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置いては往かない。
三橋視点 | 阿←三 | デートしようよ;ずっと ずっと |
<3. |
化石になっても君の傍で |
4.-三橋の回- 『また来りゃいい話だろ。』 阿部くんはいつも、舞い上がりそうになる科白をサラリとオレの上に落としてくれます。 (問いと答えの本当は噛み合っていないこと、それはオレだけが知っていればいい。) その時にくれる言葉ももちろんオレには大切な宝物ですが、何よりもその時の阿部くんの、至って〈普通〉な様子がオレを仕合わせに浸らせてくれるのです。なぜなら、阿部くんの〈当たり前〉な世界の中にオレがトプンと溶け込ませてもらえたような、そんな心地がするからです。 この先、オレの人生が終わるまでにあと何回、オレは阿部くんを待つ時間の中でこんなふうに水槽を覗くことがあるでしょう。 もう、二度とないかもしれません。だったら今日は特別な日になります。だけど、オレにとってそれはあまり嬉しいことではありません。〈特別〉と聞くと、こっそり何かと線引きされてしまったような、自分の周りに目には見えない膜が張られてしまったような、そんな感覚の方が先に立ってしまうからかもしれません。空から降ってきた枠にスポンと体を囲われたようなイメージが浮かんで、要するにオレは〈特別〉という中に自分が陥る事態が苦手なのです。有限的だという気もするうえ、孤立の感も付随します。 ――オレの夢は、阿部くんの〈日常〉に融解することです。 ――阿部くんの〈普段の日々の連続〉、その中にオレの〈日常〉があったなら。 ――そしてその、〈日々〉こそが〈人生〉ならば。 そう、オレは欲張りなのです。 だから、青や赤や、黄色い斑のミックスグッピーがヒラヒラ、ヒラヒラと泳ぎ回るのを見ている今を、特別だなんて思いたくはないのです。 (こんな今日が、何度も欲しい。) オレにとっては〈特別〉よりももっと価値のあること、それが〈ありふれたシーン〉なのです。 ――貴方がカルキ抜きを探してどこかの棚のあいだで腰を屈めている。 ――それをオレが、することもなく待っている。 (願わくばこの今が、なんの変哲もない思い出の一つとして、無数の毎日に埋もれていきますように。) 叶わないと分かっているのにオレはどこかでこんなふうに、ワンシーンの先にある貴方の未来の、その景色の中に在る自分の姿を夢見てしまうのです。 貴方との無数の毎日。それはたった一人の誰かが手に出来る特権で、だけどオレにはどれだけ手を伸ばしても届かない、伸ばすことすら許されないケージの向こうにある光のようです。 『また来りゃいい話だろ。』 阿部くんの何気ない一言を、オレは阻まれた金網に指を掛けたまま何度でも反芻します。 心の表側は、今すぐにでもこの金網を蹴破ってケージの向こうに走り出したくなるほど喜んでいて、だけど裏側は、その触れる金網が切れそうなほど痛いと泣いてその場にへたり込んでいます。オレはそんな自分の心の混濁を噛み締めます。 これが、オレの魂がした、たった一度の恋という想いなのだと思うからです。 (阿部くん……。) 『俺を見失うなよ。』 頭の中で返された阿部くんの返事に、オレはハッと我に返ると自分がまた青褪めていくのが分かりました。今度こそ置いて帰られるかもしれません。急いで辺りを見回してみましたが、阿部くんの姿がありません。思わず癖でTシャツの前をギュウと握り締めたオレは、とりあえず水槽から離れました。 棚と棚のあいだにヒョコ、ヒョコ、と顔を出して回りますが、阿部くんはどの隙間にも挟まっていません。最後の列をヒョコリと見たら、棚の前ではなかったけれど、阿部くんがその先にいてくれました。しゃがみ込んで、目の前の箱を夢中で観察しています。そこにはウサギが入っていました。 オレは邪魔をしてはいけないと思い、静かに一つ前の棚まで後ずさると裏を通って阿部くんの後背に出て、それからそっと横まで近付きました。阿部くんにこんなにも真剣に見詰られているウサギにオレはほんの僅か、少しだけ嫉妬してしまいます。阿部くんに倣ってその横に座ってみましたが、オレは見向きもされません。 ついさっき通ってきた棚の列を振り返って見て、次に前方奥の天井からぶら下がる看板のDOG&CATという文字を見て、視点をぐっと近くに引き戻して阿部くんの左耳の形を見て、ウサギの鼻だけがずっとヒクヒク動いているのを(変なの)と横目に見て、阿部くんの睫毛を見てからオレは、 「阿部くん。」 と、呼び掛けてみました。 なぜだかすごく驚かれてしまい、オレはそれにビックリしてしまいました。どうやら見向きもされないどころか、声を掛けるまで気付かれてさえいなかったようです。確かに邪魔をしてはいけないと思い静かに近づきましたが、真横に付いてなお存在に気付かれないとなると、そこまで気配を完全に絶てるオレには忍者の素質があるか、それほど阿部くんには微塵も気にされていないということかのどっちかだと思います。