text18_5
此処に眠る。
| - | 掃除 |
| <7. | 10.〜11.> |
| 蜜しるべ | |
―― (喫茶店) ―― 8. 金木犀の角で本道を逸れ、なだらかな坂を上がったところに、異国の情調の漂う煉瓦造りの一軒があった。掛札は営業中である。扉を押すと、珈琲豆の芳ばしい香りがブワリと身体を包んだ。 振り向いた店の若い女に指を二本立ててから、カカシは隅を指した。壁が背面と右にくる一席を選べば、素顔の粗方は人目につかなくなる。 「知ってました? ここの朝食、美味いんですよ。」 一歩下がってついていたイルカは、格子窓から往来が見える椅子を引いた。「何にしようかな。」 「俺は冷たい物ならなんでも良いです。茶……、喫茶店にあるのは、紅茶?」 「これだけ挽きたての珈琲の香りが充満していて流されないとはね。あの箱に入っているのは葉じゃなくて豆ですよ。自然と珈琲を選ぶのが普通でしょうけど。」 「なら、その普通で。」 「じゃアイス珈琲ね。この店なら屹度そっちが当たりですよ、珈琲を専門にしているんだから。紅茶は、又の機会に紅茶屋さんでね。俺は、そうだなあ、ブルーマウンテン……まてよ、コナが入荷されている!」 足を組もうとした弾みでカカシの爪先が、机の下でコツンとどこかを蹴った。 足が長いんだなと思ったイルカは、「俺の」という修飾をしれっと付け加えつつ椅子の下に踵を引っ込めた。 「貴方、本当に来たんですね。」 脇へ下ろした背嚢から用紙を引き抜き、時を移さず仕事に取り掛かるカカシがぽつりと繰り返した。さして返事を期待していない風とでも云おうか、広げた白紙に目を通す彼はどこか独り言っぽい口の利き方をする。 イルカは急にもじもじしたかと思うと、捏ね繰り返す仕草で机に「の」の字を書きだした。 「だって……会いたかったから。」 「一人でやっててね。」 さぞかし諜報系の分野が得意なことだろうと其の実力を認めはしても、恋人はにべもなく取合わない。現在でこそ新人の下忍を連れて、迷い猫探しの初級任務をこなしているが、この始終眠た気な半眼の男は、暗殺もする、拷問もする、時時刻刻と全てが粉々になってゆく修羅場で陣頭指揮も執ってきた、一廉の上忍である。 一方の中忍は、昇格の打診もあり、配置換えの対象になる例外もないではないが、万一に備えたい御上の意向で基本的にはその地位を据え置かれる身分にいた。これは本人の上昇志向とは無関係な次元で決定される里の機密であり、緘口令が敷かれている事項であった。 代代火影を名乗る里長は、戦地に送り出した一級の忍が全滅した場合にも、建て直しを図ることが可能な人材を里内に最低限確保しておかなければならない。木ノ葉には、戦線に立って里に殉じる忍と、よしんば総攻撃の局面を迎えたとしても最前線への出陣が下命されない忍がいる。双方が、エリイトの一半なのである。 「ひっでえ、遊んで下さいよ」と駄駄を捏ねられても、相対するカカシは冷視しペンの尻でコンコンと真っ白な提出書類を叩く。そうして、ちょっかいを出してくる悪戯者に、 「あ、はい、静かにしてます」と言わしめると軽く首を傾けて「宜しい」という諾意を見せて、自らは一言も発することなく記述作業を再開した。つれない冷気で以て邪魔立て無用と警告された、イルカには、間柄に目を暗ませて特待しないその公平性が好ましい。 カウンタアでゆらゆらと紫煙を燻らせていた一人が会計をして出てゆくと、店には客がいなくなった。帰り道の電柱に貼られたビラで、催し用の壇を店内に設えた近場の喫茶店が今晩は軽音楽の生演奏を企画していたと知り、二人は「ああ」と腑に落ちたのであるが、差し当たり坂下の盛り場と隔たりのある此方は、賑やかさとは対極をなして各席の天井から吊るされた柔らかなくちなし色の照明のもと寡言な彼の伏せる片目に影ができ、其の眉目の秀麗が際立っていた。 「……。」 相変わらず爪の形まで端正だと、頬杖を突いてイルカは手甲から伸びる色白の指先を眺めていた。「……。」 「……。あんまり見ないでよ。」 「うん?」 「下手糞だから、恥ずかしい。」 「うん……と、ああ、字を、書くのが?」 「不格好でしょう、俺の字。」 「丁寧に、心を込めて書いたら良いんです。なんら恥入ることはありません。十分読める字ですよ。」 カカシは常々この忍のことを、隅に置けない食わせ者だと思って用心していた。