやと眠りに就いていた。 「やあ、アカデミーって所は、奥が深いっスねえ。」 どん引きの心情をオブラートでぐるぐる巻きに包まれたうえで「好きにさせといて大丈夫スかね」と訊かれたイルカは、午前中の経過報告を受けて共に引きながら平謝りした。 放課後、買い物に寄った精肉店の十字路を、ガラガラガラガラと直進する大八車があった。夕刻に曇天が重なって人夫の目が追いつかなかったのであろうか。一分一秒を争う気勢で猛烈に回る車輪が、そこに残る水溜まりをバシャンと踏んで過ぎた。昨晩の雨で往来のはたがぬかるんでいたのである。たまたま水溜まりの真横にいたカカシはもろに泥水をひっ被った。 それは、低い背丈には十分すぎる泥っ跳ねであった。本来ならばこんなことくらいでどうにかなるなど考えられないことなのに、愕然とした彼の心持ちは瞬く間にぐらぐら、不安定に陥った、それがすぐに、胸のどこかでキュウとする痛みに変わった。 買い物を終えたイルカが店の前でべそをかくカカシを見付けて慌てて駆け寄り、例のギュッと腕で囲う型を用いてきた。 (もうやらないって言ったのに、またしてる……。) 呆れながら、カカシの芯はくにゃっとした。 事の顛末を話して聞かせると、「悪い台車ですね」と代わりに断じてくれた。イルカのその科白で初めて、どうしてなんの非もない自分がこんな目に遭わねばならないのかと思った。思ったカカシはそこで、何故だかはたと、傷付けられたという気がした。そしたら涙が溢れてきた。胸のどこかがヒューヒューする。瞬きをするたびに涙の粒がぽろぽろ、ぽろぽろと零れて落ちた。 「俺、何もしてないのに……。」 カカシは、そう繰り返した。街頭であるというのに上手く自制が利かない。涙が止まらないどころか、鼻をすすっていたらとうとうツウと鼻血まで垂れてきた。 「そうですね。カカシさんはなんにも悪くない。」 止血しながらイルカは何度も付き合った。その声も、体の熱も、とても優しい感じがしたから、家に帰ったカカシはイルカが動くと自分も動き、その日は、接点がよく分からないものの、己の監護役を引き受けている男の近くに居た。 食後に一服していたイルカは、傍らの子供をじっと見詰めた。 「俺さ、たまに、君に会ってるよ。」 立て膝してひどい猫背をつくり、畳に広げた新聞を三面記事から逆に繰っていた子供は彼に目を向けた。 「たまに会ってるんだ。カカシさんの中にいる、君に。」 その深くて柔らかな声音が、男の富んだ情感をよく表わしていた。 「俺の中の、俺?」 「下らないことで俺を負かそうとする時。それから――いつもより赤い月を見付けた真夜中。蛍を捕まえて、放った――初夏の宵とかな。――君に会うたびに、こうしたくなるんだよ。」 顔を上げたカカシの頭を、伸ばした大きな手でワシワシと撫でて、そうして彼は、ふふ、と笑った。「大人のカカシさんは、これをすげえ嫌がるんだけどな。」 「俺も。ヤだね。」 「なんだそうなのか。じゃあはなっから、カカシさんはこうされるのが嫌なんだ。」 「頭がボサボサになる。」 「ははは。いかにも言いそうなことだなあ。アンタ、されようがされまいがボサボサだろうが。」 里はどう言うか知らないが、イルカは、このままのカカシと生きていくのも悪くないのではないかと、心の片隅で考えてしまっていた。 -続- |
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