多分今回は上手く気配を絶ちすぎたせいだと思います。さっと立った阿部くんはつれなくレジに歩いて行ってしまいましたが。 一人の時にはあんなに熱心にウサギを見ていたのに、オレにはそんな姿を見せてくれないみたいです。少しガッカリしたオレは最後にちょびっとだけ、透明の箱に顔を近付けてみました。 (動物って、予測不能な動きをするから苦手なんだよ、ね……謎っていうか、意味不明っていうか、何を思っているのか、よく……分からない。) (可愛いと思えるポイントも、よく分からない……し……。) 阿部くんを魅了していたと思われるこの恋敵さん(仮)は、素知らぬ顔でいます。 (……。) オレも澄ました顔を作ってみせて、そんな彼女もしくは彼を後にしました。 帰路の電車でオレは、阿部くんと並んで長いシートに座りました。電車が動き出してから、もっとくっ付いて座ればよかったと後悔しました。一駅着くごとにドアがプシューッと開きます。その音を合図に決めてオレはその都度密かににじり寄り、阿部くんとの距離を縮めていくことにしました。 三回目の侵攻を終えたのと、阿部くんが足を組み替えたのとが同時でした。彼の手首に通された水槽用品入りのビニール袋はガサリと揺れて、それまで膝の上に置かれていた映画のパンフレットが不意にオレとのあいだに立てられました。 (なぜ、よりにもよってこっちの側面に持ってきたのですか。) 阿部くんの右脇腹に寄り掛けられて、突如壁のように立ちはだかったパンフレットの表紙を見て、思わずウグッと唸ってしまいます。顔を上げたら、阿部くんの視線とかち合いました。 「……何。」 ――たとえば貴方とのあいだに在る全ての境界線を水飴みたいにトロかせて、貴方の世界に、オレは融解してみたい。 阿部くんが訝しがるのを、はぐらかすように答えます。 「うん、と……また、行きたい……映画。」 「予定が合えばな。」 そう言うと、阿部くんはすっとパンフレットブロックを解除してまた膝の上に乗せました。 「俺、映画のパンフレット集めよっかな。」 それをパラパラと見返しながら続けます。「初めて買ったけどさ、これ、すげえカッコいい作りしてると思わねえ? 俺これから映画観に行ったらそのパンフレット買って帰ることにして、収集しよっかな。」 「こ……これから?」 「そう。」 「今日、からってこと?」 「うん。」 「……。」 「?」 「うひっ。」 「ええ、何、こわっ! なんの笑いなんだ、それは!」 阿部くん、阿部くん。オレは、自分が思っていたよりも、もっとずっと欲張りなのかもしれません。 「さ、賛成の、笑い……。」 「ええ、……あー、……そう、……へー、……。」 だって、今は〈特別なシーン〉でしょう? 自分と一緒に観た映画が記念すべきパンフレット第一号になったとか、そんなことはどうでもいいのです。自分との事柄であるかどうかなんてことより、阿部くんの中にこれから何かが続いてラインになってゆくこと、その起点が芽生える瞬間を目撃できたということこそが、オレとっては重要なのです。 なんでもない点の連続が作り出した〈線〉こそが特別で、特別な〈一点〉なんて別に要らないと思っていたのに。オレは今、こんなにも仕合わせな気持ちでいます。 こんな〈特別〉になら、もっと立ち会ってみたい。いつかオレが阿部くんから遠く遠く離れてしまっても、貴方はこの世界のどこかで、オレがいつかその誕生を見た点を延ばし続けて円を描いているのだと、貴方に想いを馳せられる、そしてそれが、オレの生きる糧となってゆくから。 阿部くん、どうやらオレは、ずっと貴方を感じていたいらしいです。 貴方が当たり前だとする世界を。そして、貴方に訪れる特別な瞬間を。 貴方の隣にいられる今も。そして、貴方の未来に弾かれてからも。 (全部に、ずっと触れていたい。) きっとオレは、時空を越えて貴方が好きだ。 電車を降りると、二人とも自転車を停めた場所が違ったので改札の前でバイバイしました。 オレは少し歩いて、こっそり振り返りました。阿部くんの、無防備な後姿を想像して。 そしたら、心臓が止まるかと思いました。阿部くんがまだバイバイした場所にいて、しかもこっちを見ていたからです。 慌てて手を振って誤魔化して、それに対する阿部くんの反応を見るより前に、オレは一方的にまた身を翻してさっきよりも早足で歩き始めました。右に曲がる角まできた時、今度こそ阿部くんはもう後姿になっているだろうと思って改札の方を見たのですが、また阿部くんと目が合いました。 合った瞬間、笑われました。 オレの核に、そんな貴方を焼き付けておいてもいいですか。 終. |
長い。 |
線路は続くよどこまでも…『愛しているのは君だけだ』> |
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