単発text11_3
此処に眠る。

- 既往

<3.〜4.
宙の音色で這う蝸牛



―― (二) ――

5.

八月の白昼、イルカはカカシの家にいた。先ほどから、銀糸のような髪に鋏を入れている。
細かい毛が飛ばぬよう扇風機を切っているせいで、屋根の下といえどもそれなりに暑い。頭に付いた毛を洗い流すのにもちょうどいいから、これが終わったら水を浴びろと助言した彼は、床屋へ通わずに自分の手で散髪することに慣れていた。自宅には三面鏡があるし、櫛と大小何本もの髪留め、それに小指かけの付いた理容鋏やすき鋏までを揃えて持っている。
茶飲み話のなかで彼は、それらを巻き物みたいにくるくる丸める道具入れに収納しているのだとカカシに教えた。「持ち運べるのか」と問えば「造作ない」と答え、「そんなら俺の髪でも貴方が切れる訳ですか」とさらに尋ねると、「金を取れる腕でなくっていいなら」と肯った。
それでイルカは、興味津津の男に応えて散髪道具を持参したのだった。

仕上がりをどうするかについての打ち合わせをしていた最中に、ごわつく手触りをいとおしがりながら耳の上を掻きあげて「刈り込んでみますか」と提案したのはイルカだった。カカシは慌てて、差し込まれた手をしっ、しっ、と殊更に敵愾心を剥きだして追い払った。
「変えなくていいです、むしろ別段このままでも……。やっぱりよそうか。」
「はは、冗談ですってば。襟足と、ここいらを短くして、あとは量をすいてあげます。」
「くれぐれも変にしないで下さいね、イルカ先生。」
「仰せのとおりに。」
下命を拝した者が真率な顔を作り、おまけに左胸に掌を置いて丁重なお辞儀をした。忍の礼式ではない。おちゃらけている。
「もし変なふうになったら伸びて元に戻るまで引き籠ってやる。火影様がやって来たって俺は一歩も表へは出ませんから。」
「天岩戸か。現状じゅうぶん変でしょうに。」
指にひっかけた鋏をくるっと回した彼は、今度はぞんざいに返事した。
「ボサボサで箒みてえ。さ、ともあれあんまり変えないように、こざっぱりさせましょう。」
「ええ、ともあれあんまり変わらないように頼みます。」
イルカの指が頭皮を這う。大きな手が、濡らした髪を掬う。カカシの心臓はひとりでに張りきって毛細血管を開かせた。


折り畳み椅子に尻を付けた彼は両目を瞑り、人形のように動かない。素足は広げた新聞紙の上だ。
耳の間近でシャキン、シャキン、シャキン、と思いきった音がする。蝉が網戸越しにわんわん輪唱している。その合間にパタパタパタと蒲団をはたく音がくぐもったメゾピアノで入る。ジャリ、ジャリ、サクサク、タッタッ、タッタッと、乾いた往来の足音も数小節にまたがり総譜に参加してはデクレッシェンドをまもって必ず遠ざかる。切り始めるとイルカは静かになった。
暑さ半分みなぎるやる気半分で腕まくりした彼の十指に任せて、されるがままになっている状態が存外心地好い。カカシはうっそりとして偶の閑日にひたっていた。



無頓着をきわめた髪を髪留めで数箇所に分け、もみあげを整えたあと剃刀から持ち替えた鋏で黙黙とイルカが作業をしていると、リンロン、と呼び鈴が大きく鳴った。カカシの寸暇を奏でていた各パートは一体感を破られてあちこちに飛び散ってしまった。
「おっと、誰かな。」
「さあ、誰でしょう。先生、代わりに出てもらえませんか。」
「それもそうですね、了解。」
住人は散髪用のケープを被っていた。ケープは布の端に針金を一周仕込んであって、上腕のところでめくれあがったなんとも珍妙な形をしている。降ってきた髪がその折り返しの谷に溜まる仕組みだ。
つるつるの衣を頭からすっぽりと被り、中央の穴に首を通した彼は、ふわふわ揺れる傘の下から腕と胴をにょきにょき生やした変ちくりんな宇宙人みたいだった。自力の散髪時には腕を動かせなくて使えないからイルカも装着した姿を初めて見た。そして、その噴飯物の不格好さに目を逸らして肩を震わせたのだったが、笑われたほうは「そんなに面白いですか、合理的な形ですね」と涼しい顔をしていた。
事前にそんなことがあったものだから、カカシは人前に出ることを憚ったのだった。