目眩ましに長けていて、敵が大きな爆発に引付けられている隙に、例えばガラ空きの飲み物へ、真珠一粒分の劇薬をすっと落とす。標的を仕留めるのは爆弾ではなく、この一滴なのである。 「イルカ先生は、誉めるのが上手だね。」 「はあ。別段誉めている積りはありませんが。そう言って、俺のことを誉めるんですね、カカシ先生は。」 「別に誉めてない。」 きっぱりと速答されて、イルカは左右一方ずつの眉山と口角を吊り上げた。器用に顔面の筋肉を使う彼の表情は多彩である。 微妙すぎる相形を見逃したカカシは文章を頭で纏めていた。その握られたペンが、フラフラとさ迷う。 「『携え』……ええ、もう、平仮名でいいや。」 「テヘンに」と出された助け船と、 「『たず』、『たづ』?」と袋小路で身動きのとれなくなった声がぶつかった。 「ああ、もう、面倒臭いな。俺、漢字がてんで書けないんですよね。」 「読書家なのに。」 「読めても、書けないの。それでぶっ飛ばされたことは無かったからなあ。」 「誰に。」 「アー……オヤ?」 「親ね。」 「思うにあの人も自分が疎かにしていたとか、そんなオチなんですよ。書けなくても命は落としませんからねえ。暗号は別種のものだし、木ノ葉には従軍速記班もいたし。しかし、然う斯うしておざなりで済ませていたら、窓口に持って行く書き物がある度に出し煩う大人になって仕舞いました。」 「へえ、天才にも死角があったんですね。」 「里に居たらいい恥かきですよ。」 「俺は漢字も得意。こう見えてなかなかの記憶力を持ってるんですよ、えっへっへ。」 「変な笑い方。」 「ふ……ふ。」 齢十三にして天涯孤独になるという憂き目をみたイルカは、作り笑いの日日を生きた。人も、物も、周りが総じて遠かった。飯の味が薄くなった。不注意の怪我が多くなった。傷口は痛くなかった。何かしていないと泣きたくなった。みなが笑う話の全般がからっきし面白くなかった。在る筈の現実は、紙芝居の絵を見ている様な立体感になった。未来が真っ黒になった。その日あった出来事を話す相手はどこにも居なかった。欲しい言葉には金が要った。少年の財産は、身一つであった。脳味噌が処理の務めを放棄した。寝ても寝ても寝足りなくて、四六時中眠たくなった。機械的な世間が織る時間は速くて、乗り遅れた傷心は辛うじて漂流するか、人知れず凋落するかであった。彼の一日一日をどうにかこうにか司っていたのは、血みどろの空元気だったのである。 そうした或る日に少年を、「態とらしい笑い方をするな」と見咎めたのは、火影の令息であった。当時、麻痺した感覚を無理矢理立たせる様に、引っ叩く様に笑っていたイルカはそれ以降、出来得る限り自然な笑いと受け取られるよう心掛けて試行錯誤した。ところが、今度は別の長者に「心から笑えよ」と戒められて仕舞った。叩いては酷使していたふらふらの心は、張り詰めることしか知らなかった。 空々しさの素因にケリを付けるよすがの無い彼は工夫に行詰まった末、思い切って其迄の笑い方を全部忘れることにした。そして、独りでぶくぶくと風呂桶に沈む夜を越え、無心になって一晩中でも星空を仰ぎ、そんな風にして何時の間にか笑うという行為の根本や方法というものを見失っていった。 「アハハ」や「ウフフ」という笑い声を意識的に調律するのはやめにして、出る音を其の儘笑い声としたら、「ヒヒャア」や「キッフフ」になった。それでも「なんだ、その笑い声」と学友の笑いを誘う成果はあって、彼は、気にされるより笑われる方が、よほど事が円滑だと思うようになったのであった。 カカシは、その名残である笑い方を笑いもせずに、ただ変だと実直に言う久々の人間であった。 ――御前が思ってるより俺は正しく〈イルカ先生〉を見てる。 若い時分には弄られることを断固として拒んだ強がりの下を、成長し切った現今になって彼に剔抉されたところでじくじく化膿するでもない。それよりも正鵠を射るカカシの潔白に、ずるずると引き摺られてひりひりする患所を最近のイルカは抱えていた。 「あ、イルカ先生と話してたら間違えた。」 「うわあ、人の所為にしないで下さいよ。」 そこで沈黙の潮時となったので、互いは暫く長閑な静けさを守った。 珈琲好きが大人しく、舌に広がり鼻腔に達する焙煎豆の味や香りをちびちび堪能していると、 「『み』……」とカカシが口を開いた。 「……俺、漢字が苦手って言いましたけど、実は平仮名も苦手なんですよね。