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置いては往かない。

浜榛浜 浜泉 past;夜半

<1.〜4.
昔日の陽



5.

「……おい? おーい。」
「……。」
ぬっと振り出された手の平で星星を隠された浜田は、何も言わずに手首を掴んでそのヒラヒラと舞う動きを制した。
「なんだよ、お前。」
本来なら視界を遮られた側が言いそうな科白を、手を伸ばしてきた側が口にした。
しょうがないので、静かでいた彼も要望をしぶしぶ声にした。
「しょっぱくなるから、もうあんまし喋んないで。」
「は? 何、ケンカ売られてんの、俺? つか……、」
そこで、榛名の声音が一段低くなった。「離せよ。」

「怒んなよ。」
扱いは難しいけど分かりやすい奴だなあ、と浜田は思う。どうしてお気に召さないのかは知らないが、何に不快感を顕わにしたかは明白だった。
(手首を取られてるのが、そんなに嫌か?)
星を仰いで駄弁を弄していた、気安い直前の雰囲気はどこへやら、今の榛名は威嚇の空気を放っている。不快感というより、どこか神経質で過敏になっているといったほうが適切かもしれない。
そんなピリピリした気配に気圧されるでもなく、一切から切り離されて漂っているような感覚で生きている十六歳は、淡淡と思いを巡らせた。
(下手なこと言ったらこのままマウントポジション取られそう。)
間近に距離が詰まっても逸らすどころかむしろ見据えてくる眼に、動物的な野性がグリグリと刺激されていた。好戦的な態度がいい。その裏に確実にあるものを、彼は知っている。黒い瞳の奥には、間違いなく必死に庇われている傷がある。
(どんなかな。)
それを想像すると心臓が興奮しだしてズキズキと疼く。が、別に喧嘩を売っているつもりなどは毛頭なかった。

腹の底で、(この状況でこれが女の子だったら確実にソッチの空気に持ち込んでんのになあ)と思って出た形容が「しょっぱい」だったが、真上から強烈な力を持った黒目に覗き込まれているうちに仮定の部分が存外不安定で脆いことを見出してしまった浜田は、接近した双方を繋ぐ言い方を探した。
「そうじゃなくって……、」
「おい、どうでもいいけど、いつまで掴んでんだよテメーは。」
そう言ってじっと見てくる双眸が、霞み始めた判断力の低下に拍車をかける。
「……ああ、ゴメン。」
最初からさほど強く拘束していなかったその手に力は込められていなかった。
そんな力の加減を体感しているだけに、
「離せって」と繰り返す声にも戸惑いの気色が宿る。自分のほうで振りほどいてもいいはずなのにそうしないでいる榛名は、動作を抑制しつつ手首を包む熱の由来を想像していた。
「うん……」と上の空で答えるものの、己の開かない五指の不思議についてより、暗がりでも分かる潤いを湛えた眼がじっと見返し続けてくる、そのことにばかり気を取られて仕方がない。そんなふうに浜田自身もまた、見詰めてくる相手から目が放せないでいる。その漆黒の瞳の金縛りに遭っているんじゃないかと錯覚を起こすほど、釘付けになっていた。

「なあ……。」
「……うん。」
「うん」と肯く素直な返事のわりには手首から相手の熱が一向に離れないでいる、榛名はそのことにばかり気を取られて仕方がなかった。だから、自分の顔がさっきより少し下に落ちていることになんて意識が回っていなかった。
捕まったら終わりだという未知なる極度の緊張感に、頭の天辺から爪先に至るまでを支配された。その身体に凄まじい量の風を受けて街を走り抜けてきた、あの危うい高揚感の余韻が彼の中でじわりと滲んでドクンと広がった。猛っていた気分がそのままスライドしてきた形で体内に再び螺旋を描きだす。
この際、何に突き動かされているかなんてどうでもいいことだった。
それよりも、収集不能なほど膨らんでゆくその衝動をどうするかが、その時の全部だった。

「……ねえ、俺の名前、いつ聞く気?」
不意の問い掛けに、作り上げてきた情緒を壊されてグラリと崩れた榛名の心は脱力という大義名分の下、浜田の上にその身体を押し付けた。
「ハ、ハルナちゃん?」
呼ばれておもむろに顔だけちょっと浮かせた、彼は小さく呟いた。
「なんて呼ばれてえんだよ。」
いつのまにか、今度は浜田の手首に榛名の指が絡み付いていた。
「い……」と空気が持ち直したちょうどその時、無機質な電子音が鳴った。

(誰だよこのタイミングで電話してきやがって!)
割って入った単調な音が榛名の癪に障った。
着信を知らせているのは浜田の携帯で、開きかけていた唇はゆっくりと元の形に戻ってしまった。
身体を捻ろうとしている動作を察知した榛名は、その顎を利き手でグッと固定し、顔ごと注目を自分へ向けさせる。
「ちょ、タイム、携帯鳴ってる。」
「知ってんよ。」
「……、いや、じゃあ、出ねえけどさ。うるさくね?」
「いいよ切らなくて。俺気になんねー。」
その流れの果てに二人の青い春が暴発した。浜田はこの日、重ね着していたTシャツの一枚を駄目にした。





三.





