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此処に眠る。

- 掃除

<3.〜4. 7.>
蜜しるべ



5.

台所でポトポト落ちる珈琲の雫をじっくり待ってイルカが熱い二杯目を汲んで来ると、寝台のへりに上半身を預けたカカシは眠りに落ちていた。何時もしゃっきりしない姿勢と目付きでいるが、実際に正体をなくして眠る彼に出会すのは初めてのことであった。好き勝手に跳ねて伸び、旋毛の在り処も分からないボサボサの銀髪を、突っ立つイルカは稀な角度から見下ろした。

二つの余命がこんがらかった此の地点から顧みればありの儘で接していたことになるものの、彼はこれまでに、付き合いきれないと愛想を尽かされて当然の言行を次から次へと曝してきた。そうやって、傷付けるには汚れの足りない人に離脱の口実を提供した。
「利己主義で、常識を糞食らえと思う大人だ。模範的な人間じゃない。もう俺に構うのは已めなよ」と、何度も遠回しに伝えてきた。下忍から上忍にいたる忍を束ねる木ノ葉の統領は、向こう見ずな若人の青春を見守っていたが、イルカが十七の秋に彼を火影室に呼び出して、「御主、専門知識と技能を修めて三年後に教師になれ」と命じた。与えられた任務であるから、彼は勤務の時間は教師の面構えで教育に従事している。特別子供好きでもなければ、崇高な理想を掲げてもいない。しかし、そんな彼の来歴をカカシは概ね寛容するばかりか、素行が目に余ると判断したら直言してくるのである。その毅然たる接し方が、惚れた弱みと言って一から十まで受け入れられるよりもイルカには覿面にこたえた。

愛嬌たっぷりの癖毛とおなじい銀色に縁取られた目蓋を一つしみじみと見て、息をつく。
(気骨あり過ぎだよ、アンタ。)
こんなときに、彼は不図口承文学の古い物語を思い出す。火鼠の皮衣でも蓬莱の玉の枝でも、この人は完璧な真物を取って来そうだと思うのである。無理難題を実現してみせた若殿風の二枚目が、体良くあしらう心積りでいた姫に「あげる」と頓着しない言いざまで献呈する構図が易易と引けた。
斯くして言い募られた側の張り巡らした計略は鮮やかに破られる。変更を迫られた物語では、主導権を握る側の堅持していた志を徹底的に挫いた新手の勝者の望みが叶えられ、自ずから立場が逆転して幕は下りるのである。

イルカが意地悪と本音の狭間で求めたものは、畢竟カカシという存在そのものであった。この人は「あげる」と言って、二つとない素晴らしい宝物を惜しげもなく与えてくれる――その確信めいた実感に彼は怖気づく。恣意的な痛みを間に合わせで乗り切る生き方を、そう軽々とは覆せない。
(意気地無えんだよな、俺。)
椅子に腰を下ろして、イルカは雑誌を開いた。けれども近頃は、まして今は、こうしているとどうしても正面の殺風景な筆立てから一つぎり、異彩を放って飛び出しているまんまるな象へと意識が浮気する。球の図体は、機能面しか重視されていない棒状の筆記具達より幅を取る。が、それはまた、遥か遠方に広がる温暖な南国の風景をついつい思い描きたくなるような、現地の人の大らかさを反映しているような温もりのある土産物であり、筆で手描きされた顔は唯一無二である。
(憎めない奴め。)
とはいえ趣味の良し悪しは別であると自虐に反感を込めてこっそり笑ってから、彼はもう一度、静かに長い溜め息を吐いた。



斜め後ろですうすうと立てられる微かな寝息を聴くともなしに聴きつつ大きな章を幾つか読み終えた、彼が顔を上げると、窓の外では日が傾いていた。風向きが変わり、階下の廂で風鈴がちりんちりんと鳴っていた。あらためて室内に目を戻し、薄暗さに気付いたイルカは繰っていた頁を閉じて、久し振りに相手と向き合うべくもぞもぞと床に移動した。そして、カカシに倣い寝台に凭れ掛かって凝っと観察し始めたその矢先、休んでいたまぶちはぱちりと開かれた。
「あ、起きた。」
「続いてた気配に変……化……て、いうか俺、寝てた……?」
「ええ。」
掛時計の針を見上げて、
「一時間……ああ、もう半も経ってるや。」
と、ぶつぶつ読むイルカに対し、目覚めた方は呆然としていた。
「…………。」
「カカシさん、ひょっとして寝惚けてるんですか。」
「違います。」
「違うと思いました。……あー……の、放置されて、怒ってるとか……。」
共鳴を強要する部類とは波長の合わない彼であったが、時を忘れて記事を読み耽った事は反省した。
「……。」
カカシは、誰かと居る状況下で眠気に引き摺られ、その上長時間寝こけたという自分自身の迂闊が俄かには信じられなかった。
かたや表情の殆どを遮断している相手の動揺を読むことはそうそう敵わないが、ともあれイルカは、覚醒を急かすでもなくおっとりと待った。

