単発text11_5
此処に眠る。
| - | 既往 |
| <7.〜8. |
| 宙の音色で這う蝸牛 |
9. カカシとマチは、美術館にいた。小山のふもとの急勾配を上がったところに建つ、もとは旧家の山荘だ。故人が収集していた骨董品や絵画をはじめ歴史的価値の高い家屋も、茶室と東屋を有する広い庭もふくめた斜面の一帯が、まるごと保存されながら現在は一般に公開されている。玄関に至る小道の庭では百日紅に代わり、萩が咲いていた。 個々に散って適当にあとで落ち合う流れしか頭になかったカカシは渋味のある緑の大皿の説明文を読むものの、気が散って観賞どころではなかった。歩調を緩めると、マチも停滞して進まなくなるのだ。かといって、自分が進むと彼女も歩きだすからあちらが遅れて差が開くということもない。 彼女は間近の作品を鑑賞するていで全身の目をカカシに注ぎ、追い越さずにいる。そうして彼らは乳白色の四角な香炉の前に並んでいた。「合わせてもらわなくて、結構ですよ」と小声で伝えると、「私も。お好きにご覧になって」とたおやかな微笑を浮かべられた。 どうにも歯車の不具合が解消されぬまま、付かず離れず順路を辿る。踊り場で折り返す大きな階段で二階に上ると、見晴らしの良いバルコニーがあった。屋根付きだ。固い石造りの足場へ出たマチが「いい眺めね」と振り返るから、カカシも秋涼に身を当てた。眼下を横に川が流れ、その向こう岸にどこまでも森が黒く続いている。この方角からだと木ノ葉の里はもっと南の後方となり、町のはずれが視界の左端に掛かるくらいだ。 「よくこの土地に目を付けたな。」 「あら、この下、芝生が植わってるわ。お洒落な庭園ね。」 「アァ、バルコニーと合ってる。」 「ええ。……。四季折々の風景を堪能されてたんでしょうね。あの木も、あの木も、この辺りがいちどきに色づくんだから、紅葉の時期に来るときっと素晴らしいわよ。」 「そうかもね。」 「……。」 「……。」 カカシの思考は、今頃イルカは何をして過ごしているんだろうということに逸れていた。 天井の高くとられた木造の屋内へ這入ると心持ち足を速めて、一、二点の展示は飛ばした。矢印の誘導でざっと各部屋の絨毯を踏み、一階へ下りる。金持ちの家といえばこれだよねと最初に感想をもった暖炉の前を通って、入館料を払ったふりだしの玄関へ。コツの要る重量の扉をウンと押した。秋口の外気が無防備だったカカシに体当たりした。 雲が白く輝いている。空はまだまだ明るかった。やっと居心地のわるい空気から解放されて、彼は一人、必要以上に顔を顰めて眩しいなと呟いた。 (これがイルカ先生とだったら、どうだったのかな。) さっさと個人の時間を愉しむ行動を取ったろうか。それとも、共に進むのが作法で、彼でもそうしたのだろうか。彼なら横に居ても気にならなかったかもしれない。カカシは、同じ物を見た彼の価値観が己のそれと一致するのか、全然違うのかを比べてみたく思った。 さて、そろそろ街へ下りるかと発ちかけた矢先だった。男の肩よりまだ低い位置から、マチが喉の渇きを訴えた。覆面を解くのに場所を選ぶという懶惰な応答に、彼女は大きな鞄から、持参した水筒の赤い頭をひっぱり出して見せたのだった。 「もしかして重たいの、その鞄。」 「平気です。」 「重いなら、持ってあげます。」 「ありがとう、大丈夫よ。」 「そう。」 カカシはマチを連れて、ひとまず傾斜のきつい坂と階段をくだりきって、ひらけた所のベンチで一休みすることにした。 今日の件に決着をつけるまで会わないと言い放たれてから一カ月、イルカとはまだまともに話せていない。 実のところそのことがあった翌々日にカカシは早くも、受付所で働く彼を目にしていた。徹底的に避けられるものとばかり覚悟していた心臓は、くるくる宙返りするように躍った。 