6.

「俺にとっても暗黒史だよ。」
生温い目をした浜田が正面の黒い池の水底にまで、その昔日の陽に似た思い出をそっと沈めてしまうように呟いた。
「だったら。なんで突然連絡なんか寄こすんだっつーんだよ!」
不貞腐れたようにベンチに凭れた榛名は、苦々しい表情で頭をガシガシと掻き毟った。
「俺ね、今、援団やってんだ。自分トコの高校のね。野球部の。」
野球、と聞いて息が止まりそうになったものの、そっけない態度を守って「へえ」と相槌を打つ。
「復学してたんだ? てっきりドロップアウトしてるもんだと思ってたぜ。」
「はは、まあダブったけどね。当然ながら。」
「ふーん。」
「ハルナちゃんは?」
「あ?」
「野球、楽し?」
「まーな……つか……え、なんで知ってんだよ!?」
「武蔵野第一のスゲェ投手、やってんだろ?」
「ハ? なんだそりゃ……てか、なんで知ってんだよ、だから!」
彼らは互いに自分のことなどほとんどなんにも話さずに別れて、それっきりでいた。榛名にとっては確かにそうだった。
しかし浜田に限っては、野球部の情報が耳に入る生活になってまもなく、必然的に「ハルナ」との一方的な再会を果たしていた。そうして初めて、自分が教えられたのは名前ではなくて名字だったのだということを知ったりした。
「援団やってるっつってんじゃん、ホント面白いな、ハルナちゃんは。」
その顔が、思わずほころんだ。

「チャン付けすんなっつってんだろ! あん時はお前、もうそんな会うこともねえだろうと思って放置してやってたけどな、鬱陶しいからやめろ、それ!」
勢いよく向き直って、一年ぶりの表情をこの夜初めて真っ向から捉えた榛名は、心の突き当たりでなぜだか微かにほっとした。それがなんとなく照れ臭くてすぐにぷいっとそっぽを向いてしまったが、勢いづいて詰め寄った分の距離はそのままだった。
「んで、どこの? 援団やってんだよ。」とぶっきら棒に訊ねたら、
「西浦。」
そう一言、浜田が答えた。
「あっそ。」
「……。」
「……へー。」
「……。」
投手は、特定の捕手を思い浮かべていた。西浦の応援団長は、沈黙をうち守っていた。
「……。」
「……。」
黙然としていた榛名が片膝を立ててベンチの縁に踵を掛け、その膝頭に顎を乗せるみたいに丸くなって下目遣いで砂利のツブツブを見詰めながらボソリと質問を重ねた。
「バッテリー、どう。」
「元気だよ。」
質問に対する返答としては多少ズレているようにも思われるその答え方は、その実、本当に聞きたかったことを見抜かれているからこそのものだった。返事の早さがそれを裏付けている。榛名は、憎たらしいと思った。
「バッテリーがどうかって聞いてんだよ。不可解な返し方しやがって。」
「あ、そ?」
「……お前。根性悪いって言われんだろ。」
「じゃあ、ハルナちゃんは性格悪いとか言われてんの?」
「ああ、もう! お前と喋ってっとやっぱ苛苛する! マジで来なきゃよかった、今日!」
「あははは、俺はすげえ楽しいのに。」
と、その時だった。携帯の着信音が、いつかの時のようにまた閉じた空間に小さな穴を開けた。無機質な同音が一定のリズムで繰り返されるだけで、相も変わらず個性のコの字もない。
「またお前のかよ!」
浜田は、また、に封じ込められている記憶の濃さに苦笑した。
「早く出ろよ、電話だろ、そのしつこさ。」
「あれ、出ていいの?」
ニヤッと上がる口角にカチンときた榛名は、腕を伸ばすと持ち主の手から乱暴に携帯を奪い取った。
「これでまた、イズミちゃんからだったりしねえだろうな……あ!」
「ちょっと待ってハルナちゃん! 返して! マジだから!」
「マジでイズミちゃんからじゃん! ぶひゃひゃひゃ! 何、お前! どんなミラクル起こしてんだよ一体!」
「笑えない、笑えない!」
ディスプレイにはあの時と同じように『いずみ』と、漢字変換の手間を省かれた登録者が表示されていた。