さて、合点したイルカが玄関を開けると、外廊下には女が立っていた。
生きとし生けるものがさかんに生命力を競う季節の健全な日射しのパノラマが、きらきらするその余剰を、へこんだ一室にぎゅっと押しだしてきたようだ。彼女の薄っぺらい華奢な肩とぱちぱち開閉する濃い睫毛をまのあたりに見るやいなや、目を伏せた彼は体裁ぶった意地のみで怒気の漏洩をくい止めた。鼻腔に、バニラに似た濃い香りが充ちる。
これが図書館の女かという電撃的な憶測に体が撃ち貫かれた。
自分より年長で、階級も上である男をつかまえて「宿題はやってきたのか」と確認するような真似は気が引けて、だからつい「あの件には片を付けたんですか」とは聞けずに今月へ繰り越してしまっていた。俺は恋慕されているのだとむきになって過信していた彼の懊悩は、投了の幕切れを迎えようとしていた。


深呼吸のあと一旦中へ引っ込んで、家の主人に来客を告げる。
「カカシ先生。ヤコさんって方が、お見えです。」
名乗られたところでハテと小首をかしげたが辿る記憶の何事かに思い当たったのか作られた渋面は、どう考えても任務にまつわる接点ではなく、色絡みであることを物語っていた。
二股なのか、はたまた三股、いやいっそ五股でも十股でも、いずれにしてもどこのどいつと、どういう関係が現在進行形でもつれているのだか、こうなってはもうはっきりしない。イルカはむかつきと肚の裡の擾乱を押し隠し、かろうじて万事を受け流す寛容を演じつつ、部屋の隅に控えていてもいいものか、中断してその辺で時間を潰すべきなのかを質そうとした。
そうしたら、腰を上げたカカシは取次ぎの傍を通ってさっさと向かった玄関先で、女と立ち話をし始めた。

男を押し花みたいに思い出に閉じ込めてそっくり保管していた陽胡は、その彼の間の抜けた恰好と、眼帯すら外してある目鼻立ちの、知らずにいた美貌の両方に目を奪われた。
「何の用。」
嗅ぎたくもないヘリオトロープに鼻をやられて閉口したカカシはしらっとした目つきと低い声で、しばし固まる彼女に手短なやりとりを要求した。
彼は、素顔を曝して皆が息を呑むのは、単純に初めて目にする物への新鮮味によるものなのだと履き違えていた。だから、たとえ容姿を褒められても、自身への賛辞と巷の人々が交換しあっているお世辞とをずっと混同していた。それに、だれしも長所を持つ。澄んだ白目なり、まっすぐな歯並びなり、あるいは顔の幅に合った小鼻かもしれないし、はたまた高すぎない頬骨であるのかもしれないが、とにかくどこかしらにそれがあると決めてかかっている。よって自分を特段器量好しだとは、彼は思っていないのだった。
「お久しぶり……って、なんて恰好してるのよ。」
「暇じゃないんだけど。」
陶酔に水を差されてあからさまに不機嫌なカカシは、頭にいくつも真っ赤な爪型の髪留めを付けて、安っぽい光沢のある、みっともない形の衣から首を出している。そのうえ、左目に縦の刀傷が痛々しく走っている。にもかかわらず――否、だからこそ却って、長い首や白磁を思わせる肌を持つ、額を露わにした彼の優れた造形は際立っていた。