「俺、人形になってません?」
「……。」
凡人には付いていけない懐疑を投げ掛けられても一向戸惑わないイルカは、きりっと真面目ぶった顔をして、まごつくことなく恋人のいかれた発想に答えた。「左様、拝見したところ……うん、大丈夫そうです。俺が目を離していた隙に超魔術師に連れ去られて、こっそり返還されてなければ。」
「訊いた俺が馬鹿だった。」
「ふは。」
「……独特の、結界でも張ってありそうですね、貴方の部屋。」
カカシは目頭をこすった。
「なんですか、そりゃ。ああ、でも、気持ちとしてはそういう感じかもしれない。俺、極力人を家へ上げないので。」
我が家への招待の有無を親しみの尺度にする俗習を彼が如何許り疎んじているかというと、自室どころか建物の外観も、明確な住所すら可能な限り明かしたくなく、人に起居の片鱗を覗かれることは、イルカ曰く土下座をされても大金を積まれても合意したくない人物に足の指をべろべろ舐められる位に不快で、おぞましい拷問にも匹敵する一大厄災なのであるらしい。が、その過激な比喩は未だ嘗て一人のともがらからの共感も得られていない。

「さて、そろそろ本格的に起きて此所を出ますか。腹、減ってませんか。」
「貴方はいつも――。」
人の空腹を気に掛けてるんですねと口を滑らしそうになったところで共有していない、瑕疵のある記憶を男はぐっと押込めた。
「飯のことしか頭にないって? まあ、一理ありますけど、さ、カカシ先生。大通りまで出て、何処かで暑気払いといきましょうよ。」
明るくしますね、と言って立ち上がろうとしたイルカの肩を牽制したカカシはもう片方の手で覆面を下ろし、流れるような所作で接吻した。





6.

慾は専ら此方に有って、何彼に付け関心の薄い彼とはそうした交渉を持つことなく、いき過ぎた仲の友達みたいな、親密過ぎる兄弟みたいな付き合いの延長線上にある情愛を重ねてゆくのだろうかなどという日頃の予測があっただけにイルカは、絶え間なく弱点を探る所為に意表を突かれた、その分の遅れがすっかり受け身の形勢に繋がった。躱しても合わせてくる薄い唇の感触を何度か受ける、彼は、
「遅かれ早かれ正気に戻るのならば、程程で飽きて本道に帰った方が拗らせないよ」という助言を思う。妻帯するなり子を望むなりする派閥の人間に、こんな時間は全くの無駄である。
「意味不明な部屋を見て、……、未だ俺に、そういう事する気、起きるんですか。」
「誰かに言われたことがあるの」と胸がざわついたカカシは耳に逆らう答えを先回りして、発言を変えた。
「今更先生の素が視覚化された位で、引き下がるとでも?」
自分以外の人間がどんなに解釈に手古摺ろうとも、大抵それは本人という局地で辻褄の合っていることである。人を家へ上げたがらないイルカがそれを許可した某氏があったと推測される「意味不明」に対する質問を肯定されると甚だ癪であるからして、カカシは手中の彼と現在を紡ぐ。
「俺を誰だと思ってんの。」
「その言い草、何様ですか。」
「カカシ様です。」
「自分で言った。」
「貴方が訊いたんです。」
「ああ言えば、こう言う。」
「アンタも大概ですよ。」
人生を棒に振る気なのかしらんと疑う一方で、かねがね或いはそうなのだろうという気がしていたものだから、イルカも兎や角言えずに付き合っている。この弁は、もとより他人の都合は己の欲望と重なり合う領域の外にあるのだから、必要以上に立ち入るのは余計な御世話という彼の持論を後ろ盾にしたものである。
「……うん。救いようがないんです。」