特にくるっと回るやつ。『む』とか、『ぬ』とかさ。」 彼が自発的に喋り出す相手は希少である。「どっちに回したらその形に成るのかが途中で分からなくなるとき、有りませんか。」 彼にとって、目の前の男は生きてきたなかで最も多く駄弁を弄した人物であると云って過言ではなかった。 「鏡文字のことですか。俺は無いですが。」 「ああ、『み』は鏡文字にもなるや。けれども字に成りそくなって、崩壊してさ、クチャッとした線にしかならないってことだよ。『ん』だって、凸か凹かに迷った挙句ミミズみたいなビヨンビヨンの線で終わっちゃって。」 イルカにはどんな下らない話をしても受け止めて貰えるような気がした。是迄に出会ったなんぴとからも融通されなかった視座で、とりわけ他人に解かって欲しいと願って成就を諦めた、核の部分を見詰めて呉れる気がするのである。それは先入観に囚われない、カカシの主観を掬いながらもカカシではないからこそ客観に反転出来る悟性のことである。仮令誤解のあるときにも、彼にならば、カカシは手間の掛かる弁明に価値を見出せた。 〈はたけカカシ〉が不格好でも構わない。 〈はたけカカシ〉に下手糞なことがあっても、苦手なことがあっても、良いじゃないか。 イルカのそんな態度に甘えたくなるのである。 皆が知る彼は、「自意識過剰ですね」と悪態つくであろう。それを剥くと、「誰しも欠点の一つや二つはあるでしょう」と優しい顔をして冷然と突き放すであろう。しかし、更に剥き身にしたら、「完全の美しさと掛け替えのない不完全を競わすことが出来るのは、永久の星霜だけですよ」と冷淡を装った優しさで慰める。目の前に居るのに最果ての地で笑っている。そうして彼の終点へは行き着けぬよう万人を立ち止まらせようとする。それがうみのイルカなのであるとカカシは思っている。 (止まれば負けだ、俺は突き進む。) 「そう言えば、うかうかしてたら文字の順序も入れ替わるんですよねえ。ないですか、そういうとき。」 「俺は、ないですね。まあ今日は時間もあることですし、落ち着いて、ゆっくり書いて下さいよ。」 はあ、と例の遣る気の無い返事をしつつカカシは着実に記入欄を埋めていった。 9. 「終わった!」 「おお、やりましたね。」 腕を伸ばして達成感に浸るカカシは、さも自尊心高そうに「フ」と息を洩らした。 「ま、やってやりましたよ。」 イルカの寸劇癖がじわじわと移ってきた彼は言うまでもなく、ほいほい便乗した不真面目の感染源は露骨に芝居染みていた。 「素晴らしい、貴方にかかればどんな難題であれ御茶の子さいさいですね。」 「フン、まあな。」 たかだか提出書類一枚で、と説く役割は不在である。 これを機とみたイルカは、到頭ズバッと此の日の用件に突入した。 「そんなカカシ先生にとったら、部屋の掃除なんぞはさぞかし朝飯前なんだろうなあ!」 「……。……、……。」 「その顔じゃ、片付いてないんですね。」 目をぱちぱちさせていたカカシは、一笑に付した。 「ハハ、清清しい放置具合です。」 「尻に火が付いてもなかったんですか。」 再三応援してきた方はあんぐりと口を開けた。 「だ、だって……億劫なんだもの。先生は、言い出さなくなってからもずっと覚えてたの?」 「当たり前じゃないですか。覚えていたも何も、俺は待っていた丈ですよ、貴方の片付けが進んでいることを祈りつつ。」 「そんな、」 「『まさか』は此方の科白です。」 「む。」 「あんなに口を酸っぱくして促していたのに、着手もしていないなんて。」 「う……。」 「じゃあ、善は急げというわけで、明日、御邪魔するとしますかね。」 「あ、明日?」 「はい。折良く週末ですから。手伝います。」 「て、え?」 「朝の、八時半位から始めましょうか。」 「は……、無理だよ、起きてない。」 「起きて下さい。」 「それは早いって。ていうか、本気で明日来る積りですか。俺の都合は。」 「御予定が?」 「八時半集合なんかにしたら、貴方は全体何時に家を発つことになるんです。それに、だから、俺、いま、夜型生活になってるから寝てますよ。」 「今日まで腰を上げなかったカカシ先生が悪いんでしょう。」 「く。……いまから片付けるから、来なくて可いです。」 「いや、もう、夏から待って始まりすらしないんだから、その線は此の際捨てましょう。」 大気が炎の如くゆらめく道端で夏期に捻じり鉢巻きと独特の節回しで氷菓子を売っていた行商人が、薔薇色に暮れる窓の外を、鳥打帽を被る石焼き芋屋になって横切って行った。 