「もうアンタと俺は無関係でしょう。二度と来るんじゃない。いま大事な人に髪を切ってもらっている。用件は。」
「大事な人? それって、まさか今の……。」
「……。」
陽胡を射すくめる眼は後天性の色違いだ。畏懼される瞳術をつかさどる緋色よりも、硝子玉のような生まれつきの右眼の力が女を圧倒した。存在感の強いくっきりした瞳孔に、冥闇の井戸と繋がっていそうな底知れぬ虚無が潜んでいる。
「え、えっと、そう、あの……。」
凄みのある視線を察するすべはなかったが、声遣いは任務中のカカシの口調とまるっきり同じに違いないという直感が奥で耳を立てていたイルカに働いた。その唖然とする冷ややかさに、申し渡しを受けた当事者でもないのに寒気立つ。お得意の気だてのよさでもって誰彼構わず、おしなべてのらくら接しているのだと思っていた彼は自説の見直しを迫られた。それまでむかむかしていた胸が垣間みた一面によって一変し、戦慄を覚えている。
なぜなら自分の足場がくるりとひっくり返って、あっという間にあの境遇になり果てる可能性も十分に考えられるからだった。我が身に置き換えて聴けば、男の割り切った話し方はあまりにつれない。


「じつはね、アタシの友達で、血継限界の研究部門に勤めてる子がいるんだけどね、カカシさんの、その、車輪眼の、ね、臨床的な、」
「話を遮って申し訳ないけど、待たせてる人がいるんだよ。」
彼女のおろおろ声に微塵も動じないで、男は手を掛けたままいた玄関戸の握りを引こうとした。
「あ、あの、あのね、力に、なってほしいの。」
「もう親切するいわれはないよ。患者じゃないよね、俺。病院じゃないよね、ここ。力にはならない。こういうの、これっきりにしてよね。でなきゃ警務部沙汰だ。じゃあ閉めるよ、ここ。」
潔い戸の勢いに、怪我を避けて女が後ずさる。
ばたんと無情な音がした。そこへ追い打ちをかけたのが錠を下ろす音だった。すれ違ったときと大差ない無表情で、カカシは椅子に座りなおした。

氷刃のごとき緊張感の名残は、身を反転させた一瞬で振り払われて部屋の気温に蒸発した。けれどイルカは、警戒を感覚的に強いる彼の刹那の気配に慄然とした。それは動物を調教するのに発揮されるたぐいの、絶対的な許容のなさだった。対等ではないことを知らしめ屈服させるのに必須な、本能に訴える力だった。言語の不用だった。それは、自然界に則した非人情だった。





6.

脂汗をこっそりぬぐった手にすき鋏を取り、尋常をよそおったイルカは髪切りを再開した。
「いいんですか。」
「なにが。」
「優しくしてあげなくて。」
「……ねえ。イルカ先生。」
呼ばれても、一定の呼吸をくり返しててきぱきと切り進めることにわざと一番意識を集めている。
「なぜ貴方がそんなことを言うんです。」
恋人面するなと言われたも同然の指摘に、彼は甚大な打撃を蒙った。
一方のカカシにとっては、デートする羽目になった顛末を打ち明けた前には「手抜かりだ」と叱った人が、とっとと追い返すのに立ち会った今は同じ口で「もっと手厚くもてなせ」と諌めるのが正反対の方針に思えたので、そこを突っ込んだまでのことだった。が、それにしても訊き方が悪い。
イルカは一心不乱に手を動かす。心境は言明しなかった。二人のあいだに気まずい無言がじわりと生まれた。