ところが、気安く話しかけたけれども、こわい表情のイルカは視線もくれずに事務的な言葉を最低限使って対応した。そして、持ち込まれた紙を処理するやいなやカカシの体が透明にでもなったみたいに見向きもしなくなったのだった。 逃げ回られることこそなかったが、そこにいるのに、邪険に扱われて終うのは辛かった。だから「会わない」の意味を解したカカシのほうが、むしろイルカとの遭遇を回避していた。 勿論その時点からすぐにでも、この後片づけのような用事をさばいて身軽になろうとした。それでも、両者の都合がやっとついたのが一カ月後の本日だったのだ。 10. 日ましに高くなりつつある、澄みわたる青天に思い浮かべたイルカの顔は、凛々しい横顔だった。 カカシはあの男の、どこか海にいる大型の鳥を髣髴させる佇まいが好きだ。なかでも鮮やかに心に残っている一羽は、遠方への任務中に屯在していた海岸で、じっとしていた白い鷺だった。人里の暮らしで見かける青鷺は田んぼに顔を近づけて餌をせわしなくつついているが、波止場の蔵の鬼瓦に留まって動かないその鷺の立ち姿ははっとするほど絵になっていた。 かなたの外海の景色を横一線にぶんどる海の果てを見定めるように、水平線に視線を送って静止している姿勢は誠に美しい。凛然と一点を見つめ、没我の極致を思わせるまでに血肉のしがらみなく、ふらつかず、剥製のごとく微動だにしないのだ。 生きているかぎりいつかは動くが、そいつが飛び立つ際におもむろに広げられる翼の、おもわず見とれる優美さだったり、それでいて歩く足どりに妙な愛嬌があったり、小魚を投げてやると底なしにぐいぐい飲み込んだりするところも見ていて飽きなかった。空中で鳶と揉めても案外勝ったりする。明哲で、ひょうきんで、負けん気が強い。知り合いの目がないと気を抜いて一息ついている顔なんてほれぼれするほど男ぶりがいい。それなのに、へそをぽんぽん叩く仕草や、丼飯をかき込む大口や、――誰について考えているのだか、溶け合いはじめた心象を攫ったのは、 「はたけさん」というマチの呼びかけだった。「この前いらしたときに、話し合った歌、あったでしょう。」 「ん、ああ、ええ。」 潮風のべたつきも磯の香りも跡形もなくなって、カカシは夢からひき戻された。 「身のまどふだに知られざるらむ、ですか。」 それは、古の詠み人知らずの歌だった。 「ええ。」 彼らは文学の趣味が合ったので、図書館で会うたびそうした雑多な談義に興じていた。 「私、あれから何度も何度も読んでみましたの。それで、貴方の解釈は、たしか『心が知らない』でしたよね。」 「うん。どきどきと血を押す心臓を除いた『身』のほうが、そのばくばくする脈動についてゆけずに振りまわされている。そのことを、分離が甚だしくて、勝手に恋に落ちた『心』のほうは解かってないって。自我としての『身』と、臓器的な『心』にすさまじい断絶が生じるのかと。」 「私は、やっぱり『身』がどうなっちゃっているのかっていう客観的な現状を、好きな人に奪われるように持っていかれてしまってもうこの胸にはないから、自分の『心』で自覚することなんてできないわ、という一首だと思うんです。」 「文庫の脚注ですね。そうですか。やっぱり、そっちの解釈のほうが正しかったんですね。」 「正しいというか、私には自然です。」 「そしてみんなにも自然ということだ。なるほどねえ。なんだ、やっぱり俺の読解力じゃ的外れに終わるんだなあ。」 「どう楽しんだって自由だわ。」 マチの励ましにカカシは苦笑した。といってもそれは、覆面の下での微々たる筋肉の動きとしてしか顕れない。 「せっかくお墨付きを得た気がしたのに、がっかりしました。」 「お墨付きって?」 「んー、なんたって天下の勅撰集の、しかも恋歌に収められてるでしょ。だから、この解釈が可能だったなら俺の……アー、この歌を詠んだ人とは、気が合いそうだと思ったんです。」 