「それは、そっちだけ。」
頑なに閉ざされていればいるほど抉じ開け、到達して、心髄を突き崩したいカカシは目睫の間合いで囁く。「貴方は多分、俺と居るのが一番仕合わせだと思いますよ。」
面食いでなくとも落ちる場面で頬を赤らめ、返答に窮して俯く男では、イルカはなかった。臭い台詞は腐るほど吐いてきたし、聞いてきた。にも関わらずその場限りの口説き文句をカカシが使うと真実味が出るという、現実だけが悩ましかった。
「ふ。」
真っ黒な眼で対象を見据える、其の下で唇が挑発的な弧になった。「多分、か。自信が有るんだか無いんだか。」
「自明の理かどうかだよ。」
一旦体を離して向き直ろうかとも迷ったが、カカシは口と手を並行して動かし、のろのろ続行することにした。「絶対でなきゃ、不満かい。」
「そんなことは如何でも可いよ。」
枯木死灰を常とする彼のことだからそこそこの区切りでのくかと一方的に思い込んでいたイルカは、色欲を宿した瞳と差し向かいになって、その著しい落差に興奮した。そして、カカシの整った顔立ちの頬をさすりながら了解した、それにしても猶保たれている、彼の冷静を。「奇麗だね、カカシさん。」
と、頤をなぞっていたイルカが、ふっと笑いだした。「そんなことは如何でも可いって顔しないで下さいよ。」

茶化す彼に此の機会を有耶無耶にされて終わる気がしてきたカカシは顎の関節を強く掴んで動かぬようにし、その口腔に深く舌を差し入れ黙らせてから、至極真率に告げた。
「惜しいな。」
この忍の真剣な眼差しには、鋭利な刃物の切っ先を髣髴させる峻酷がある。「御前が思ってるより俺は正しく〈イルカ先生〉を見てる。」
「……。」
それでも怯まないのがイルカの性なのであった。「見る目ねえな……、……喋るか触るか、どっちかにしようぜ。」


「好きですよ。」
淡淡と話す彼が耳元で囁いた声の切なさに、心苦しい私情を嚥下し、イルカは聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声量を絞り出した。
「……ン……。」
そこに正の色付けがなされていたのか、感じて漏らした吐息でしかないのかを審判することは難しく、代わりにカカシは五感を駆使してつぶさに克明に、弛緩しきる前の躰とそれが昂ぶるイルカの過程を自己に刻み込んでいった。唯、イルカが手を伸ばそうとしても、
「俺のことは、いいから。」
と、遠慮とも羞恥とも違う柔らかな謝絶の語勢でその肌を触らせなかった。そうして接触を避ける癖に自らがイルカを撫で上げるのは構わないらしく、服の下の地肌に触れる彼は遣る瀬ないニュアンスで謝るのである。
「御免ね。」
見縊っていた訳でもないがそつなく手甲を外した器用さに存外感傷的になりつつイルカは、複雑な人だと思った。
「今日は最後迄しないけど、色んなとこ触りたい、イルカ先生の。」
率直な人だとも思う。
「好きだよ。」
カカシに好きだと繰り返された、イルカの心には朧な懐かしさがかげろった。

「イルカ先生、好きだよ。」
繊細で、飽く迄も静的で、自信家で、元来はにかみ屋であるのに感情の起伏が読み取り辛いから恐らく人には余り見抜かれない。それでいて、可能性を見出そうとするときには逞しくて、実際にその才覚がある。
(孤独が似合うから、もう少し、あと少しなんて言い訳がましく。かしずきたくなる人だ。)
「抱きたいよ、イルカ先生。」
臨んでいた一線が霞んでゆく。どのみち浅ましい愛欲に乞うは一切からの解放のみである。
他者を隈なく理解し得ない所詮人の子であるイルカは個人の事情に目を瞑り、兎に角そんな声にならなくて良いと解からせたくて、成る丈優しい心になって、それから、払われない背中に手を回して抱きしめた。その優しさが非情と表裏一体であることは、銘銘が把握していた。
「カカシさんは趣味が悪いね。」
女の如き愛と包容力は発揮出来ないにしたって一身を賭して仕えるならば後にも先にも此の人を措いて他にないという直観が、働く度に強くなる。それを自覚の外へ追い払い、イルカは、快感の刺激が受動的に続くことの癖になりそうな楽さを覚えていった。










-続-
7.>