「……。」
「……。」
「……今のあれは、なんでもないんですよ。」
「……。」
「病院で、ちょっと。」
「へえ」と無関心な相槌が入る。
「入院していた時に。」
「ああ。」
イルカは一秒でも早く散髪し終えることを目指している。
「廊下の隅で泣いていたところへ声をかけて……いえ、大丈夫ですかって言っただけですよ、看護師に。」
「……彼女、看護師なんですね。」
傷つきながら責任感だけでイルカは鋏を動かしていた。
「当時ね。今は知らない。本当に、それが一度あったくらいで、個人的に遊んだこともないのに、なんで突然訪ねてきたんだか。まさかこんな所へ来るなんて。」
くだらない枝葉は省略したくなる悪い癖に注意して、迂路に神経を割き、包み隠さず事実を伝えようとすればするほどカカシの耳には、己の言が悪足掻きの弁解に聞こえて参った。
ぎこちない空気のひずみを上手く修復できなくて眉根を寄せた彼に、
「図書館の人とは、別件なんですね」とイルカが念押しをした。
「ええ、別人です」と答えると、そこでまたお互いが口を噤んだ。


髪を引っぱられるごとにピンピンする頭皮の小刻みな刺激と、ちっとも緩和しないイルカの雰囲気にカカシが慣れ始めてきた頃、その片方がぴたりとやんだ。
「男前になった。」
そう言った彼の面持ちは能面のようだった。
大ざっぱに撫でる荒さで、髪にさし込んだ手をパ、パ、パ、と動かす。注文どおり、増えた量と伸びた分を切ったくらいで髪型そのものをがらっと変えはしなかった。
恰好悪いケープを脱いだカカシは、新色の紅をさす妖美な女優の全面広告の上をぴょんと跳ねた延長の大股と、爪先歩きでもって洗面所の鏡にできあがりを映しに行った。襟足と耳の周りがこざっぱりしている。
「イルカ先生、素晴らしい腕前ですね。どうもありがとう。」
「どういたしまして。お疲れ様でした。」
ひとまず区切りがついたところでいよいよ、道具をぐるぐるとしまいながらイルカが例の一件を口にした。「……カカシ先生。」
「ん。」
「先月言ってたやつ、どうなったかと思って……、図書館の。」

帰る準備が完了した。これでいつでも心置きなく飛び出せる。
「アー……ええ。ええと……、まだ……。」
「まだ!」とおうむ返しした声は裏返りそうだった。「まだったって、カカシ先生。それでも、どこまでかは進んだんでしょう。」
「いや、あれ以来……手付かずというか、……その……。」
「貴方、どうにかしようっていう気がないんですか!」
イルカはあらかじめ耳障りな返答に備えていた。しかしそれは、内内に済ませておきましただとか、ほかで折り合いがつきそうですだとか、少なくともあの明るい夕べに白状された初期の段階よりか大なり小なり事態は進展しているという前提から出発しているものだった。

「ええと……。」
「……。」
かっとなったりぞっとしたり、不安定にぐらぐら揺れていたイルカの心は言葉にならない叫びを最後に、ここへきてとうとうぽおんと遠くの明後日へ放り投げられてしまった。月で餅を搗く兎の頭上も飛び越えて、彗星の尾のような悲鳴の残響を携えて、もはやいつ彼の胸へ還ってくるのだか。カカシには未知の軌道に乗った、イルカの心は猛烈な速度で飛び去り行方をくらました。
「帰ります。」
「え……?」
「ふらふらしてるのが好きなら、どうぞ一生そうしてろ!」
「イ、イルカ先生。どうしたの、急に……。」
「アアもう付き合ってらんねえ。俺と今後も一緒に居たいってんなら、ちったァ本気でやってくれ。でなきゃ会わねえから! それが嫌なら……もう、会いに来なくっていい!」
乱暴に荷物をひっ掴むと、イルカはばたばたと出て行ってしまった。
カカシは風のない、汗ばむ室内で、血の気の引いた体温を独り感じていた。心臓がバカバカバカとなじるように暴れまくる。
(俺の……せい……、……なのか?)
「もう会いに来なくていい」という台詞に受けた、生まれて初めての衝撃に呆然としていた。










-続-
7.〜8.>