「勅撰集だからどうですの。結局は撰者の趣味に依ると思います。」 豊かな髪をいつでも太い三つ編みにして胸元で束ねている彼女はその引っ込み思案っぽい地味な外見に反して、特に本の話となると追従せずに堂々と意見した。 「そうかな。」 「ええ。」 マチは水筒の蓋をカップに使った。湯気の立つそれを差し出されたが、カカシは心遣いだけ受け取った。天気がよくて、彼女の綻ぶ頬は薔薇のように色づいている。 カカシは、なぜこの女では駄目なのかと問うた。彼の心臓はその存在を忘れるほどの知らんぷりでいて、答えない。 頭上の葉先が地面に創り出したちかちかするまだらを、彼は木陰から眺めていた。 「ねえ、はたけさん。」 「うん。」 「恋人、お作りにならないの。」 「恋人か。どうだろう。今、確かめているところなんです。」 この答えにカカシは、アカデミーの屋上でぶつけられた質問よりかは悩まなかった。 ――イルカ先生の、味方なの? (疎ましがられているなら、恋人も味方もないけどね。) 「今って、最中なの?」 「マアいろいろあるんですよ。今日のことも、相談をしたらひどく怒らせてしまって。」 「……その方にね。まあ。」 取り違えてにわかに潤んだマチの瞳ははかない結末を知って、一気に反対の意味を帯びるものとなった。 望むものを念じて手をつっ込めばなんでも得られそうな鞄から取り出した、職場でも愛用のタータンの膝掛けを今日は羽織っていた彼女は、力を落とした肩に掛けなおし、 「そう。私とのことを、お話なさったの、意中の方に。」 と心を整理しながら喋った。 「どうしましょう。その方、怖いんですか。」 「ええ。」 「まあ、どうしましょう。私……。」 「どうもしません、俺に怒っているんですから。怒りの矛先を間違えるような人じゃない。」 まじまじと男を見詰めていた女はややあって、驚き顔を元へおさめると、そうですかと縦に首を振っていかにも納得した様子を見せた。それから、 「もう、貴方に融通しませんから。」 と、言い足した。 「そうですか。残念です。」 不意の話題転換だったにもかかわらず聞き返さなかった彼は、それであっさり了承した。食い下がって必死になることはさらさらない。ただ、ここで心底残念がって俯くところが、淡泊加減が心外であった相手から憎しみを削ぐ。そうして人は、何について残念がっているのかを、さて置いてしまうのだ。 「でも、これからもまた本を手に取りにはいらしてね。」 「ええ。全国が涙したという帯の小説でも書かれたら、研究しにいくよ。」 「ふふ、貴方、学者じゃないでしょう。どうしてそんな堅苦しい読み方をするの。」 「普通になりたいんです。『普通』の輪の中に入って、『何々だよね』って言ったら『そうそう』って同意されたい。『こうだよな』と言われたら『俺もそう思ってた』って賛同したい。よく、人との違いを出したいって耳にするけど、理解できないよ。すき好んで仲間はずれに遭いたいなんて。」 「無個性の苦しさを、貴方はご存知ないんです。」 「え。」 「私にはよく解かる。」 カカシは隣に隻眼を向けた。不服を唱える彼女の顔は少し曇ったのち、すっと回復した。 「私も、ひょっとしたら『自分』というもののない複製人間だったかもしれないから。」 まるでぷかぷか浮かぶ追想の花弁を俯瞰するように、両手で囲んだ温かいみなもに目を落として彼女はゆったり述懐した。 「あれは、十四の歳だったかしら。それはそれは、お世話になった恩師がいたんです。十二になる頃から目を掛けて下さっていて、私もその先生に心酔していたの。でもね、十四のある時にふっと、自分の中にあるものはそっくりその先生の思考だっていう考えが芽生えて、そら恐ろしくなったんです。それからはもうどんどん苦しくなっていって、苦しくって、苦しくって、いまだになんて言葉にしたらいいのか分からない感覚に襲われたことがあるのよ。」 