「手伝いますから。一緒に奇麗にしましょう。だけど、そんなに散らかってたっけなあ。」 不意の回想に、疾しいカカシはひやりとした。 「あの時は、そう散らかってるように思わなかったんですがね。」 「……あの時って……。」 したたか酔ったイルカを担いで帰ったカカシが、苦汁を舐めた夜のことである。その晩の彼等は初対面も同然であった。 「何を、覚えてるの、貴方。」 「いいえ、然程。すげえバタバタした朝だったし、あれから随分経ってるから……。自分の脱ぎ散らかした服を拾った記憶は有りますが。其が意識のなかで目立つということは、奇麗な部屋だったということではないかと。」 「ああ……、ウン。では、奇麗だったんでしょうよ。」 「当時の彼女が掃除して呉れてたとか。」 「イルカ先生。」 「はい。」 「俺、貴方とそんな話をしたくはありません。」 「あ。それは、御免なさい」と粗忽を詫びたイルカは、肚で恋人の傾向を試していた。 抜け目なく人格をつつかれた方は、憎たらしい奴の髪をぐしゃぐしゃにしたい苛立ちを持て余していた。 「飽きた。出ましょう。」 「あ、済みません俺、二杯目注文んじゃいました。」 「何時の間に。」 「カカシさんが書き終わる直前に、目配せと身振りで。」 カカシが視界の端に入れていた時には空席のカウンタアで、集めた雑誌の切り抜きをいそいそと台紙に貼り付けていた女は、丁度そう話すイルカのカップに御替わりを注ぎに来た。 やることがなくなった男は、手元でごそごそと何かを始めた。湯気の立つカップを傾け、イルカがさり気無くその経過を見ていると、長細い空き袋を蛇腹に折り畳んでから、そこへコップの水を数滴、吸い口を指で押さえたストローを使ってぽとぽとと垂らした。水分を含んだ袋は生き物の様にウニョウニョと三歳児が喜びそうな動きをして、へにゃへにゃに伸びてとまった。 「カカシさん。」 「蛇。」 「そういう事、しない。」 「暇なんだもの。」 「とっとと飲み干しますよ。」 「落ち着いて、ゆっくりでいーですよ、時間もありますから。」 「へーへー、そりゃどうも。」 「む、可愛げがない。」 「出ました、伝家の宝刀。俺に一体何を求めようってんですか。」 「……、……。」 答えは、差詰め飼慣らすことの儘ならぬ性質であり、それはとりも直さず可愛げの無さであるという振出しに帰着したカカシは悔しくなっておし黙った。 「え、何、黙るってことは、言えないような……、破廉恥です!」 「違うわ阿呆、脳味噌が腐り切ってるんですね。」 「冴え渡る毒舌ですね。俺だから耐えられるんですよ、その破壊力。」 「こっちの台詞ですよ、そのぶっ飛んだ世界観。」 「……。」 この譏刺で打開は図れないと悟ったイルカは、最後に負け惜しみを放った。 「……俺が、もっと別の容姿だったら、」 「その仮定は無意味です。外見を度外視して内面にのみ惚れることが出来るなんて少なくとも俺には理解不能な心の動きです。貴方は、その体でその中身だから貴方なのであってこれから先の変化における云々はここでは措くとして、出逢った時点で別の外見であったならとぼやかれたって、ならば好きになっていなかったとしか言いようがないですね。これで満足ですか? 貴方を構成している何に不満があるんです。逆に俺が女だったら貴方はとっくの昔に抱いて孕ませて祝言でも何でも挙げて今頃は俺の細君ですとか何とか触れ回って得意顔でいたんですか。俺が誰への罪をかぶったら貴方の気が済むんだか訊いてみたいもんですね、楽しくないことは目に見えているので訊きませんけど。それでも異存があるなら最後までどうぞ。」 淀みなくすらすら意見し終わると、カカシはイルカと目を合わせた。 「若しかして、怒ってます?」 「さあね。」 「……。」 ぷいと横を向いた此の人と、自身とを巡り逢わせた絶大の力に、イルカは感嘆した。それは星を載せた夜の天を、星座早見表をずらす容易さで遥か彼方から動かす何者かの、巨大な手の力と同じである。彼は、そう感じずにおれなくなる。 (なんだよ、始末に負えねえな……、此の人の怒り方も好きだなんて。) 店を出ると、金木犀の甘い匂いが何処からか風に運ばれてきた。 -続- |
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