(泉ー! とっとと諦めて一秒でも早く切れー! 後で絶対掛け直すから!)
持ち主が懸命に念を送るが、どういうわけだか今日に限ってちっとも鳴り止む気配がない。
「俺が出てやろっか?」
「マジでやめろ!」
制止する声の彼らしからぬ真剣さを汲み取ったかのように、すんでのところで携帯がピタリと静まり返った。が、そう思ったのも束の間、胸を撫で下ろした浜田が抗議しかけた矢先、再び榛名の手の中で携帯は鳴り始める。
(泉ー! なんの用だよ、絶対大した用事じゃねえよ!)
顔面蒼白の顔をギュムムと大きな手の平で押し返しながら悪戯っ子が今日一番の不敵な笑みを浮かべて見せた。
「俺が出てやる。」
言うが早いか、彼の親指は無情にも密かに通話ボタンを押していた。
「やめろー! お願いだから返してハルナちゃん!」
もう全力でもぎ取るしかないと決断した浜田はとりあえず悪戯っ子の口を片手で塞ぎ込み、意地でも奪い返すという意気込みで、囚われた携帯めがけて腕を突き出した。すると敵は、意外にもあっさりと持ち主の掌にそれを落とした。
(なんだよ、イズミちゃんって本命なのかよ?)
榛名はてっきり『いずみ』を下の名前だと思い込んでいた。いつかの誰かさんも彼に対して同じような誤解をしていたが、今回はする側に回っている彼の勘違いは現在も訂正されることなく継続している。そして、女の子だという一年前からの榛名の思い込みに、浜田はまだ気付いていない。

「も、もしもし!?」
奪還した携帯画面の『通話中』に激しく動揺しながら、『通話中』である以上挨拶もしないうちに切ることもできないわけで、他に選択肢を広げられない浜田はとにもかくにも応対を始めた。「どうした泉、なんかあったか!?」
『……あー、浜田センパイですか。』
「ええええ!? あ、ハイそうですけど……て、ちょっと泉、何その氷点下の声!?」
『いえ、夜分遅くにスイマセン。特に用事ってわけでもなかったんです。』
「待って待って、ちょっと落ち着こうか!? なんでそんな他人行儀になってるのかな!?」

(ぶっ!)
騒がしい男は口元を押さえて精一杯笑いを堪えていた。
(ちょっと! 最悪だよお前!)
浜田がヒソヒソ声で横に苦情を入れる。

『お取り込み中のようですんで、もう切りますね。』
「いや全然、取り込んではないんだよ!? つーか何、取り込み中って! ホント全然、そういうアレじゃないからね? ただちょっと手違いっていうか、」
『それじゃオヤスミナサイ、『ハルナちゃん』にヨロシク。』
捨て台詞とともに電話は、可愛い(はずの)後輩から一方的に切られて終わった。


「もー! 最っ悪だよ、お前! 泉がヘソ曲げたらどんだけ面倒くせえと思ってんだよ、もー!」
「さー? 俺には知る由もない。」
「お前のこと女だって十中八九誤解してるよあれは!」
「天罰だな。馴れ馴れしいお前がワリィんだよ。」
「一緒に謝りに行こうよ。」
「ハ? バッカじゃねえの。ぜってー行かね。俺はもうお前とは会わねえ。どっかで会っても赤の他人な。」
そう言い放つと榛名はベンチから立ち上がって、歩き出した。なんの未練もなさそうな足運びに、釣られるように浜田が続いた。
「えー、せっかく番号も変わってなくて連絡付いたのに? たまには飯くらい食いに行こうよ。」
肩を並べて歩く何も考えてなさそうな男をチラリと見て、
「まあ、俺様の性奴隷としてでもいいってんなら? 関わってやってもいいぜ、じゃあ」と榛名がうそぶくと、一人暮らしの孤食に甘んじている彼はブッと噴き出して、すかさずその発言者の後頭部を一発叩いた。強い黒髪が粗く揺れた。
「飯だっつってんでしょーが。発想がエグすぎるよお前。俺の中のハルナちゃん像を穢さないで。」
「お前のその気持ち悪さもどうなんだ。」
「ひど!」
「オメーがひでえわ。」
二人の中で、あのベンチが集合場所になりそうな予感がプンプンしていた。










終.
概ねそんな感じです。
浜泉side…『the morningstar』>
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