「へえ。」 「好悪の判断も、思考の手順も、全てが他人の受け売りで、自分自身のものだと胸を張れるものなんて何もない。今見えている世界は私が見ている世界じゃない、これは先生が見ている先生の世界だ。瑞々しい感性の道を踏まず、若さを素通りして達してしまった老巧の域だ。私には『私』がない。そう思ったらもう虚しくって、情けなくって。しんどいの。それからよ、いろんな作品を手当たりしだいに読み漁るようになったのは。先生が悪書だってけなした本でも開いたわ。」 「悪い子だ。」 「ふふ。そうなの。そういうわけだから私、個性というものを見つけだしたい気持ちはすごくよく解かるんです。」 「俺は全然そんな苦労が分からない。」 「お互い、つきまとう苦悩には目がいかないのね。羨ましい面しか照らされないのよ。」 「隣の芝生はいつだって青いか。」 「無い物ねだりね。」 「けれど、途中で気づいて自力で新しい世界を披いたんだから偉いよ。」 「そうかしら。ありがとう。」 こうして飾らない話の往復もこなせるのに、是が非でもイルカでなければならないという道理もないのに、カカシに分かることといえば、人間の気配を傍で感じるならイルカのものがいい、というくらいのことだった。 「お話ついでに言わせていただくと、貴方って大変なのね。」 「大変って、何が。」 「物心がついてこのかた、これが貴方の普通なのかしら。」 ふう、とマチは一息吐いた。 「私、人生でこんなことってなかったわ。どこに行っても人の目がくっついてくるのよ。こんなに多くの視線に追われて生活していて、貴方、疲れなくって。」 「別に。普段と変わりないよ。」 「私なんて、今日だけでじろじろ見ないで頂戴って叫びたくなっちゃったわ。貴方と連れ添う方は大変ね。」 「……迷惑……なのかな。」 「そうじゃないのよ」とよく使う台詞を口にしたマチは、「どうなのかは、教えませんけどね」といじらしく笑顔を作った。 市街地に着いたカカシは、マチが「ここで十分よ」と言いだす辻まで彼女を送り届けた。 肩の荷が下りたとたん、無性にイルカに会いたくなった。 (なんだか恋しいや。) きれいなものに埋もれて呼吸をしたいカカシにとって、きれいなものとはどんなものなのかを知っているイルカは魅力的だった。 顔見知りになってまもなく、イルカは昆虫の珍しい図鑑を貸してくれた。珍しいのは昆虫の種類ではなく撮り方で、カカシはその図鑑よりも持ち主を面白いと思った。 図書館で、お気に入りの二千頁に及ぶずっしりした用語辞典を棚にしまっていたある昼は、彼ならあっちの棚が好きそうだと通路の彼岸に目をやった。 ある晩は、寝返りしいしい目的のない会話をぼそぼそ継ぎあわせていくうちにイルカが、水晶の六角形がどうだのこうだのと言いだして、あげく二組目の床で手枕したカカシは、食塩の正六面体の結晶構造が美しいという解説に聞き入っていた。無限についての探究史から出発して世界一美しい数式にたどりついた明け方もあった。色気のない寝物語のおかげで、カカシは究極の書き物だと驚嘆したジャンルへの扉を開けた。 趣味の方向は重ならないのに、イルカと過ごす時間はいささかも退屈しなかった。 (終わらせたよ。) 今、脇目も振らずに駆けてゆきたい。 (まだ聞く耳、持ってくれてるかな。) 波の先をじっと見据える鳥が翼の下に畳んでいる誇りと同じものを纏う、あの人の元へ。 凛として真っ直ぐに明日を見詰めるあの人の元へ。 そこまで思って、心臓がそわそわしていることにカカシは息苦しくなった。 -続- |
| 引用: 「523 人を思ふ心は我にあらねばや 身のまどふだに知られざるらむ 読人しらず」 『古今和歌集』(岩波書店、1981年1月 第一刷発行、134頁)巻第十一 恋歌一 |
| 11.〜14.> |